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仕事の人  作者:


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恋人だったら

 

 彼女が選んだ式場の写真を、俺は三回見逃した。


「……見てる?」


「見てる」


「絶対見てない」


 向かいで彼女が笑う。


 柔らかい声だった。


「最近ほんと上の空だよね。仕事そんな忙しい?」


「まあ、ちょっと」


 嘘ではない。


 でも仕事じゃない。


 頭に残っているのは、雨の匂いと、あの一言だった。


『あー、仕事の人』


 仕事の人。


 それだけで片づけられた。


 終電後に呼ばれて、迎えに行って、泊めて、飯を食わせて、喧嘩して、朝になれば何事もなかった顔でコーヒーを淹れた相手に。


 友人ですらなく。


 仕事の人。


「ねえ、こっちとこっちならどっちがいい?」


 彼女がスマホをこちらへ向ける。


 白いチャペル。

 ガーデン。

 親族席。

 披露宴会場。


 ちゃんとした未来の写真ばかりだった。


「……どっちでも」


「それ一番困るやつ」


「悪い」


 彼女は少しだけ困った顔をした。


「大丈夫? 本当に」


「大丈夫」


 そう答えながら、俺はまた画面を見ていなかった。



 会社での太一は普通だった。


 普通に出社して。

 普通に会議に出て。

 普通に資料を回してくる。


「この件、修正版送っときました」


「……ああ」


「先方、明日の午前なら空いてるらしいです」


「分かった」


 それだけ。


 敬語混じり。

 距離のある声。


 前はもっと雑だった。


『腹減った』

『今日帰りたくねぇ』

『迎え来い』

『お前んち寄る』


 そういう言葉が、いつの間にか消えていた。


 昼休み、太一は別部署の連中と飯を食っていた。

 笑っている。

 普通に。


 その手元のスマホが震えるたび、太一の表情が少しだけ柔らかくなる。


 俺はそれを見ていた。


 見ている自分に気づいて、吐き気がした。


---


 残業が長引いた日だった。


 給湯室でコーヒーを淹れていると、廊下の向こうから声が聞こえた。


「うん、今日はそっち泊まる」


 手が止まる。


「いや、飲みすぎないって」


 笑っている。


「分かった。帰る前に連絡する」


 電話が切れる。


 俺は気づく前に口を開いていた。


「……最近、毎日そいつんとこ?」


 太一が振り返る。


 一瞬だけ、顔が引いた。


「何その質問」


「答えろよ」


「お前に関係なくない?」


 正論だった。


 でも、止まらなかった。


「俺の時は、そんな顔しなかった」


 沈黙。


 給湯室の冷蔵庫が低く唸る。


 太一は少しだけ目を伏せて、それから静かに言った。


「恋人じゃなかったからだろ」


「……は?」


「今の人は、俺のこと恋人として扱うから」


「俺だって」


「違う」


 初めて、はっきり遮られた。


「迎えに来ても、泊まっても、飯食っても、抱かれても、喧嘩しても」


 太一は俺を見た。


「お前、一回も俺を恋人にしなかった」


 言い返せない。


 全部、本当だった。


「あの人は違う」


「……」


「ちゃんと名前つける。隠さない。俺が横にいても、困らない」


 太一は少し笑った。


「だから俺も、その顔する」


 恋人だったら。


 その言葉が、頭の中で反響した。



---



 週末、会社の飲み会があった。


 一次会が終わる頃には、みんな少し酔っていた。


 太一は珍しく酒を控えている。


「恋人さん迎え来るんでしょ?」


 誰かが茶化した。


「うん」


 周囲が少しざわつく。


 まだ、完全には慣れていない。

 同性の恋人。

 しかも隠していない。


 その空気を感じた瞬間、太一の肩がほんの少しだけ強張った。


 その時だった。


「同性カップルって、偏見持たれがちじゃないですか」


 柔らかい声がした。


 店の入口。


 迎えに来た男が、自然に笑っていた。


