恋人だったら
彼女が選んだ式場の写真を、俺は三回見逃した。
「……見てる?」
「見てる」
「絶対見てない」
向かいで彼女が笑う。
柔らかい声だった。
「最近ほんと上の空だよね。仕事そんな忙しい?」
「まあ、ちょっと」
嘘ではない。
でも仕事じゃない。
頭に残っているのは、雨の匂いと、あの一言だった。
『あー、仕事の人』
仕事の人。
それだけで片づけられた。
終電後に呼ばれて、迎えに行って、泊めて、飯を食わせて、喧嘩して、朝になれば何事もなかった顔でコーヒーを淹れた相手に。
友人ですらなく。
仕事の人。
「ねえ、こっちとこっちならどっちがいい?」
彼女がスマホをこちらへ向ける。
白いチャペル。
ガーデン。
親族席。
披露宴会場。
ちゃんとした未来の写真ばかりだった。
「……どっちでも」
「それ一番困るやつ」
「悪い」
彼女は少しだけ困った顔をした。
「大丈夫? 本当に」
「大丈夫」
そう答えながら、俺はまた画面を見ていなかった。
◇
会社での太一は普通だった。
普通に出社して。
普通に会議に出て。
普通に資料を回してくる。
「この件、修正版送っときました」
「……ああ」
「先方、明日の午前なら空いてるらしいです」
「分かった」
それだけ。
敬語混じり。
距離のある声。
前はもっと雑だった。
『腹減った』
『今日帰りたくねぇ』
『迎え来い』
『お前んち寄る』
そういう言葉が、いつの間にか消えていた。
昼休み、太一は別部署の連中と飯を食っていた。
笑っている。
普通に。
その手元のスマホが震えるたび、太一の表情が少しだけ柔らかくなる。
俺はそれを見ていた。
見ている自分に気づいて、吐き気がした。
---
残業が長引いた日だった。
給湯室でコーヒーを淹れていると、廊下の向こうから声が聞こえた。
「うん、今日はそっち泊まる」
手が止まる。
「いや、飲みすぎないって」
笑っている。
「分かった。帰る前に連絡する」
電話が切れる。
俺は気づく前に口を開いていた。
「……最近、毎日そいつんとこ?」
太一が振り返る。
一瞬だけ、顔が引いた。
「何その質問」
「答えろよ」
「お前に関係なくない?」
正論だった。
でも、止まらなかった。
「俺の時は、そんな顔しなかった」
沈黙。
給湯室の冷蔵庫が低く唸る。
太一は少しだけ目を伏せて、それから静かに言った。
「恋人じゃなかったからだろ」
「……は?」
「今の人は、俺のこと恋人として扱うから」
「俺だって」
「違う」
初めて、はっきり遮られた。
「迎えに来ても、泊まっても、飯食っても、抱かれても、喧嘩しても」
太一は俺を見た。
「お前、一回も俺を恋人にしなかった」
言い返せない。
全部、本当だった。
「あの人は違う」
「……」
「ちゃんと名前つける。隠さない。俺が横にいても、困らない」
太一は少し笑った。
「だから俺も、その顔する」
恋人だったら。
その言葉が、頭の中で反響した。
---
週末、会社の飲み会があった。
一次会が終わる頃には、みんな少し酔っていた。
太一は珍しく酒を控えている。
「恋人さん迎え来るんでしょ?」
誰かが茶化した。
「うん」
周囲が少しざわつく。
まだ、完全には慣れていない。
同性の恋人。
しかも隠していない。
その空気を感じた瞬間、太一の肩がほんの少しだけ強張った。
その時だった。
「同性カップルって、偏見持たれがちじゃないですか」
柔らかい声がした。
店の入口。
迎えに来た男が、自然に笑っていた。
「でも、僕からプッシュしまくって、やっと絆されてくれたんですよ」
周囲が少し笑う。
男は続ける。
「だから、もし変なやつって思われるなら僕なんで」
自然に太一を見る。
