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仕事の人  作者:


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仕事だけじゃない人

 圭介の出国が近づくにつれて、社内の空気が少しずつ変わっていった。


 デスクの上から物が減っていく。


 私物のマグカップがなくなり、

 積まれていた専門書が消え、

 壁際に置かれていた観葉植物も誰かへ譲られていた。


 引き継ぎも、ほとんど終わっているらしかった。


 圭介は最近、英語の会議ばかり出ている。


 前より会社にいる時間も減った。


「……」


 太一は無意識に、そのデスクを見てしまう。


 いる。


 でも、もう“いなくなる人”だった。


 亮との関係は順調だった。


 ちゃんと恋人で、

 ちゃんと幸せで、

 ちゃんと好きだと思える。


 亮といる時間は安心する。


 日曜の朝、

 抱きしめられて起きるのも好きだ。


 亮のメガネ姿も、

 甘やかしてくるところも、

 少し重い愛情も。


 ちゃんと好きだった。


 なのに。


 会社で圭介のデスクが空いていくたび、

 胸のどこかがざわついた。



 送別会の日。


 居酒屋の座敷はやけに騒がしかった。


「圭介さん向こう行っても絶対モテますよ〜!」


「英語喋れる男ずるいっす」


「向こうの女の人と結婚したりして」


 周囲が笑う。


 圭介も笑っていた。


 前より少し痩せた気がする。


 太一はグラスを見つめたまま、ほとんど喋らなかった。


 亮は今日は来ていない。


 “会社の飲み会なら気使うでしょ”