「でも、僕からプッシュしまくって、やっと絆されてくれたんですよ」


 周囲が少し笑う。


 男は続ける。


「だから、もし変なやつって思われるなら僕なんで」


 自然に太一を見る。


「太一は普通なんで、これまで通り彼には接してもらえるとありがたいです」


 その瞬間。


 太一の顔から、緊張が抜けた。


 安心した顔だった。


 俺はそれを、一度もさせたことがない。


「……お前、よくそんな平気でいられるな」


 気づけば言っていた。


 男は俺を見た。


 挑発も、敵意もない。


 ただ普通に、穏やかに。


「平気ですよ」


「……」


「隠してる方が、相手に失礼なんで」


 息が詰まった。


 太一が小さく言う。


「もういいだろ」


 もういい。


 その言い方まで、俺を外側に置いていた。



 店を出た後、俺は耐えられず太一の腕を掴んだ。


「……行くな」


 太一が振り返る。


 怒ってはいなかった。


 少し疲れた顔。


「それ、恋人に言う言葉だろ」


「じゃあ今からそうなる」


 言った瞬間、自分でも分かった。


 最低だ。


 彼女がいて。

 結婚の話までしていて。

 それでもなお、太一を手放したくない。


 太一の目が揺れる。


 でもすぐに戻った。


「彼女いるくせに」


「……」


「俺、二番もうやんないから」


「二番にした覚えねぇよ」


 太一は低く笑った。


「したんだよ」


 腕を外される。


「お前が終わらせてないものの中に、俺を入れるな」


 その言葉だけ残して、太一は男の傘の中へ戻っていった。


 俺だけが雨の下に残された。




 帰宅すると、彼女がいた。


 合鍵で入ったのだろう。

 リビングの照明がついている。


「おかえり」


「……来てたのか」


「連絡返ってこなかったから」


 彼女は俺を見て、少し眉を寄せた。


「なんかあった?」


「別に」


「嘘。顔死んでる」


 誤魔化そうとした時、

 テーブルの上のスマホが震えた。


【太一:今日の資料、共有済み】


 俺は反射でスマホを取った。


 彼女の視線が止まる。


「……その人」


「え?」


「最近、よく名前出るよね」


「会社の後輩」


「それだけ?」


 妙に鋭かった。


 俺は少し黙った。


 彼女は静かに言う。


「じゃあ、見せて」


「……何を」


「トーク履歴」


 心臓が嫌な音を立てる。


 でも。


 見られて困るものは、

 本当に何もなかった。


 俺はスマホを渡した。


 彼女は履歴をスクロールする。


『資料どこ』

『会議室』

『先方返信まだ』

『終電ない』

『了解』

『鍵閉めとけ』

『お前風邪?』

『熱ある』

『病院行け』

『無理』

『行け』


 連絡頻度は異常だった。


 でも。


 恋人みたいな言葉が、

 一つもない。


 好きも、

 会いたいも、

 寂しいもない。


 絵文字すらほぼない。


 ただ、

 業務連絡みたいな文面が延々続いている。


 彼女がぽつりと言った。


「……逆に怖い」


「え」


「こんなに連絡取ってるのに、何もないんだ」


 俺は答えられなかった。


 彼女はスクロールを止める。


「普通、もっとあるでしょ」


「……」


「好きとか、会いたいとか」


「なんでこんな」


 そこで初めて、

 俺も気づいた。


 本当に、一回もなかった。


 俺は太一に、

 一度も恋人みたいな言葉を使っていない。


 呼び出して、

 泊めて、

 迎えに行って、

 生活に入り込んで。


 なのに。


 名前だけ、

 何一つ与えてなかった。


 彼女が静かに聞く。


「この人との関係、何?」


 長い沈黙のあと、

 俺は掠れた声で言った。


「……分かんねぇ」


 掠れた声だった。


 彼女はしばらく黙っていた。


 それから、もう一度画面を見る。


【太一】


 短い名前。


 アイコンに映る男の横顔。


 彼女の指が止まる。


「……この人、男の人じゃん」


 胸の奥がざわつく。


 彼女は俺を見る。


 困ったみたいに、信じたくないみたいに笑った。


「圭介、どうしちゃったの?」