「太一は普通なんで、これまで通り彼には接してもらえるとありがたいです」
その瞬間。
太一の顔から、緊張が抜けた。
安心した顔だった。
俺はそれを、一度もさせたことがない。
「……お前、よくそんな平気でいられるな」
気づけば言っていた。
男は俺を見た。
挑発も、敵意もない。
ただ普通に、穏やかに。
「平気ですよ」
「……」
「隠してる方が、相手に失礼なんで」
息が詰まった。
太一が小さく言う。
「もういいだろ」
もういい。
その言い方まで、俺を外側に置いていた。
◇
店を出た後、俺は耐えられず太一の腕を掴んだ。
「……行くな」
太一が振り返る。
怒ってはいなかった。
少し疲れた顔。
「それ、恋人に言う言葉だろ」
「じゃあ今からそうなる」
言った瞬間、自分でも分かった。
最低だ。
彼女がいて。
結婚の話までしていて。
それでもなお、太一を手放したくない。
太一の目が揺れる。
でもすぐに戻った。
「彼女いるくせに」
「……」
「俺、二番もうやんないから」
「二番にした覚えねぇよ」
太一は低く笑った。
「したんだよ」
腕を外される。
「お前が終わらせてないものの中に、俺を入れるな」
その言葉だけ残して、太一は男の傘の中へ戻っていった。
俺だけが雨の下に残された。
◇
帰宅すると、彼女がいた。
合鍵で入ったのだろう。
リビングの照明がついている。
「おかえり」
「……来てたのか」
「連絡返ってこなかったから」
彼女は俺を見て、少し眉を寄せた。
「なんかあった?」
「別に」
「嘘。顔死んでる」
誤魔化そうとした時、
テーブルの上のスマホが震えた。
【太一:今日の資料、共有済み】
俺は反射でスマホを取った。
彼女の視線が止まる。
「……その人」
「え?」
「最近、よく名前出るよね」
「会社の後輩」
「それだけ?」
妙に鋭かった。
俺は少し黙った。
彼女は静かに言う。
「じゃあ、見せて」
「……何を」
「トーク履歴」
心臓が嫌な音を立てる。
でも。
見られて困るものは、
本当に何もなかった。
俺はスマホを渡した。
彼女は履歴をスクロールする。
『資料どこ』
『会議室』
『先方返信まだ』
『終電ない』
『了解』
『鍵閉めとけ』
『お前風邪?』
『熱ある』
『病院行け』
『無理』
『行け』
連絡頻度は異常だった。
でも。
恋人みたいな言葉が、
一つもない。
好きも、
会いたいも、
寂しいもない。
絵文字すらほぼない。
ただ、
業務連絡みたいな文面が延々続いている。
彼女がぽつりと言った。
「……逆に怖い」
「え」
「こんなに連絡取ってるのに、何もないんだ」
俺は答えられなかった。
彼女はスクロールを止める。
「普通、もっとあるでしょ」
「……」
「好きとか、会いたいとか」
「なんでこんな」
そこで初めて、
俺も気づいた。
本当に、一回もなかった。
俺は太一に、
一度も恋人みたいな言葉を使っていない。
呼び出して、
泊めて、
迎えに行って、
生活に入り込んで。
なのに。
名前だけ、
何一つ与えてなかった。
彼女が静かに聞く。
「この人との関係、何?」
長い沈黙のあと、
俺は掠れた声で言った。
「……分かんねぇ」
掠れた声だった。
彼女はしばらく黙っていた。
それから、もう一度画面を見る。
【太一】
短い名前。
アイコンに映る男の横顔。
彼女の指が止まる。
「……この人、男の人じゃん」
胸の奥がざわつく。
彼女は俺を見る。
困ったみたいに、信じたくないみたいに笑った。
「圭介、どうしちゃったの?」
「……」
「気の迷いであってほしいんだけど……」
その言葉で、雨の中の光景が頭に蘇る。
『同性カップルって偏見持たれがちじゃないですか』