と笑って送り出してくれた。


 優しい。


 本当に優しい。


 なのに太一は今、

 ずっと圭介を目で追っている。


 圭介は周囲に囲まれている。


 でも時々、

 無意識みたいに太一を見る。


 視線が合う。


 すぐ逸れる。


 その繰り返し。


 終盤、

 誰かが言った。


「平田、お前マジで圭介さん懐いてたもんな」


 周囲が笑う。


「分かる。いつも一緒いたし」


「圭介さんいなくなったら寂しいだろ」


 太一は反射で笑おうとした。


 でも。


「……まあ」


 思ったより声が出なかった。


 圭介の指が、グラスの縁で止まる。


 太一は俯いたまま、小さく続けた。


「ちょっとは」


 座敷が一瞬だけ静かになる。


 誰かが空気を変えるように笑った。


「お前素直かよ!」


「送別会だからってデレんな!」


 周囲が笑う。


 太一も笑った。


 でも圭介だけは笑わなかった。


 ただ、

 太一を見る目だけが少し苦しそうだった。


 一次会が終わりに近づく頃には、みんなかなり酔っていた。


「圭介さん、向こう行っても絶対帰ってきてくださいよー」


「平田泣くぞ」


「泣かねぇよ」


 太一は笑いながら返す。


 でも、圭介はその顔をじっと見ていた。



 店を出ると、夜風が少し冷たかった。


 二次会へ行く組が騒ぎながら歩いていく。


 太一は少し遅れて店を出た。


「平田」


 後ろから呼ばれる。


 圭介だった。


 太一は振り返る。


「……何ですか、先輩」


「駅、そっちだろ」


「まあ」


「少し歩くか」


 断れなかった。


 二人並んで歩く。


 前みたいに肩がぶつかる距離じゃない。


 少し空いている。


 それが逆に苦しかった。


「亮さん、今日来てないんだな」


 圭介がぽつりと言う。


「会社の飲み会だし」


「そっか」


「……」


「いい人だな」


 太一は少しだけ眉を寄せた。


「何ですかそれ」


「そのままの意味」


 圭介は前を見たまま続ける。


「お前、大事にされてる」


 太一の喉が小さく動く。


「……まあ」


「ちゃんと幸せそうだし」


 その言い方が、

 まるで確認みたいで。


 太一は少し苛立った。


「安心しました?」


 圭介が少しだけ笑う。


「したよ」


 即答だった。


 太一は言葉を失う。


 圭介は続ける。


「お前が、俺のせいで誰ともまともに付き合えなくなったらどうしようって、ちょっと思ってたから」


「……」


「でも違った」


 圭介は静かだった。


「ちゃんと恋人できて」


「ちゃんと好きになって」


「ちゃんと幸せそうで」


 太一は歩く速度を少し落とした。


 胸が痛い。


 圭介はそんな太一を見ないまま、ぽつりと言った。


「よかった」


 その“よかった”が。


 本当に、

 自分を手放そうとしている声だった。


 太一は立ち止まりそうになるのを堪えた。


 圭介の“よかった”は、

 昔みたいな独占欲が混じっていなかった。


 欲しがらない。


 引き止めない。


 幸せならそれでいいって顔をする。


 そのくせ。


 その声だけで、

 胸の奥をぐちゃぐちゃにしてくる。


「……なんなんだよ」


 太一の声が少し掠れる。


 圭介が隣を見る。


「何が」


「今さら、そういう顔すんなって」


 圭介は少し黙った。


 夜道を車のライトが流れていく。


「亮さんといる時のお前、安心した顔してる」


「……」


「前の俺じゃ、多分ああいう顔させられなかった」


 太一は何も返せなかった。


 それは事実だった。


 亮といる時の自分は、

 ちゃんと恋人をしている。


 隠さなくていい。

 遠慮しなくていい。

 “好き”を我慢しなくていい。


 幸せだ。


 ちゃんと。


 なのに。


「……先輩」


「ん?」


「なんで海外行くんですか」


 圭介は少し笑った。


「仕事だから」


「そういうのじゃなくて」


 圭介が歩幅を少し緩める。


「このまま近くにいたら、お前困るだろ」


 太一の呼吸が止まる。


「俺、多分また欲しがるし」


「……」


「お前も優しいから、放っとけない顔したら揺れる」


 図星だった。


 太一は俯く。


 圭介は続ける。


「だったら、一回ちゃんと離れた方がいい」


 その言葉が、

 太一には怖かった。


 本当に離れてしまう。


 もう、

 会えない場所へ行ってしまう。


 圭介は少しだけ笑う。


「亮さん、いい男だしな」


「……」


「俺よりちゃんと恋人できる」


 太一は立ち止まった。


 圭介も足を止める。


 太一は唇を噛んだ。


「……それでいいんですか」


 圭介は答えなかった。


 数秒沈黙してから、

 困ったみたいに笑う。


「よくはないよ」


 太一の胸が大きく鳴る。


「でも、お前が幸せなら耐えるしかないだろ」


 その言葉が。


 太一には、

 亮の優しさよりずっと苦しかった。



 太一は何も言えなかった。


 圭介は昔からずるい。


 自分が欲しい時は強引なくせに、

 本当に大事なところだけ、こうやって引く。


 その優しさが、

 今さら一番刺さる。


「……俺」


 声がうまく出ない。


 圭介が静かに待っている。


 太一は俯いたまま言った。


「亮といると、ちゃんと幸せなんです」


「ああ」


「普通に好きだし」


「うん」


「大事にされてるって分かるし」


 圭介は何も否定しない。


 それが余計苦しい。


「でも」


 太一はゆっくり顔を上げた。


「先輩いなくなるの、嫌です」


 圭介の表情が止まる。


 太一自身も、

 口にしてからやっと理解した。


 恋人を取られるとかじゃない。


 圭介が、

 自分の人生から消えるのが怖い。


「……」


 圭介はしばらく黙っていた。


 それから小さく笑った。


「それ言われると、行きたくなくなるな」


 冗談みたいに言ったくせに、

 声が少し掠れていた。


 太一の胸が強く痛む。


 圭介は視線を逸らした。


「だから、言うなよ」


「……」


「俺、今かなり頑張ってるから」


 欲しがらないように。


 引き止めないように。


 ちゃんと離れられるように。


 圭介はずっと、それを耐えていた。


 太一は喉を鳴らした。


「……なんで今さらなんですか」


 圭介が少し笑う。


「お前がちゃんと離れたからだろ」


 その答えが、

 あまりにも遅くて。


 太一は泣きそうになりながら笑った。


「最悪」


「知ってる」


 夜風が吹く。