「……」


「気の迷いであってほしいんだけど……」


 その言葉で、雨の中の光景が頭に蘇る。


『同性カップルって偏見持たれがちじゃないですか』


『でも、僕からプッシュしまくって、やっと絆されてくれたんですよ』


『太一は普通なんで、これまで通り接してもらえるとありがたいです』


 あの男は堂々としていた。


 太一の隣に立って、

 太一を隠さなかった。


 なのに俺は。


 太一を恋人にしなかっただけじゃない。


 太一を好きだった自分のことすら、

 どこかで“間違い”みたいに扱っていた。


 彼女が静かに聞く。


「……圭介、この人のこと好きなの?」


 答えられなかった。


 でも、その沈黙だけで十分だった。


 彼女の顔が、少しずつ歪んだ。


「……嘘でしょ」


「……」


「だって、圭介、私と結婚の話してたじゃん」


 責める声だった。


 でも、その奥にあるのは怒りよりも混乱だった。


「男の人が好きだったの?」


「分からない」


「またそれ?」


 彼女が笑った。


 今度は泣きそうな笑い方だった。


「分からないまま、私と結婚しようとしてたの?」


 何も言えない。


 彼女はスマホをテーブルに置いた。


「最低だよ」


「……うん」


「私のことも、その人のことも」


 その通りだった。


 彼女は鞄を持つ。


「今日は帰る」


「送る」


「来ないで」


 即答だった。


 ドアの前で、彼女は一度だけ振り返った。


「ちゃんと考えて」


「私と結婚したいのか」


「それとも、その人を失いたくないだけなのか」


 ドアが閉まる。


 部屋が静かになる。


 テーブルの上には、太一とのトーク画面が残っていた。


 恋人みたいな言葉なんて、一つもない。


 それなのに。


 俺はその画面から、目を離せなかった。


 画面をスクロールする。


『鍵開いてる』

『了解』

『腹減った』

『冷凍庫』

『薬飲め』

『うるさい』

『寝ろ』

『無理』

『迎え来い』

『場所送れ』


 どこにも、好きなんてない。


 会いたいもない。


 大事だとも、寂しいとも、隣にいてほしいとも、一度も言っていない。


 なのに全部、太一だった。


 俺の生活の、雑で、乱暴で、気を抜いたところにだけ、あいつがいた。


 彼女にはちゃんとしていた。


 約束して、店を予約して、将来の話をして、親に会う予定を立てて。


 太一には何もしていない。


 何も与えていない。


 なのに失うのだけは嫌だった。


「……最低だな」


 声に出すと、思ったより空っぽに響いた。


 スマホが震える。


 太一からではなかった。


 彼女からでもなかった。


 ただの業務通知。


 それでも俺は、反射で画面を見てしまった。


 太一じゃない。


 そのことに、がっかりした。


 その瞬間、ようやく認めるしかなかった。


 俺は、あいつが好きだった。


 恋人にもしないまま。


 好きだった。





 気づいた時には、LINEを開いていた。


【圭介】

『起きてる?』


 送信。


 既読はつかない。


 数分待つ。


 また打つ。


『話したい』


 返事はない。


 画面を閉じて、また開く。


 通知は増えない。


 胸の奥がざわつく。


 前なら、こんなことなかった。


 既読無視なんてされなかった。


 どれだけ喧嘩しても、

『何』

 くらいは返ってきた。


 俺は焦っていた。


 何に焦っているのかも分からないまま。


 気づけば会社のチャットを開いていた。


【圭介】

『明日の先方案件、確認したい』


 数秒で既読がつく。


【太一】

『確認済みです。資料フォルダの最新版見てください』


 返ってきた。


 そのことに安堵してしまう。


 でも次の瞬間、腹が立った。


 なんで業務には返す。


 なんでLINEは返さない。


 俺はそのまま打ち込む。


【圭介】

『LINE見てる?』


 既読。


 少し間が空く。


【太一】

『業務に関係ない話ならこっちで送らないでください』


 冷たい。


 今まで見たことないくらい、線を引いた文章だった。


