仕事の人
「知り合い?」
「あー、仕事の人」
その一言で、
今までの全部が遠くなった。
「……でさ、向こうの親に挨拶行くことになって」
箸が止まった。
たぶん、一秒にも満たない。
けれど俺には、その一秒だけ妙に長かった。
「式とかはまだ決めてないけど。まあ年齢的にもな」
向かいの男は、いつも通りの顔でそう言った。
俺は笑った。
「へぇ。おめでと」
言えた。
ちゃんと言えた。
それくらいには、俺たちは大人だった。
恋人じゃなかった。
友人と呼ぶには近すぎて、恋人と呼ぶには一度も選ばれていない。
終電後に呼べば来た。
泊まれば毛布が出た。
喧嘩すれば翌朝にはコンビニ飯が置かれていた。
でも名前はなかった。
だから終わりもなかった。
結婚という言葉が出るまでは。
◇
「お前、最近避けてる?」
数週間後、職場近くの喫煙所でそう言われた。
俺は煙草を咥えたまま、少し笑った。
「避けてない。正常化してるだけ」
「何それ」
「普通に戻してる」
男は不機嫌そうに眉を寄せる。
「俺らの普通って何だよ」
「仕事の付き合い」
言った瞬間、男の顔が変わった。
ああ、刺さったな、と思った。
でも仕方ない。
刺すために言ったわけじゃない。
事実として、そこに戻すしかなかった。
「……俺が悪いのかよ」
「いや? 別に悪くないよ」
俺は灰を落とした。
「俺もそれでよかったと思ってたんだよ、結局」
楽だった。
都合がよかった。
好きだった。
でも、そのどれも言わなかった。
「でもさ、お前結婚するじゃん?」
「別に、話が出てるだけで、今すぐするってわけじゃ」
「でも、するんだろ。たぶん」
男は黙った。
その沈黙だけで充分だった。
「お前、そういうとこちゃんとしてるし。彼女のこと普通に大事にしてるじゃん。親にも紹介して、将来の話して。それって普通に結婚コースだろ」
「……」
「流石に、結婚するやつと関係続けるほど俺も落ちぶれてないし」
笑った。
「それなら、ちゃんと俺も相手探そって思ったわけ」
「……相手?」
「うん」
「彼女?」
その言い方で分かった。
こいつは少し安心したんだ。
女なら。
当てつけなら。
俺の本命じゃないなら。
まだ、自分の場所は残っていると思ったんだろう。
「まあ、そのうち分かるよ」
「当てつけかよ」
「別に当てつけでもないし」
俺は煙草を消した。
「あ、彼女に暴露とかもしないから安心しろよ」
「は?」
「最近俺のこと珍しく見てんなって思ったから。リベンジポルノとか気にしてる感じ?」
「そんなことしねぇよ」
「知ってる」
俺は頷いた。
「お前そういうのはちゃんとしてるし」
だから余計に、俺の居場所はなかった。
「お互い様だったわけで」
「……」
「これでやっと正常化したわけだ」
俺は鞄を持ち直した。
「お疲れさん」
「じゃあ俺らの関係ってどうなるんだよ」
背中に声が刺さった。
振り返る。
「どうなるって」
「普通に戻るだけだろ」
「普通って何だよ」
「元々仕事の付き合いだったじゃん。たまに飲んで、たまに連絡して。それで十分だろ」
「それだけ?」
「うん」
「お前、それで平気なの」
平気なわけがない。
でも、平気になるしかない。
「お前、結婚するんだから」
男が黙った。
俺はもう一度だけ笑った。
「俺、ちゃんと好きになってくれる相手といた方がいいなって思ったんだよ」
「……」
「隠さなくていい相手と」
◇
その金曜、会社の飲み会があった。
俺は珍しく酒を控えた。
「彼女できると変わるねぇ」
同僚が茶化してくる。
隣で、あいつの手が止まったのが分かった。
俺は否定しなかった。
「あー、うん」
店を出ると、雨が降っていた。
スマホが震える。
『着いた』
俺は画面を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
「あ、来た」
黒い車が路肩に停まる。
降りてきたのは、男だった。
背が高くて、落ち着いたスーツ姿。
傘を差して、真っ直ぐ俺の方へ来る。
「お疲れ。寒くない?」
「ちょい寒い」
「飲んだ?」
「控えた。偉くない?」
「偉い」
その言葉に、少し笑ってしまった。
背後で空気が止まる。
「……お前」
あいつの声がした。
「そんなに堂々としてて平気なの?」
振り返る。
「何が」
「これ会社の飲み会だぞ」
「あー、うん」
俺は少しだけ笑った。
「もう自分の趣向隠すのやめたんだわ」
「……」
「いいことないって学んだから」
新しい恋人が、俺とあいつを交互に見た。
「大丈夫?」
「うん。ごめん、待たせた」
恋人の視線があいつに向く。
「知り合い?」
ほんの数秒、考えた。
友人。
違う。
恋人。
違う。
昔の男。
それも違う。
俺は、今の恋人の隣に立つために、正しい距離の言葉を選んだ。
「あー、仕事の人」
あいつの顔が止まった。
恋人は何も知らないから、普通に会釈した。
「いつもお世話になってます」
あいつも、社会人の顔で返した。
「……こちらこそ」
それが、俺たちの終わりだった。
喧嘩でもなく。
別れ話でもなく。
泣き言でもなく。
ただ、紹介の一言で。
俺はあいつを、自分の人生の外側に置き直した。
「じゃあ、お疲れ」
会社の人間に向ける声で言った。
恋人が自然に俺の肩へ傘を寄せる。
俺はそれを拒まなかった。
雨の中、あいつだけがその場に残っていた。
俺は振り返らなかった。