 二人の間に、

 昔みたいな距離はもうない。


 でも。


 完全に終わったわけでもないと、

 太一は初めて思ってしまった。


 駅の入口が見えてきた。


 ここで別れればいい。


 改札を抜けて、別々のホームへ行って。

 太一は亮の部屋へ帰る。

 圭介は出国準備の残る自分の部屋へ帰る。


 それが正しい。


 分かっているのに、足が重かった。


「……平田」


 圭介が呼ぶ。


 苗字だった。


 太一はそれが嫌だった。


「やめてください」


「何を」


「平田って呼ぶの」


 圭介の目が少しだけ揺れる。


「仕事の人みたいで嫌だ」


 言ってから、太一は自分で息を止めた。


 圭介も黙った。


 ほんの数秒。


 それから、圭介が低く言う。


「……太一」


 その声だけで、胸が詰まった。


 久しぶりにちゃんと呼ばれた気がした。


「俺、もう行くから」


「……はい」


「でも」


 圭介は少しだけ笑った。


「お前が呼んだら、たぶん戻る」


 太一の喉が震える。


「そういうこと言うなよ」


「最後だから」


「ずるい」


「知ってる」


 圭介は改札の方を見る。


「亮さんのとこ帰れ」


「……」


「ちゃんと大事にされてこい」


 太一は頷けなかった。


 亮のことは好きだ。


 幸せになれると思う。


 でも今、目の前の男がいなくなることが、どうしようもなく怖かった。


「……俺、どうしたらいいんですか」


 圭介は困ったように笑った。


「俺に聞くなよ」


 前にも似たようなことを言われた。


 でも今度は責める声じゃない。


 選べ、と言われている。


 太一自身の意思で。


 圭介は一歩下がった。


「じゃあな、太一」


 太一はその背中を見送った。


 追いかけなかった。



---


 亮は、何も聞かなかった。


 玄関で太一の顔を見た瞬間、全部分かったみたいに少しだけ笑って、


「おかえり」


 と言った。


 いつも通りだった。


 上着を受け取って、

 水を出して、

 ソファに座る太一の隣へ来る。


「……送別会、楽しかった?」


「普通」


「そっか」


 亮はそれ以上聞かない。


 太一はその沈黙が苦しくなって、自分から口を開いた。


「……先輩と話した」


「うん」


「海外行くの、俺が困るからって」


「うん」


「俺が幸せなら耐えるしかないって」


 亮は静かに聞いていた。


 太一は膝の上で手を握る。


「俺、先輩いなくなるの嫌だって言った」


 亮の指が、ほんの少しだけ止まった。


 けれどすぐ、いつもの顔で笑った。


「そっか」


「……怒らないの」


「怒りたいよ」


 亮は正直に言った。


「でも、君がそういう顔して帰ってきた時点で、もう分かってたし」


 太一は顔を上げられなかった。


 亮は太一の髪を撫でる。


「太一」


「……ん」


「俺のこと好き?」


 太一はすぐに頷いた。


「好き」


「うん」


「ちゃんと好きだよ」


「うん」


 亮は少しだけ笑った。


「でも、あの人がいなくなるのは嫌なんだね」


 太一は答えられなかった。


 亮はそれを責めなかった。


 ただ、太一を抱き寄せて、いつもより少しだけ強く抱きしめた。


「……俺、優良株なのになぁ」


「……ごめん」


「謝らないで」


 亮の声が少し掠れた。


「謝られると、ほんとに負けたみたいで嫌だ」


  太一は亮の胸に額を押しつけたまま、震える声で言った。


「俺、ほんとに亮のこと好きなんだよ」


「……うん」


「お前の笑った顔も、ちょっと変態なとこも、いつも俺のこと見てくれるその眼も……」


 亮の腕が、少しだけ強くなる。


 太一は唇を噛んだ。


「なのに」


 その先が言えなかった。


 好きなのに。


 幸せなのに。


 亮を選べばきっと間違いないのに。


 圭介がいなくなると思うと、息ができない。


 亮は太一の髪に唇を寄せて、静かに言った。


「うん」


「……」


「知ってるよ」


 その声が優しすぎて、太一は余計に苦しくなる。


「だから、しんどいんだよね」


 亮は笑わなかった。


「君が俺を好きなの、ちゃんと分かるから」


「……」


「でも、それでも足りない人がいるんだよね」


 太一は、何も返せなかった。


 亮は、太一を抱きしめたまま静かに言った。


「でも、圭介さんはもう海外行くよ」


 太一の肩が小さく揺れる。


「もう会わない」


「……」


「俺は、ずっとそばにいるよ」


 亮の声は穏やかだった。


 責めるわけでも、

 泣き落とすわけでもない。


 ただ、事実みたいに置かれる。


「それじゃ足りない?」


 太一は目を閉じた。


 足りないわけじゃない。


 亮はちゃんと温かい。


 ちゃんと幸せだ。


 隠さなくていい。

 恋人として扱ってくれる。

 甘やかしてくれる。


 亮といると、

 自分はちゃんと愛されていると思える。


 それなのに。


 圭介がいなくなると思うと、

 胸の奥が空っぽになる。


 太一は苦しそうに息を吐いた。


「……分かんねぇ」


 亮は何も言わない。


 ただ、

 太一の背中をゆっくり撫でる。


「俺さ」


 亮がぽつりと言う。


「君が俺を選んでくれたら、絶対後悔させない自信あるんだよね」


 太一の喉が震える。


「うん……」


「ちゃんと幸せにする」


「……うん」


「だから、俺を選んでほしい」


 その言葉は真っ直ぐだった。


 亮はずっと、

 太一を“幸せにする側”として立っていた。


 でも圭介は違う。


 幸せかどうかも分からないのに、

 どうしようもなく離れられない。


 太一は、初めてそれを怖いと思った。


 太一は、亮の腕の中で小さく息を吐いた。


「俺、ちゃんと考える」


 亮の手が止まる。


「……うん」


「ごめん。今日は帰るね」


 亮は引き止めなかった。


 ただ、少しだけ寂しそうに笑った。


「分かった」


 玄関まで送られる。


 靴を履いて、ドアノブに手をかける。


 背中に亮の声が落ちた。


「太一」


「……ん」


「ちゃんと考えて」


 太一は振り返らずに頷いた。


「うん」



 夜道を一人で歩く。


 スマホは握っていない。


 圭介にも、亮にも、連絡しない。


 俺は何を迷ってるんだろう。


 亮は優しい。


 ちゃんと好きだ。


 幸せにしてくれると思う。


 圭介だって言っていた。


『亮さんのとこ帰れ』


『ちゃんと大事にされてこい』


 胸がざらつく。


 なんで圭介に言われないといけない?