 圭介は反射で返す。


【圭介】

『なんでこっちシカトするの?』


 送った瞬間、自分でもガキみたいだと思った。


 でも止まらなかった。


 既読。


 しばらく返信は来なかった。


 やっと表示された文字は、短かった。


【太一】

『プライベートで会話することなんて、もうないだろ』


 喉が詰まる。


 その続きが来る。


【太一】

『パートナーに不誠実なことを、俺はしたくない』


 その一文だけで、全部終わった気がした。


 太一は本気だった。


 ちゃんと恋人をやろうとしてる。


 曖昧なまま、自分だけを特別扱いする場所へ戻る気はない。


 スマホを握る手に力が入る。


 でも返す言葉が見つからなかった。


【圭介】

『俺とはもう話すこともないってこと?』


 送った瞬間、後悔した。


 違う。

 こんなことが言いたいわけじゃない。


 でも、取り消す前に既読がついた。


 しばらくして、返信が来る。


【太一】

『業務なら話します』


【太一】

『それ以外は、必要ないです』


 敬語。


 必要ない。


 圭介はスマホを握ったまま、息を止めた。


 太一から、そんな言い方をされたことは一度もなかった。


 いつも雑で、口が悪くて、遠慮がなくて。

 勝手に来て、勝手に寝て、勝手に冷蔵庫を開けて。


 その雑さが、近さだと思っていた。


 でも違った。


 太一は今、別の男の隣で、ちゃんとした恋人になろうとしている。


 自分が一度も与えなかった場所で。


【圭介】

『会いたい』


 送った。


 既読はついた。


 返事は、なかなか来なかった。


 やっと来た一文は、短い。


【太一】

『彼女いるだろ』


 圭介は画面を見つめた。


 それは責める言葉じゃなかった。


 ただの事実だった。


 だからこそ、何も返せなかった。


 既読がついたまま、画面が止まる。


 圭介は何度も文字を打っては消した。


『別れる』

『ちゃんとする』

『お前が好きだ』


 どれも薄っぺらく見えた。


 今さら何を言っても、

 太一には“都合のいい時だけ欲しがってる”ようにしか聞こえない気がした。


 それでも、何か返したかった。


【圭介】

『……今までみたいには戻れない?』


 送信。


 既読。


 すぐには返ってこない。


 圭介はスマホを握ったまま、ソファへ座り込んだ。


 部屋が静かだった。


 前ならこんな時間、

 太一が勝手に冷蔵庫を漁っていたかもしれない。


『なんか食うもんない?』

『ビール切れてんだけど』

『風呂借りる』


 雑で、

 遠慮がなくて、

 でも当たり前みたいにここにいた。


 それを、

 自分はずっと“続くもの”だと思っていた。


 スマホが震える。


【太一】

『戻るって何』


 圭介の呼吸が止まる。


 続けてメッセージが来る。


【太一】

『俺、お前と恋人だったことないけど』


 圭介は唇を噛む。


 返せない。


 太一から続けて通知が来る。


【太一】

『セフレに戻ろうって誘いなら』


 胸の奥が嫌な音を立てる。


【太一】

『恋人いるから、もう間に合ってる』


 呼吸が止まる。


【太一】

『他当たってくれ』


 そこで、圭介はようやく理解する。


 太一、

 本気で自分を“その枠”に入れていた。


 恋人じゃない。

 友達でもない。


 でも、

 抱いて、

 泊めて、

 生活に入り込んで。


 名前をつけなかった関係。


 だから太一は、

 それを“セフレ”として処理した。


 圭介は反射で打ち込む。


【圭介】

『違う』


 即送信。


【圭介】

『そんなつもりじゃない』


 既読。


 でも太一はすぐ返さない。


 その沈黙が苦しかった。


 前なら、

 もっと雑に返ってきた。


『じゃあ何』

『めんどくせぇ』

『寝る』


 でも今は違う。


 太一はちゃんと、

 恋人に不誠実にならない距離を取っている。


 圭介だけが、

 そこから取り残されていた。


スマホを握る手が汗ばんでいた。


 圭介は何度も画面を開いては閉じる。


 違う。


 セフレに戻りたいわけじゃない。