『でも、僕からプッシュしまくって、やっと絆されてくれたんですよ』
『太一は普通なんで、これまで通り接してもらえるとありがたいです』
あの男は堂々としていた。
太一の隣に立って、
太一を隠さなかった。
なのに俺は。
太一を恋人にしなかっただけじゃない。
太一を好きだった自分のことすら、
どこかで“間違い”みたいに扱っていた。
彼女が静かに聞く。
「……圭介、この人のこと好きなの?」
答えられなかった。
でも、その沈黙だけで十分だった。
彼女の顔が、少しずつ歪んだ。
「……嘘でしょ」
「……」
「だって、圭介、私と結婚の話してたじゃん」
責める声だった。
でも、その奥にあるのは怒りよりも混乱だった。
「男の人が好きだったの?」
「分からない」
「またそれ?」
彼女が笑った。
今度は泣きそうな笑い方だった。
「分からないまま、私と結婚しようとしてたの?」
何も言えない。
彼女はスマホをテーブルに置いた。
「最低だよ」
「……うん」
「私のことも、その人のことも」
その通りだった。
彼女は鞄を持つ。
「今日は帰る」
「送る」
「来ないで」
即答だった。
ドアの前で、彼女は一度だけ振り返った。
「ちゃんと考えて」
「私と結婚したいのか」
「それとも、その人を失いたくないだけなのか」
ドアが閉まる。
部屋が静かになる。
テーブルの上には、太一とのトーク画面が残っていた。
恋人みたいな言葉なんて、一つもない。
それなのに。
俺はその画面から、目を離せなかった。
画面をスクロールする。
『鍵開いてる』
『了解』
『腹減った』
『冷凍庫』
『薬飲め』
『うるさい』
『寝ろ』
『無理』
『迎え来い』
『場所送れ』
どこにも、好きなんてない。
会いたいもない。
大事だとも、寂しいとも、隣にいてほしいとも、一度も言っていない。
なのに全部、太一だった。
俺の生活の、雑で、乱暴で、気を抜いたところにだけ、あいつがいた。
彼女にはちゃんとしていた。
約束して、店を予約して、将来の話をして、親に会う予定を立てて。
太一には何もしていない。
何も与えていない。
なのに失うのだけは嫌だった。
「……最低だな」
声に出すと、思ったより空っぽに響いた。
スマホが震える。
太一からではなかった。
彼女からでもなかった。
ただの業務通知。
それでも俺は、反射で画面を見てしまった。
太一じゃない。
そのことに、がっかりした。
その瞬間、ようやく認めるしかなかった。
俺は、あいつが好きだった。
恋人にもしないまま。
好きだった。
気づいた時には、LINEを開いていた。
【圭介】
『起きてる?』
送信。
既読はつかない。
数分待つ。
また打つ。
『話したい』
返事はない。
画面を閉じて、また開く。
通知は増えない。
胸の奥がざわつく。
前なら、こんなことなかった。
既読無視なんてされなかった。
どれだけ喧嘩しても、
『何』
くらいは返ってきた。
俺は焦っていた。
何に焦っているのかも分からないまま。
気づけば会社のチャットを開いていた。
【圭介】
『明日の先方案件、確認したい』
数秒で既読がつく。
【太一】
『確認済みです。資料フォルダの最新版見てください』
返ってきた。
そのことに安堵してしまう。
でも次の瞬間、腹が立った。
なんで業務には返す。
なんでLINEは返さない。
俺はそのまま打ち込む。
【圭介】
『LINE見てる?』
既読。
少し間が空く。
【太一】
『業務に関係ない話ならこっちで送らないでください』
冷たい。
今まで見たことないくらい、線を引いた文章だった。
圭介は反射で返す。
【圭介】
『なんでこっちシカトするの?』