 俺と亮の問題なのに。


 そもそも。


 なんで俺は、圭介を忘れられないんだろう。


 今、こんなに大事にしてもらっているのに。


 隠されない。


 恋人として呼ばれる。


 抱きしめられる。


 好きだと言われる。


 それなのに、

 圭介がいなくなるのが嫌だ。


 何も貰えなかった。


 恋人にもされなかった。


 未来もなかった。


 今さら好きって言われても、

 また同じかもしれない。


 しかも、海外に行く奴だ。


 選ぶ理由なんて、

 どこにもないはずなのに。


 それでも。


 圭介が自分の人生から消えると思うと、

 息の仕方が分からなくなる。


 太一は立ち止まり、夜空を見上げた。


「……最悪」


 声は、夜に溶けた。


 出国の前日。


 亮は急に入った出張で、地方に行っていた。


『夜には電話するね』


 そう言ってくれた。


 太一も頷いた。


 けれど一人になった部屋は、妙に広かった。


 考える。


 ちゃんと考える。


 そう決めたはずなのに、何もまとまらない。


 亮のことは好きだ。


 圭介のことは、分からない。


 いや、分かっているのかもしれない。


 でも分かった瞬間、何かが壊れそうで、太一はずっとそこから目を逸らしていた。


「……暇」


 呟いて、棚の横に置いてあった粘着クリーナーを手に取る。


 コロコロ、コロコロ。


 ラグを転がす。


 コロコロ、コロコロ。


 ソファの端。


 クッション。


 意味もなく何度も往復させる。


 手持ち無沙汰だった。


 亮の匂いが少し薄い部屋で、

 太一は自分が何を待っているのか分からないまま、ただ床を掃除していた。


 その時、インターホンが鳴った。


 太一は手を止める。


「……亮?」


 予定より早い。


 出張がなくなったのかと思って、モニターを覗く。


 そこにいたのは、圭介だった。


 スーツ姿。


 ネクタイは少し緩んでいて、髪も乱れている。


 明らかに酔っていた。


 太一は息を止めた。


 出国前日。


 明日にはいなくなる男が、

 今、自分の部屋の前にいる。


「……何してんだよ」


 モニター越しに言うと、圭介がゆっくり顔を上げた。


『悪い』


 声が掠れている。


『最後に、一回だけ』


 太一はドアを開けなかった。


 開けてはいけないと思った。


 なのに、指が震える。


『帰るから』


 圭介は小さく笑った。


『顔だけ見たら、帰る』


 太一は目を閉じた。


 最悪だ。


 本当に、最悪だ。


 でも。


 明日いなくなる。


 そう思った瞬間、太一は玄関へ向かっていた。


 鍵を開ける音が、やけに大きく響いた。


 ドアを少しだけ開ける。


 冷たい夜気と、酒の匂いが入ってきた。


 圭介はそこに立っていた。


 いつもの整った顔じゃない。

 目元が赤くて、ひどく疲れている。


「……何しに来たんですか」


「顔見に」


「見たでしょ」


「ああ」


 圭介は頷く。


 なのに帰らない。


 太一はドアノブを握ったまま、低く言った。


「帰ってください」


「帰る」


「じゃあ帰れよ」


「……うん」


 圭介は笑った。


 情けない顔だった。


「明日、行く」


「知ってます」


「半年かもしれないし、もっと長いかもしれない」


「知ってる」


「お前に連絡しない」


 太一の指が止まる。


 圭介は続けた。


「お前が亮さんといるなら、邪魔しない」


「……」


「だから今日だけ」


 圭介の声が少し震えた。


「今日だけ、好きだったやつの顔見たかった」


 太一は息ができなかった。


「……ずるい」


「ああ」


「ほんと、ずるい」


「知ってる」


 圭介は一歩も入ってこない。


 玄関の外で、ちゃんと立ち止まっている。


 その線を越えないことが、余計に太一を壊した。


「なんで酔ってんだよ」


「素面だと来れなかった」


「来るなよ」


「うん」


「なんで来たんだよ」


「会いたかった」


 太一は俯いた。


 コロコロを持ったままだったことに、今さら気づく。


 情けない。


 こんな時に、自分は掃除なんかしていた。


「……先輩」


「ん」


「俺、亮と付き合ってる」


「知ってる」


「亮のこと好きだよ」


「うん」


「幸せだよ」


「よかった」


 その“よかった”が、また胸を刺す。


 太一は顔を上げた。


「よくない」


 圭介の目が揺れる。


「よくないんだよ」


 声が震えた。


「亮といると幸せなのに、あんたがいなくなるの嫌なんだよ」


 圭介は何も言わない。


 太一は続けた。


「なんでだよ」


「……」


「なんで何もくれなかったくせに、こんなに残ってんだよ」


 圭介の顔が歪む。


「ごめん」


「謝んな」


「ごめん」


「謝んなって言ってんだろ」


 太一はドアを開けたまま、泣きそうに笑った。


「俺、どうしたらいいんですか」


 圭介はしばらく黙っていた。


 それから、掠れた声で言った。


「俺を選ぶな」


 太一の呼吸が止まる。


「……は?」


「今の俺は、選ぶな」


 圭介は笑おうとして失敗した。


「海外行くし、遅いし、最低だったし」


「……」


「亮さんの方が、ずっといい」


 太一は唇を噛んだ。


「じゃあなんで来たんだよ」


「好きだから」


 即答だった。


 太一の胸が鳴る。


 圭介は初めて、逃げなかった。


「好きだから、最後に見たかった」


「……」


「でも、好きだから、今のお前は奪わない」


 太一は、ドアノブを握る手に力を込めた。


 圭介は一歩下がる。


「じゃあな、太一」


 その背中が離れていく。


 明日、本当にいなくなる。


 太一は気づいた時には、ドアを開け放っていた。


「待って」


 圭介の足が止まる。


 太一は玄関から一歩出る。


「……待ってよ」


 声が、思ったより小さかった。


「俺、まだ何も決められてない」


 圭介は振り返らない。


 太一は続ける。


「でも」


 喉が詰まる。


「このまま行かれるのは、嫌だ」


 圭介の肩が、小さく震えた。


 圭介は振り返らなかった。


 振り返ったら、きっと全部壊れる。


 太一はそれが分かっているのに、止められなかった。


「……圭介!」


 その瞬間。


 圭介の足が止まる。


 肩が、小さく震えた。


 太一自身も、呼んでから気づく。


 普段は“先輩”だ。


 曖昧な関係だった頃も、

 本当に甘えた時だけ、

 太一は圭介の名前を呼んだ。


 抱きしめてほしい時。


 帰らないでほしい時。


 酔って弱ってる時。


 そういう時だけ。


 だから圭介は、振り返れなかった。


「……それ、ずるい」


 掠れた声だった。


 太一は玄関から一歩出た。


「……居なくなるなよ」


 圭介の呼吸が止まる。


 太一は泣きそうな顔で笑った。


「俺の目につくところで、幸せになっててくれよ」


「……」


「眺めてられれば、それでよかったのに」


 圭介がゆっくり振り返る。


 太一はもう止まれなかった。


「なんでいなくなるんだよ」


「……」


「なんで、見てることすらできなくするんだ」


 声が震える。


「大学の時からずっと」


「見てるだけでよかったのに」


 圭介の思考が止まる。


「……は?」


 掠れた声が漏れる。


「大学から?」


 太一は言ってしまってから、少し顔を歪めた。


 圭介は一歩近づく。


「何それ。知らない」


「……言ってない」


「お前、男嫌だって言ってたじゃん」


「言ってたよ」


「じゃあ何で」


「知らねぇよ!」


 太一の声が少し大きくなる。