 でも、

 じゃあ何なんだと聞かれると、

 うまく言葉にならなかった。


【圭介】

『……俺、お前のことそんな風に思ってたわけじゃ』


【圭介】

『そう思ってない』


【圭介】

『本当に、そんなつもりじゃなかった』


 既読。


 少し間が空く。


【太一】

『そう思ってないって言うけどさ』


【太一】

『そうじゃなきゃ、俺に笑いながら彼女との結婚の話しないだろ』


 圭介の指が止まった。


【太一】

『まあ、他人から聞かされるのはもっと最悪だけど』


【太一】

『でも、潮時だったんだよ』


 画面が滲む。


【太一】

『俺も分かってた』


【太一】

『お前が悪いとかじゃなくて』


【太一】

『俺が勝手に、いつか選ばれるかもって思ってただけ』


【太一】

『でももうやめる』


 圭介は息ができなかった。


【太一】

『俺、今度はちゃんと恋人やるから』


【太一】

『お前もちゃんと彼女大事にしろよ』


 最後の一文は、優しさじゃなかった。


 線引きだった。


【圭介】

『じゃあどうすればいい』


 既読。


 少し間が空く。


【太一】

『彼女のことは俺は知らない』


【太一】

『俺の恋人のことは、俺が決める』


【太一】

『お前には関係ない』


 圭介は息を止めた。


 関係ない。


 その言葉が、思った以上に刺さる。


 前までは違った。


 太一の生活には、いつも自分がいた。


 飯。

 帰る場所。

 終電。

 体調。

 休日。


 呼ばれなくても、

 勝手に入り込める場所があった。


 でも今は違う。


 恋人がいる。


 しかも太一は、

 その男との関係を守ろうとしている。


 自分と違って。


【太一】

『もう寝る』


【太一】

『おやすみ』


 そこで通知が止まる。


 圭介は何度も画面を見た。


 既読はつかない。


 返事も来ない。


 その沈黙だけで、

 太一が本気で前へ進もうとしているのが分かった。





翌日





 ほとんど眠れなかった。


 朝、会社に着くと、太一はもう席にいた。


 いつも通りだった。


 資料を確認して、隣の社員に何か説明して、コーヒーを飲んでいる。


 俺だけが、昨日の夜から抜け出せていなかった。


「……太一」


 声をかけると、太一は顔を上げた。


「おはようございます」


 敬語。


 周囲に合わせた、仕事用の声。


「昨日の」


「業務中なんで」


 遮られる。


「その話、ここではしません」


「……」


「確認したい案件があるなら聞きます」


 太一はまっすぐ俺を見る。


 冷たいわけじゃない。


 ただ、線が引かれている。


 俺が何年も引かなかった線を、太一が今、引いている。


「……昨日の資料」


「共有済みです。フォルダの一番上」


「違う」


「違わないです」


 太一は立ち上がった。


「会議、十時からですよね。準備します」


 俺の横を通り過ぎる。


 その肩を、掴めなかった。


 掴んだら、今度こそ本当に終わる気がした。


「……太一」


 追いかけるように名前を呼ぶと、太一が足を止めた。


 振り返った顔は、もう苛立っていた。


「しつこいって」


 低い声だった。


「昨日からなんなの?」


「……話したい」


「俺は話したくない」


「太一」


「不誠実なことすんなよ」


 その一言で、喉が詰まった。


 太一は周囲に聞こえないよう、声を落とす。


「お前、彼女いるだろ」


「……」


「俺にも恋人がいる」


「……分かってる」


「分かってるなら、やめろよ」


 太一の目が揺れた。


 怒っているのに、少しだけ苦しそうだった。


「嫌いにならせないでくれ」


 息が止まる。


「俺、ちゃんと終わらせようとしてんだよ」


「……」


「お前のこと好きだった自分まで、汚いものにしたくない」


 太一はそれだけ言って、今度こそ背を向けた。


 その背中を、追えなかった。


 嫌いにならせないでくれ。


 その言葉だけが、頭の中で繰り返される。


 太一は、まだ俺を嫌いになっていない。


 だからこそ、離れようとしている。