送った瞬間、自分でもガキみたいだと思った。
でも止まらなかった。
既読。
しばらく返信は来なかった。
やっと表示された文字は、短かった。
【太一】
『プライベートで会話することなんて、もうないだろ』
喉が詰まる。
その続きが来る。
【太一】
『パートナーに不誠実なことを、俺はしたくない』
その一文だけで、全部終わった気がした。
太一は本気だった。
ちゃんと恋人をやろうとしてる。
曖昧なまま、自分だけを特別扱いする場所へ戻る気はない。
スマホを握る手に力が入る。
でも返す言葉が見つからなかった。
【圭介】
『俺とはもう話すこともないってこと?』
送った瞬間、後悔した。
違う。
こんなことが言いたいわけじゃない。
でも、取り消す前に既読がついた。
しばらくして、返信が来る。
【太一】
『業務なら話します』
【太一】
『それ以外は、必要ないです』
敬語。
必要ない。
圭介はスマホを握ったまま、息を止めた。
太一から、そんな言い方をされたことは一度もなかった。
いつも雑で、口が悪くて、遠慮がなくて。
勝手に来て、勝手に寝て、勝手に冷蔵庫を開けて。
その雑さが、近さだと思っていた。
でも違った。
太一は今、別の男の隣で、ちゃんとした恋人になろうとしている。
自分が一度も与えなかった場所で。
【圭介】
『会いたい』
送った。
既読はついた。
返事は、なかなか来なかった。
やっと来た一文は、短い。
【太一】
『彼女いるだろ』
圭介は画面を見つめた。
それは責める言葉じゃなかった。
ただの事実だった。
だからこそ、何も返せなかった。
既読がついたまま、画面が止まる。
圭介は何度も文字を打っては消した。
『別れる』
『ちゃんとする』
『お前が好きだ』
どれも薄っぺらく見えた。
今さら何を言っても、
太一には“都合のいい時だけ欲しがってる”ようにしか聞こえない気がした。
それでも、何か返したかった。
【圭介】
『……今までみたいには戻れない?』
送信。
既読。
すぐには返ってこない。
圭介はスマホを握ったまま、ソファへ座り込んだ。
部屋が静かだった。
前ならこんな時間、
太一が勝手に冷蔵庫を漁っていたかもしれない。
『なんか食うもんない?』
『ビール切れてんだけど』
『風呂借りる』
雑で、
遠慮がなくて、
でも当たり前みたいにここにいた。
それを、
自分はずっと“続くもの”だと思っていた。
スマホが震える。
【太一】
『戻るって何』
圭介の呼吸が止まる。
続けてメッセージが来る。
【太一】
『俺、お前と恋人だったことないけど』
圭介は唇を噛む。
返せない。
太一から続けて通知が来る。
【太一】
『セフレに戻ろうって誘いなら』
胸の奥が嫌な音を立てる。
【太一】
『恋人いるから、もう間に合ってる』
呼吸が止まる。
【太一】
『他当たってくれ』
そこで、圭介はようやく理解する。
太一、
本気で自分を“その枠”に入れていた。
恋人じゃない。
友達でもない。
でも、
抱いて、
泊めて、
生活に入り込んで。
名前をつけなかった関係。
だから太一は、
それを“セフレ”として処理した。
圭介は反射で打ち込む。
【圭介】
『違う』
即送信。
【圭介】
『そんなつもりじゃない』
既読。
でも太一はすぐ返さない。
その沈黙が苦しかった。
前なら、
もっと雑に返ってきた。
『じゃあ何』
『めんどくせぇ』
『寝る』
でも今は違う。
太一はちゃんと、
恋人に不誠実にならない距離を取っている。
圭介だけが、
そこから取り残されていた。
スマホを握る手が汗ばんでいた。
圭介は何度も画面を開いては閉じる。
違う。
セフレに戻りたいわけじゃない。
でも、
じゃあ何なんだと聞かれると、