 夜の廊下に響いて、二人とも一瞬黙った。


 隣の部屋の気配が動く。


 太一は顔をしかめて、ドアを大きく開けた。


「……外で話すことじゃない」


「太一」


「いいから入れよ」


 圭介は躊躇した。


「……いいのか」


「俺の家だし」


 低い声だった。


「今さらそこだけ遠慮すんな」


 圭介は何も言えなかった。


 靴を脱いで、部屋へ入る。


 酒の匂いと夜気をまとった圭介が、

 太一の生活の中へ入ってくる。


 その瞬間、

 太一の胸がまた変な音を立てた。


 明日、いなくなる人。


 ずっと見ていた人。


 何も知らなかった人。


 太一はドアを閉めて、背中を預けた。


「……大学からって、何」


 圭介が静かに聞く。


 太一はソファへ座り、顔を逸らした。


「だから、見てただけ」


「見てるだけでよかったって」


「うん」


「なんで」


「先輩だったから」


 太一は苦く笑う。


「モテるし、陽キャだし、女の人途切れないし」


「……」


「俺、普通に憧れてたんだよ」


 圭介は黙って聞いている。


 太一は続ける。


「だから、近くにいられるだけでよかった」


「就活相談乗ってもらって」


「飲み連れてってもらって」


「先輩後輩でいられればよかった」


 そこで、太一は少しだけ目を伏せた。


「……あんたが触るまでは」


 圭介の喉が動く。


「社会人になって再会して」


「飲んで」


「終電なくなって」


「キスされて」


 太一は笑った。


 泣きそうな顔で。


「俺、死ぬほど嬉しかったんだよ」


 圭介が目を閉じる。


 太一は止まれなかった。


「やっと見てるだけじゃなくなったって思った」


「先輩も俺のこと欲しいんだって」


「だから、恋人じゃなくても我慢した」


 部屋が静まり返る。


 圭介はゆっくり息を吐いた。


「……ごめん」


「だから謝んな」


「でも」


 圭介の声が掠れる。


「俺、それ知らないまま、お前に触ってた」


 太一は目を逸らした。


「知らねぇ方が楽だったろ」


「楽じゃねぇよ」


 即答だった。


 圭介は太一を見る。


 今までで一番苦しそうな顔で。


「知ってたら、あんな事しなかった」


 太一の顔が強張る。


「あんな事って?」


 圭介が目を伏せる。


「……抱いたこととか」


 太一はすぐに言い返した。


「は?」


「……」


「そこから無しになんの?」


 圭介は何も言えない。


 太一は立ち上がった。


「お互い様って言ったじゃん」


「……」


「俺も都合良かったって」


 圭介が苦しそうに眉を寄せる。


「それは、お前が自分守るために言ってただけだろ」


「違う」


「違わない」


「違うって!」


 声がぶつかる。


 太一は息を荒くしたまま、圭介を睨んだ。


「俺、嫌なら行ってない」


「……」


「終電なくなるまで飲んで、家行って、キスされて」


 喉が震える。


「全部、自分で選んだ」


 圭介は目を閉じた。


 太一は続ける。


「確かに苦しかったよ」


「恋人じゃないのもしんどかった」


「彼女の話されるのも最悪だった」


「でも」


 太一は唇を噛む。


「俺、あんたに触られるの嫌だったこと一回もない」


 部屋が静まり返る。


 圭介の呼吸だけが少し乱れていた。


「……太一」


「だから、勝手に被害者みたいにすんな」


 太一は苦く笑った。


「俺まで否定されてるみたいで腹立つ」


 圭介は何も返せなかった。


 太一は視線を落とす。


「好きだったんだよ」


「ずっと」


「だから嬉しかった」


「嬉しかったから、やめられなかった」


 圭介が顔を覆う。


 その姿を見て、太一は少しだけ泣きそうに笑った。


「……今さらだろ」


 太一は、震える息を吐いた。


「俺、お前に恋人にしてって縋ったことなかっただろ」


 圭介の顔が上がる。


「分かってたんだよ、ちゃんと」


「……」


「お前が俺を恋人にしないことも、彼女と結婚するかもしれないことも」


 太一は笑った。


 でも、その顔はぐしゃぐしゃだった。


「結婚するまでだって、元々決めてたんだ」


 圭介の表情が止まる。


「だから」


 太一は声を荒げた。


「俺のためを思うなら、見えるところで幸せになっててくれればそれで良かったんだよ!」


 部屋が静まり返る。


 圭介は何も言えなかった。


 太一はずっと、

 選ばれないことを前提にしていた。


 恋人になれないと分かっていて、

 それでも近くにいた。


 終わりの日まで。


 圭介が誰かと結婚する日まで。


 それを、自分なりの終点として用意していた。


「なのに」


 太一の声が小さくなる。


「なんでいなくなるんだよ」


「……」


「なんで、俺の見えるところから消えんだよ」


 圭介の顔が歪む。


「太一」


「やめろ」


「……」


「今、優しく呼ぶな」


 太一は俯いて、拳を握った。


「忘れたいわけじゃなかった」


「嫌いになりたいわけでもなかった」


「ただ、見えるところで幸せになっててくれたら」


 喉が詰まる。


「俺もちゃんと、終われたのに」


 太一の声が、少しずつ崩れていった。


「結婚やめるとか」


「別れるとか」


「海外行くとか」


 圭介の顔が歪む。


「それが俺のせいで」


「違う」


「俺のせいだろ!」


 太一は、もう圭介を見ていなかった。


 自分の中に沈んでいくみたいに、ぼろぼろと言葉を落とす。


「俺のせいで、あんたの幸せそうな顔が見れなくなる」


「いなくなる」


「もう会えなくなる」


 息が詰まる。


「最悪だ」


「俺のせいだ」


「俺が、結婚する日まで何も言わなければ、あんたは幸せになれたはずなんだ」


 圭介が一歩近づく。


「太一」


「ごめん」


 太一は首を振る。


「俺が軽率だった」


「……」


「自分も幸せになりながら、あんたの幸せを見たいとか思ったのがいけなかった」


 圭介は、たまらず太一の腕を掴んだ。


 今度は乱暴じゃなかった。


 逃げていく思考を、止めるみたいに。


「違う」


 低い声だった。


「違うって言ってるだろ」


「でも」


「俺が別れたのは、俺があいつと結婚できなかったからだ」


 太一の目が揺れる。


「海外行くのも、お前のせいじゃない」


「……」


「俺が逃げるんだよ」


 圭介は苦く笑った。


「お前を見てたら、また欲しがるから」


 太一は息を止めた。


「だから俺の問題だ」


「お前が悪いんじゃない」


 腕を掴む手に、少しだけ力がこもる。


「俺の幸せを、お前が勝手に決めるな」


 太一は、腕を掴まれたまま固まった。


「……勝手にって」


「ああ」


「だって、俺は」


「お前はずっと、俺の幸せを見てる側に回ろうとしてただけだろ」


 圭介の声が低くなる。


「俺の隣に来たいって、一回も言わずに」


「……」


「俺が誰かと幸せになってるのを見て、それで終わろうとしてた」


 太一の喉が詰まる。


「でも俺は、そんな幸せいらなかった」


「……」


「お前が見てるだけの場所で、俺だけ普通に幸せになるとか」


 圭介は苦しそうに笑った。


「そんなの、もう無理だろ」


 太一の目が揺れる。


「でも、亮が」


「亮さんはいい男だよ」


 即答だった。


「お前をちゃんと大事にしてる」


「……」


「だから俺は、明日ちゃんと行く」


 太一の腕を掴む手が、少しずつ緩む。


「行くんだ」


 太一の声が掠れた。


「ああ」


「俺が、行くなって言っても?」


 圭介の表情が歪んだ。


「言うな」


「なんで」


「行けなくなるから」


 太一は唇を噛んだ。