 好きだったものを、嫌いに変えないために。


「……最悪だな」


 小さく呟く。


 自分でも、誰に向けた言葉なのか分からなかった。


 その日、太一は本当に業務以外の言葉を俺に向けなかった。


「確認お願いします」

「共有しました」

「先方から返信ありました」


 全部、正しい。

 全部、丁寧。

 全部、遠い。


 前なら昼休みに勝手に俺のデスクへ来て、


『飯』

『奢れ』

『昨日の続き聞かせろ』


 みたいな顔をしていたのに。


 それがもうない。


 太一は終業時間になると、迷いなく荷物をまとめた。


 俺は反射で言いそうになる。


 送る。


 迎えは。


 今日はどこに帰る。


 でも全部、飲み込んだ。


 聞く資格がない。


 太一はスマホを見て、少しだけ表情を緩めた。


 たぶん、恋人からの連絡。


 俺の知らない場所へ帰る顔だった。


「お疲れさまでした」


 太一が言う。


 会社の人間に向ける声で。


 俺は遅れて返した。


「……お疲れ」


 太一は振り返らなかった。


 太一が出て行ったあとも、圭介はしばらく席から動けなかった。


「……おい」


 肩を軽く叩かれて顔を上げる。


 同期の西島だった。


「今日ずっと上の空じゃん」


「……そうか?」


「そうだよ。会議中もぼーっとしてたし」


 西島は缶コーヒーを机に置く。


「ほら」


「いらねぇ」


「顔死んでるやつの“いらねぇ”は信用ならん」


 強引に置かれる。


 圭介は少し黙ってから、缶を開けた。


 西島が笑う。


「なんだよ。マリッジブルーか?」


 その言葉で、胸の奥がざわつく。


 圭介は反射で否定しようとして、止まった。


 マリッジブルー。


 結婚前の不安。


 普通の男なら、たぶんそうなんだろう。


 でも自分は違う。


 不安なのは、結婚じゃない。


 太一が自分のところへ戻ってこないことだ。


「……かもな」


 圭介がぼそっと言うと、西島は笑った。


「珍し。お前でもそうなんの?」


「うるせぇ」


「まあでも、お前ちゃんとしてるし大丈夫だろ」


 その“ちゃんとしてる”が、今はやけに痛かった。


 ちゃんとしていた。


 彼女には。


 未来を話して、

 親に会って、

 結婚を考えて。


 でも太一には、

 一回も何も与えなかった。


 西島がふと思い出したように言う。


「そういや太一、最近雰囲気変わったよな」


 圭介の指が止まる。


「……何が」


「なんか柔らかくなった」


 西島は笑う。


「恋人できたからか?」


 圭介は何も言えなかった。


 柔らかくなったんじゃない。


 あれが、本来の太一だった。


 恋人として扱われた時に出る顔を、俺が知らなかっただけだ。


「相手、いい人っぽいしな」


 西島は何気なく続けた。


「昨日の飲み会の時もさ、ちゃんとしてたじゃん。なんか、太一のこと守ってる感じで」


 圭介は缶コーヒーを握り潰しそうになった。


「……守る?」


「いや、ほら。同性カップルってどうしても変に見るやついるだろ。あれを先に自分で受けて、太一には普通に接してくれって言ってたの、結構よかったなって」


 聞きたくなかった。


 でも耳は拾う。


「太一も安心した顔してたし」


 西島は笑う。


「お前も見てただろ?」


「……見てたよ」


「なら分かるだろ。あれ、いい相手だよ」


 圭介は何も返せなかった。


 いい相手。


 分かってる。


 嫌いになれたら楽だった。


 軽いやつなら。

 遊びなら。

 太一を傷つける男なら。


 奪い返す理由にできた。


 でも違う。


 あの男は、太一を隠さなかった。


 太一を普通だと言った。


 自分が一度も立てなかった場所に、当たり前みたいに立っていた。


「……最悪だな」


「え?」


「なんでもない」


 圭介は立ち上がった。


 スマホを見る。


 彼女からの連絡はない。


 太一からも、もちろんない。


 なのに圭介は、まだ太一の名前を探していた。


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