うまく言葉にならなかった。
【圭介】
『……俺、お前のことそんな風に思ってたわけじゃ』
【圭介】
『そう思ってない』
【圭介】
『本当に、そんなつもりじゃなかった』
既読。
少し間が空く。
【太一】
『そう思ってないって言うけどさ』
【太一】
『そうじゃなきゃ、俺に笑いながら彼女との結婚の話しないだろ』
圭介の指が止まった。
【太一】
『まあ、他人から聞かされるのはもっと最悪だけど』
【太一】
『でも、潮時だったんだよ』
画面が滲む。
【太一】
『俺も分かってた』
【太一】
『お前が悪いとかじゃなくて』
【太一】
『俺が勝手に、いつか選ばれるかもって思ってただけ』
【太一】
『でももうやめる』
圭介は息ができなかった。
【太一】
『俺、今度はちゃんと恋人やるから』
【太一】
『お前もちゃんと彼女大事にしろよ』
最後の一文は、優しさじゃなかった。
線引きだった。
【圭介】
『じゃあどうすればいい』
既読。
少し間が空く。
【太一】
『彼女のことは俺は知らない』
【太一】
『俺の恋人のことは、俺が決める』
【太一】
『お前には関係ない』
圭介は息を止めた。
関係ない。
その言葉が、思った以上に刺さる。
前までは違った。
太一の生活には、いつも自分がいた。
飯。
帰る場所。
終電。
体調。
休日。
呼ばれなくても、
勝手に入り込める場所があった。
でも今は違う。
恋人がいる。
しかも太一は、
その男との関係を守ろうとしている。
自分と違って。
【太一】
『もう寝る』
【太一】
『おやすみ』
そこで通知が止まる。
圭介は何度も画面を見た。
既読はつかない。
返事も来ない。
その沈黙だけで、
太一が本気で前へ進もうとしているのが分かった。
翌日
ほとんど眠れなかった。
朝、会社に着くと、太一はもう席にいた。
いつも通りだった。
資料を確認して、隣の社員に何か説明して、コーヒーを飲んでいる。
俺だけが、昨日の夜から抜け出せていなかった。
「……太一」
声をかけると、太一は顔を上げた。
「おはようございます」
敬語。
周囲に合わせた、仕事用の声。
「昨日の」
「業務中なんで」
遮られる。
「その話、ここではしません」
「……」
「確認したい案件があるなら聞きます」
太一はまっすぐ俺を見る。
冷たいわけじゃない。
ただ、線が引かれている。
俺が何年も引かなかった線を、太一が今、引いている。
「……昨日の資料」
「共有済みです。フォルダの一番上」
「違う」
「違わないです」
太一は立ち上がった。
「会議、十時からですよね。準備します」
俺の横を通り過ぎる。
その肩を、掴めなかった。
掴んだら、今度こそ本当に終わる気がした。
「……太一」
追いかけるように名前を呼ぶと、太一が足を止めた。
振り返った顔は、もう苛立っていた。
「しつこいって」
低い声だった。
「昨日からなんなの?」
「……話したい」
「俺は話したくない」
「太一」
「不誠実なことすんなよ」
その一言で、喉が詰まった。
太一は周囲に聞こえないよう、声を落とす。
「お前、彼女いるだろ」
「……」
「俺にも恋人がいる」
「……分かってる」
「分かってるなら、やめろよ」
太一の目が揺れた。
怒っているのに、少しだけ苦しそうだった。
「嫌いにならせないでくれ」
息が止まる。
「俺、ちゃんと終わらせようとしてんだよ」
「……」
「お前のこと好きだった自分まで、汚いものにしたくない」
太一はそれだけ言って、今度こそ背を向けた。
その背中を、追えなかった。
嫌いにならせないでくれ。
その言葉だけが、頭の中で繰り返される。
太一は、まだ俺を嫌いになっていない。
だからこそ、離れようとしている。