 圭介は手を離す。


 その温度が消えた瞬間、太一は自分でも驚くくらい寂しくなった。


「……圭介」


「その呼び方もやめろ」


「やだ」


「太一」


「やだ」


 太一は俯いたまま、子どもみたいに繰り返した。


「いなくなるなよ」


 圭介は何も言わなかった。


 ただ、苦しそうに目を伏せる。


 太一は小さく笑う。


「俺、最低だな」


「知ってる」


「そこは否定しろよ」


「無理だろ」


 圭介の声が少しだけ昔に戻る。


 太一はそれだけで、泣きそうになった。


 圭介は玄関の方へ視線を向ける。


「帰る」


「……」


「ここにいたら、本当に帰れなくなる」


 太一は止めたかった。


 でも止めたら、全部壊れる。


 亮も。


 圭介も。


 自分も。


 圭介は靴を履き、ドアノブに手をかけた。


 最後に振り返る。


「連絡する」


「……本当に?」


「ああ」


「邪魔しないんじゃなかったのかよ」


 圭介は少し困ったみたいに笑った。


「邪魔しちゃうのは、俺、往生際悪いよな」


 太一は目を伏せる。


「……うん」


「だから、ハガキにする」


 太一が顔を上げた。


「は?」


「ハガキ」


「今どき?」


「うん」


 圭介は少し笑った。


「それなら亮さんも許してくれるだろ」


 太一は思わず笑ってしまった。


「なんだそれ」


「生存確認くらい」


「軽」


「重いよりいいだろ」


 部屋の空気が少しだけ緩む。


 圭介はその空気のまま、小さく息を吐いた。


「……俺は行くよ」


 太一の胸がまた痛む。


 でも今度は、

 さっきみたいな“消える”感じじゃなかった。


「最後に本音聞けてよかった」


「……」


「お前、ちゃんと俺のこと好きだったんだな」


「今さらかよ」


「ほんとにな」


 圭介は笑った。


 泣きそうな顔で。


「太一、幸せになってくれよ」


 その声は、もう諦めだけじゃなかった。


「お前が幸せなら」


 圭介は静かに言う。


「俺も、幸せになれそうだから」


 太一は何も言えなかった。


 言ったら、きっと引き止める。


 今度こそ本当に、

 行くなと縋ってしまう。


 だから唇を噛んで、頷くこともできずに立ち尽くした。


 圭介はドアを開ける。


 冷たい夜気が入ってくる。


「じゃあな、太一」


 今度は、苗字じゃなかった。


 太一は小さく息を吸った。


「……行ってらっしゃい」


 圭介の目が揺れた。


 それでも彼は、今度こそ背を向けた。


 ドアが閉まる。


 太一はしばらく、その場から動けなかった。


 部屋が静かだった。


 さっきまで圭介がいたのに、

 もう何も残っていない。


 酒の匂いだけが、少しだけ漂っている。


 太一は玄関の前へ座り込んだ。


「……何だよ、それ」


 幸せになってくれ。


 お前が幸せなら、俺も幸せになれそうだから。


 そんな綺麗に言うな。


 太一は顔を覆った。


 圭介は最後までずるかった。


 欲しがるくせに、

 最後はちゃんと手放そうとする。


 亮は真っ直ぐだ。


 ちゃんと好きだと言って、

 ちゃんと幸せにするって言ってくれる。


 圭介は違う。


 幸せになれって言うくせに、

 ハガキ送るとか言う。


 切る気ないじゃん。


「……最低」


 スマホが震えた。


 亮からだった。


『まだ起きてる?』


 太一はしばらく画面を見つめる。


 返信を打とうとして、止まる。


 今の顔を見せたら、

 亮はきっと気づく。


 圭介が来たことも。


 自分がまだ揺れていることも。


 太一は長く息を吐いて、短く返した。


『起きてる』


 すぐ既読がつく。


『声聞きたい』


 胸が痛む。


 亮は、何も悪くない。


 本当に何も悪くない。


 なのに自分は今、

 別の男が帰った玄関の前で、

 その恋人に返信している。


 太一はゆっくり立ち上がった。


 洗面所へ向かう。


 鏡の中の自分は、ひどい顔だった。


「……亮」


 小さく名前を呼ぶ。


 好きだ。


 本当に。


 でも。


 太一はその先を、まだ言葉にできなかった。


 通話ボタンを押すまで、少し時間がかかった。


 コール音が一回。


 二回。


 三回目の前に、亮が出た。


『太一?』


 その声を聞いた瞬間、胸が痛くなる。


「……起きてたのかよ」


『起きてるよ。君が変な返信したから』


「変じゃねぇし」


『変だよ』


 亮は少し笑った。


 いつもの声だった。


 太一の好きな、軽くて、甘くて、優しい声。


『何かあった?』


 太一は鏡の前で目を伏せた。


 嘘をつきたくない。


 でも、全部言うのも怖い。


「……圭介が来た」


 電話の向こうが、少しだけ静かになった。


『そっか』


「明日行くから、最後に顔見たかったって」


『うん』


「俺、部屋に入れた」


『……うん』


 亮は責めなかった。


 その沈黙が、逆に痛かった。


「ごめん」


『謝ることした?』


「分かんねぇ」


『じゃあ、まだ謝らなくていいよ』


 太一は目を閉じる。


「亮」


『ん?』


「俺、ちゃんと考えるって言ったのに」


『うん』


「まだ分かんねぇ」


 声が震えた。


「亮のこと好きなのに」


『うん』


「圭介がいなくなるの、やっぱり嫌だった」


 亮はしばらく黙っていた。


 それから、いつもより少し低い声で言った。


『そっか』


 たったそれだけ。


 太一は、泣きそうになった。



 亮は、少しだけ息を吐いた。


『でもさ』


「……」


『太一は、圭介さんを帰した』


 太一の呼吸が止まる。


『今、俺と話してる』


「……」


『ちゃんと選んでるよ』


 その声は、優しかった。


 優しすぎて、苦しい。


「俺、そんな立派じゃ」


『立派だよ』


 亮は笑った。


『君、優しいから、誰も傷つけたくなくてぐちゃぐちゃになってるだけ』


 太一は鏡に映る自分を見る。


 目元が赤い。


 ひどい顔だ。


『でも、ちゃんと帰したじゃん』


「……」


『行くなって縋ってたら、たぶん圭介さん帰れなかったよ』


 太一は何も言えなかった。


 圭介も言っていた。


『行けなくなるから』


 あれは本音だった。


『でも太一、最後ちゃんと手放した』


「手放せてねぇよ」


『うん』


 亮は否定しない。


『だからまだ苦しいんだろうね』


 静かな声だった。


『でも、君はちゃんと選べる人だよ』


「……」


『大丈夫』


 太一は唇を噛む。


 亮はいつも、

 自分を信じる側に立ってくれる。


 圭介は、

 自分を壊す側だった。


 なのに。


 太一は目を閉じた。


 どうしても、

 壊された場所が疼く。


 翌日。


 昨日のことが嘘みたいに、会社の時間は過ぎていった。


 メールを返して、

 会議に出て、

 資料を修正して。


 周囲は普通だった。


 圭介が今日出国することも、

 昨日自分の家に来たことも、

 全部、自分だけの秘密みたいだった。


 太一は何度も時計を見た。


 何時の便なんだろう。


 今まだ日本にいるのか。


 もう空港か。


 搭乗したのか。


 考えたくないのに、ずっと頭の隅にいる。



 夜。


 亮が太一の家へ来た。


 ドアを開けた瞬間、太一の顔を見て、小さく息を吐く。


「……ひどい顔」


「うるせぇ」


 亮は何も聞かなかった。


 ただ靴を脱いで部屋へ入り、静かに言った。


「俺んち帰ろ」


 太一は少しだけ目を上げる。


「……なんで」


「一人にしたくない」


 その声が優しくて、太一は断れなかった。



 亮の部屋は、いつも通り温かかった。


 でもその夜の亮は、少し違った。


 優しいままなのに、

 どこか必死だった。


 太一を抱きしめて、

 キスして、

 何度も名前を呼ぶ。


「太一」


「……」


「こっち見て」


 亮の手が、頬を包む。


 太一は逆らえなかった。


 亮はそのまま太一を抱き込む。


 逃がさないみたいに。


 でも傷つけないように。


 太一の頭が真っ白になるまで、

 亮はずっと触れていた。


 考えなくていいように。


 圭介を思い出さなくて済むように。


 亮なりに、

 必死で太一を引き留めていた。



 土曜の朝。


 目が覚める。


 隣には亮がいた。


 寝癖のまま、

 太一を抱きしめて眠っている。


 暖かい。


 安心する。


 なのに。


 太一はぼんやり天井を見上げたまま、理解してしまった。


 もういない。


 圭介はもう、日本にいない。


 昨日までここにいたのに。


 もう会えない距離へ行った。


 その瞬間。


 太一の目から、勝手に涙が落ちた。


 亮が気づいて、ゆっくり目を開ける。


「……太一?」


 太一は声を出せなかった。


 ただ涙だけが止まらなかった。


 亮の腕が、ゆっくり強くなる。


「……泣かないでよ」


 いつもの軽さがない声だった。


「俺、頑張ったのに」


 太一は息を詰める。


「ごめ……」


「謝らないで」


 亮は太一の額に唇を押し当てた。


「謝られると、ほんとに俺、負けたみたいになる」


 太一は何も言えなかった。


 亮のことが好きだ。


 好きなのに。


 幸せなのに。


 圭介がいないと分かった瞬間、身体の奥が空っぽになった。


「……亮」


「うん」


「俺、最低だ」


「知ってる」


 亮は小さく笑おうとして、失敗した。


「でも、好きだよ」


 その言葉が優しすぎて、太一はまた泣いた。


 亮は太一を抱きしめたまま、静かに目を閉じる。


「……行っちゃったんだね」


 太一は小さく頷いた。


「うん」


「そっか」


 亮はそれだけ言って、太一の髪を撫でた。


 それ以上、責めなかった。


 引き止めもしなかった。


 ただ、朝の光の中で、太一が泣き止むまで抱いていた。


 太一は、亮のシャツを握ったまま言った。


「このまま亮といた方が幸せなのは分かってる」


 亮の手が止まる。


「お前、いい男だから」


「……なら」


 亮の声が少しだけ掠れた。


「それなら、俺にしときなよ」


 太一は目を閉じた。


「でも、ごめん」


 亮の息が止まる。


「俺がダメなんだ」


「……」


「やっぱり、忘れられない」


 亮はしばらく黙っていた。


 それから、無理に笑った。


「今だけだよ」


「……」


「だってもういない」


 亮は太一を抱きしめる。


「いずれ忘れる」


「……」


「忘れさせてみせる」


 太一は小さく首を振った。


「違う」


「何が」


「忘れたくないんだ」


 亮の腕が、ほんの少し震えた。


 太一は顔を上げる。


「忘れたくない」


「……太一」


「亮といたら、幸せになれると思う」


「うん」


「でも、圭介のこと忘れて幸せになるのは嫌だ」


 亮は何も言わなかった。


 太一は泣きながら続けた。


「俺、あいつが見えるところにいればそれでよかったんだ」


「……」


「だから、忘れるくらいなら、まだ好きなままでいたい」


 亮は苦しそうに笑った。


「でも、俺と別れたからって付き合えるとは限らないよ」


「いい」


「海外だよ」


「うん」


「会えないかもしれない」


「うん」


「それでも?」


 太一は頷いた。


「いいんだ」


 声は小さかった。


「俺は、見れればいいだけだから」


 亮は目を閉じた。


 それが嘘だと、たぶん二人とも分かっていた。


 でもその嘘を抱えたままでも、

 太一は圭介を選ぼうとしている。


 亮は太一を抱きしめたまま、長く息を吐いた。


「……ほんと、勝てないな」


 太一は何も言えなかった。


 亮は、しばらく何も言わなかった。


 太一を抱きしめたまま、ただ静かに呼吸をしている。


 それから、少しだけ掠れた声で言った。


「……忘れなくていいから」


 太一の肩が揺れる。


「いない間は、俺のそばにいたら」


 太一は目を閉じた。


 その提案は、亮らしかった。


 優しくて、

 ずるくなくて、

 太一を無理やり選ばせない。


 だからこそ、だめだった。


 太一はゆっくり首を振る。


「それはだめ」


「……」


「俺、お前も好きだから」


 亮の呼吸が止まる。


「だから、お前を雑に扱うの、俺が許せない」


 太一は亮を見る。


 ちゃんと。


 泣きそうな顔で。


「お前は、大切に扱われないとだめだよ」


 亮は笑おうとして、うまくできなかった。


「何それ」


「……ほんとだよ」


「今、振られてる?」


「分かんねぇ」


「ひど」


 亮は小さく笑った。


 でも、その目は赤かった。


「俺さ」


 亮が静かに言う。


「君が圭介さん選ぶなら、最後まで嫌な男になれない気がする」


 太一の喉が詰まる。


 亮は太一の頬を撫でた。


「だって君、俺のことちゃんと好きだったもん」


 それが一番苦しかった。


 太一は、ゆっくり亮の腕から離れた。


 亮は引き止めなかった。


 ただ、離れていく温度を静かに見送っていた。


「……ごめんな」


 太一の声は掠れていた。


「俺を選んでくれたのに」


 亮は目を伏せる。


「俺が、同じだけ返せなくて」


「……」


「ごめん」


 亮は少しだけ笑った。


 困ったみたいな、泣きそうな笑い方だった。


「ちゃんと返してくれてたよ」


 太一は首を振る。


「足りなかった」


「うん」


 亮は否定しなかった。


「足りなかったね」


 その優しさが、最後まで亮らしかった。


 太一は唇を噛む。


「……帰るね」


 亮はしばらく黙っていた。


 それから、小さく頷く。


「うん」


 太一は立ち上がる。


 亮の部屋。


 何度も泊まった場所。


 抱きしめられて眠った場所。


 幸せだった場所。


 玄関へ向かう背中に、亮の声が落ちる。


「太一」


 太一は振り返る。


 亮はソファに座ったまま、少しだけ笑った。


「ちゃんと幸せになって」


 太一の目が揺れる。


 亮は続ける。


「今度は、“見てるだけ”じゃなくて」


 その言葉に。


 太一は初めて、声を出して泣きそうになった。


 でも、泣かなかった。


 泣いたら、

 きっと戻れなくなる気がしたから。


 太一は小さく頷いて、ドアを開けた。


「……ありがとう」


 亮は笑った。


「うん」


 ドアが閉まる。


 部屋の中には、亮だけが残った。


 しばらく動かなかった亮は、太一が置いていったマグカップを見て、小さく笑う。


「……ほんと、勝てなかったな」


 その声だけが、静かな部屋に落ちた。


亮との別れシーン後から、電話版で繋げるとこう。



 亮の部屋を出たあと、太一はまっすぐ自分の部屋へ帰った。


 泣かなかった。


 泣いたら、戻れなくなる気がした。


 玄関で靴を脱いで、部屋の灯りをつける。


 誰もいない。


 昨日まで、亮の部屋で目を覚ましていた。

 抱きしめられて、甘やかされて、好きだと言われていた。


 幸せだった。


 ちゃんと幸せだった。


 でも、自分は帰ってきてしまった。


「……最低」


 呟いて、ソファに座る。


 亮の最後の言葉が、まだ耳に残っている。


『ちゃんと幸せになって』


『今度は、“見てるだけ”じゃなくて』


 太一はスマホを握った。