好きだったものを、嫌いに変えないために。
「……最悪だな」
小さく呟く。
自分でも、誰に向けた言葉なのか分からなかった。
その日、太一は本当に業務以外の言葉を俺に向けなかった。
「確認お願いします」
「共有しました」
「先方から返信ありました」
全部、正しい。
全部、丁寧。
全部、遠い。
前なら昼休みに勝手に俺のデスクへ来て、
『飯』
『奢れ』
『昨日の続き聞かせろ』
みたいな顔をしていたのに。
それがもうない。
太一は終業時間になると、迷いなく荷物をまとめた。
俺は反射で言いそうになる。
送る。
迎えは。
今日はどこに帰る。
でも全部、飲み込んだ。
聞く資格がない。
太一はスマホを見て、少しだけ表情を緩めた。
たぶん、恋人からの連絡。
俺の知らない場所へ帰る顔だった。
「お疲れさまでした」
太一が言う。
会社の人間に向ける声で。
俺は遅れて返した。
「……お疲れ」
太一は振り返らなかった。
太一が出て行ったあとも、圭介はしばらく席から動けなかった。
「……おい」
肩を軽く叩かれて顔を上げる。
同期の西島だった。
「今日ずっと上の空じゃん」
「……そうか?」
「そうだよ。会議中もぼーっとしてたし」
西島は缶コーヒーを机に置く。
「ほら」
「いらねぇ」
「顔死んでるやつの“いらねぇ”は信用ならん」
強引に置かれる。
圭介は少し黙ってから、缶を開けた。
西島が笑う。
「なんだよ。マリッジブルーか?」
その言葉で、胸の奥がざわつく。
圭介は反射で否定しようとして、止まった。
マリッジブルー。
結婚前の不安。
普通の男なら、たぶんそうなんだろう。
でも自分は違う。
不安なのは、結婚じゃない。
太一が自分のところへ戻ってこないことだ。
「……かもな」
圭介がぼそっと言うと、西島は笑った。
「珍し。お前でもそうなんの?」
「うるせぇ」
「まあでも、お前ちゃんとしてるし大丈夫だろ」
その“ちゃんとしてる”が、今はやけに痛かった。
ちゃんとしていた。
彼女には。
未来を話して、
親に会って、
結婚を考えて。
でも太一には、
一回も何も与えなかった。
西島がふと思い出したように言う。
「そういや太一、最近雰囲気変わったよな」
圭介の指が止まる。
「……何が」
「なんか柔らかくなった」
西島は笑う。
「恋人できたからか?」
圭介は何も言えなかった。
柔らかくなったんじゃない。
あれが、本来の太一だった。
恋人として扱われた時に出る顔を、俺が知らなかっただけだ。
「相手、いい人っぽいしな」
西島は何気なく続けた。
「昨日の飲み会の時もさ、ちゃんとしてたじゃん。なんか、太一のこと守ってる感じで」
圭介は缶コーヒーを握り潰しそうになった。
「……守る?」
「いや、ほら。同性カップルってどうしても変に見るやついるだろ。あれを先に自分で受けて、太一には普通に接してくれって言ってたの、結構よかったなって」
聞きたくなかった。
でも耳は拾う。
「太一も安心した顔してたし」
西島は笑う。
「お前も見てただろ?」
「……見てたよ」
「なら分かるだろ。あれ、いい相手だよ」
圭介は何も返せなかった。
いい相手。
分かってる。
嫌いになれたら楽だった。
軽いやつなら。
遊びなら。
太一を傷つける男なら。
奪い返す理由にできた。
でも違う。
あの男は、太一を隠さなかった。
太一を普通だと言った。
自分が一度も立てなかった場所に、当たり前みたいに立っていた。
「……最悪だな」
「え?」
「なんでもない」
圭介は立ち上がった。
スマホを見る。
彼女からの連絡はない。
太一からも、もちろんない。
なのに圭介は、まだ太一の名前を探していた。