 圭介へ連絡しようとして、やめる。


 もう海外にいる。


 昨日まで日本にいたのに。

 自分の家の前に立っていたのに。


 もう、いない。


 でも、これでよかった。


 亮を雑に扱わなかった。

 好きなまま、ちゃんと終わらせた。


 それだけは、間違えなかったと思いたかった。



 数日後。


 仕事から帰ると、ポストに一枚のハガキが入っていた。


 海外の消印。


 太一はその場で足を止める。


 裏返す。


 見慣れない街並みの写真。

 石畳と、古い建物と、青い空。


 表の宛名は、少し乱れた圭介の字だった。


 本文は短い。


『生きてる。

 ハガキ、意外と売ってた。

 飯はまずくない。

 でもコンビニが恋しい。』


 太一は、玄関先で少し笑った。


「何だよ、それ」


 もっと重い言葉が来ると思っていた。


 好きだとか。

 会いたいとか。

 忘れられないとか。


 でも圭介は、そんなことを書かなかった。


 生きてる。


 それだけ。


 それが妙に圭介らしくて、太一はハガキを握ったまま部屋へ入った。


 その夜、太一は机に向かった。


 引き出しから、何年も使っていなかった便箋を出す。


 ハガキはなかった。


 仕方なく、小さなメモ用紙に書く。


『見てるだけはやめる』


 そこまで書いて、手が止まる。


 心臓がうるさい。


 太一は息を吐いて、続けた。


『俺もちゃんと欲しがる』


 書いてから、しばらく見つめる。


 恥ずかしい。


 でも消さなかった。



 そこから、圭介とのやり取りは少しずつ増えた。


 最初はハガキ。


 次にメール。


 たまに写真。


 時差があるから、返事はすぐに来ない。


 それが逆によかった。


 即座に感情をぶつけなくて済む。

 考えて、選んで、言葉にできる。


 太一も仕事をした。


 飯を食った。


 寝た。


 亮とは、たまに会社帰りの駅で偶然会うことがあった。


 その時、亮はいつも通り笑った。


「元気?」


「まあ」


「そっか」


 それだけ。


 責めない。

 引き止めない。

 でも、太一を見る目は相変わらず優しかった。


 太一はそのたびに、少しだけ胸が痛んだ。


 それでも、亮は最後にいつも言った。


「ちゃんと幸せになってね」


 太一は頷くしかなかった。



 圭介が海外へ行ってから、二ヶ月が経った夜。


 スマホが震えた。


 圭介からだった。


 太一はしばらく画面を見つめてから、通話ボタンを押した。


「……もしもし」


『起きてた?』


 久しぶりの声だった。


 時差の向こう。

 少し掠れていて、でもちゃんと圭介だった。


「そっち何時」


『朝七時』


「早」


『お前こそ』


「夜十一時」


『寝ろよ』


「お前こそ寝ろ」


『起きたんだよ』


 くだらない会話。


 太一は少しだけ笑った。


 遠いのに、声だけは近い。


 沈黙が落ちる。


 電話の向こうで、圭介が息を吸う音がした。


『太一』


「何」


『俺の恋人になってほしい』


 心臓が、強く跳ねた。


 ずっと欲しかった言葉だった。


 何年も待っていた言葉。


 でも太一は、眉を寄せた。


「……保留」


『は?』


「大事なこと、電話で言われるの嫌だから」


 向こうで圭介が少し黙る。


『……だよな』


「そういうとこだぞ」


『知ってる』


 その瞬間。


 インターホンが鳴った。


 太一は固まった。


「……は?」


 電話の向こうで、圭介が笑う。


『だよな』


「お前」


『そう言うと思ったから、帰ってきた』


 太一はスマホを握ったまま、玄関へ向かった。


 モニターに映っていたのは、スーツケースを引いた圭介だった。


 髪は少し伸びていて、顔には疲れが残っている。

 でも、ちゃんとそこにいる。


 太一はドアを開けた。


「馬鹿じゃないの」


「まあな」


「仕事は」


「一時帰国。二日だけ」


「二日って」


「だから最初に来た」


 圭介は太一を見る。


 逃げない。


 誤魔化さない。


 隠さない。


「なぁ、太一」


 太一の喉が震える。


 圭介は、少しだけ緊張した顔で言った。


「俺の恋人になって?」


 太一は泣きそうな顔で睨んだ。


「……遅ぇよ」


「うん」


「今さらだよ」


「うん」


「めちゃくちゃ待った」


「知ってる」


「知らねぇだろ」


「これから知る」


 太一は唇を噛む。


 それから、圭介の胸ぐらを掴んだ。


「二度と、名前なしに戻すなよ」


「戻さない」


「隠すなよ」


「隠さない」


「俺のこと、ちゃんと恋人って言えよ」


「言う」


 圭介の声が震えた。


「好きだよ、太一」


 太一は目を伏せる。


 言葉が喉で引っかかる。


 でも、今度は逃げなかった。


「……俺も」


 ようやく言えた。


「好きだよ、圭介」


 圭介の顔が崩れた。


 次の瞬間、太一は強く抱きしめられた。


 昔みたいに奪うような腕じゃなかった。


 帰ってきた人が、

 ようやく行き先を間違えずに辿り着いたみたいな抱き方だった。


「……入れよ」


 太一が小さく言う。


「いいのか」


「俺の家だし」


「うん」


「あと」


「ん?」


 太一は圭介の胸に顔を埋めたまま、ぼそっと言った。


「恋人なら、玄関で止めない」


 圭介が息を詰める。


 それから、笑った。


「そうだな」


 ドアが閉まる。


 部屋の中に、圭介のスーツケースが転がる。


 太一はそれを見て、少しだけ笑った。


 もう見ているだけじゃない。


 今度は、自分で呼んだ。


 自分で選んだ。


 そして、ちゃんと手を伸ばした。


 圭介が太一の名前を呼ぶ。


「太一」


「何」


「恋人って、もう一回言っていい?」


「重い」


「言わせろよ」


「……一回だけな」


 圭介は太一を抱きしめたまま、耳元で低く言った。


「俺の恋人」


 太一は、泣きそうになりながら笑った。


「……うん」


 その返事は、ずっと昔から欲しかった場所へ、ようやく届いた。



  圭介は太一を抱きしめたまま、ぼそっと言った。


「太一」


「何」


「俺のこと、ちゃんと恋人って紹介してくれる?」


 太一は少し顔を上げる。


「……急に何」


 圭介は苦い顔をした。


「いや、お前から言われた“仕事の人”って言葉」


「……」


「今でも夢に出てくるんだよ」


 太一は思わず吹き出した。


「重」


「重くしたのお前だろ」


「まだ引きずってんの?」


「引きずるわ」


 圭介は真顔だった。


「結構ショックだったんだからな」


「知らねぇよ」


「紹介された瞬間、“終わった”と思った」


「……」


「仕事の人って何だよ。取引先かよ」


 太一は笑いながら圭介の背中を叩く。


「だってあの時はそう言うしかなかったんだよ」


「しかも俺、帰国の飛行機でもその夢見て飛び起きたわ……」


「は?」


「“こちら仕事の人です”って」


「そんな丁寧に言ってねぇよ」


「夢の中だと敬語だった」


 太一は声を上げて笑った。


「最悪」


「隣の外国人にめちゃくちゃ心配された」


「何してんだよ」


「いや、普通に傷ついてたんだって」


 圭介は不満そうに太一を見る。


「じゃあ今は?」


 少しだけ顔を寄せる。


 太一は観念したみたいに息を吐いた。


「……恋人」


「うん」


「俺の恋人」


 圭介の顔が、一気に緩む。


「はー……よかった」


「何その安心した顔」


「これで夢更新される」


「なんだそれ笑」


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