仕事だけじゃない人
圭介の出国が近づくにつれて、社内の空気が少しずつ変わっていった。
デスクの上から物が減っていく。
私物のマグカップがなくなり、
積まれていた専門書が消え、
壁際に置かれていた観葉植物も誰かへ譲られていた。
引き継ぎも、ほとんど終わっているらしかった。
圭介は最近、英語の会議ばかり出ている。
前より会社にいる時間も減った。
「……」
太一は無意識に、そのデスクを見てしまう。
いる。
でも、もう“いなくなる人”だった。
亮との関係は順調だった。
ちゃんと恋人で、
ちゃんと幸せで、
ちゃんと好きだと思える。
亮といる時間は安心する。
日曜の朝、
抱きしめられて起きるのも好きだ。
亮のメガネ姿も、
甘やかしてくるところも、
少し重い愛情も。
ちゃんと好きだった。
なのに。
会社で圭介のデスクが空いていくたび、
胸のどこかがざわついた。
◇
送別会の日。
居酒屋の座敷はやけに騒がしかった。
「圭介さん向こう行っても絶対モテますよ〜!」
「英語喋れる男ずるいっす」
「向こうの女の人と結婚したりして」
周囲が笑う。
圭介も笑っていた。
前より少し痩せた気がする。
太一はグラスを見つめたまま、ほとんど喋らなかった。
亮は今日は来ていない。
“会社の飲み会なら気使うでしょ”
と笑って送り出してくれた。
優しい。
本当に優しい。
なのに太一は今、
ずっと圭介を目で追っている。
圭介は周囲に囲まれている。
でも時々、
無意識みたいに太一を見る。
視線が合う。
すぐ逸れる。
その繰り返し。
終盤、
誰かが言った。
「平田、お前マジで圭介さん懐いてたもんな」
周囲が笑う。
「分かる。いつも一緒いたし」
「圭介さんいなくなったら寂しいだろ」
太一は反射で笑おうとした。
でも。
「……まあ」
思ったより声が出なかった。
圭介の指が、グラスの縁で止まる。
太一は俯いたまま、小さく続けた。
「ちょっとは」
座敷が一瞬だけ静かになる。
誰かが空気を変えるように笑った。
「お前素直かよ!」
「送別会だからってデレんな!」
周囲が笑う。
太一も笑った。
でも圭介だけは笑わなかった。
ただ、
太一を見る目だけが少し苦しそうだった。
一次会が終わりに近づく頃には、みんなかなり酔っていた。
「圭介さん、向こう行っても絶対帰ってきてくださいよー」
「平田泣くぞ」
「泣かねぇよ」
太一は笑いながら返す。
でも、圭介はその顔をじっと見ていた。
◇
店を出ると、夜風が少し冷たかった。
二次会へ行く組が騒ぎながら歩いていく。
太一は少し遅れて店を出た。
「平田」
後ろから呼ばれる。
圭介だった。
太一は振り返る。
「……何ですか、先輩」
「駅、そっちだろ」
「まあ」
「少し歩くか」
断れなかった。
二人並んで歩く。
前みたいに肩がぶつかる距離じゃない。
少し空いている。
それが逆に苦しかった。
「亮さん、今日来てないんだな」
圭介がぽつりと言う。
「会社の飲み会だし」
「そっか」
「……」
「いい人だな」
太一は少しだけ眉を寄せた。
「何ですかそれ」
「そのままの意味」
圭介は前を見たまま続ける。
「お前、大事にされてる」
太一の喉が小さく動く。
「……まあ」
「ちゃんと幸せそうだし」
その言い方が、
まるで確認みたいで。
太一は少し苛立った。
「安心しました?」
圭介が少しだけ笑う。
「したよ」
即答だった。
太一は言葉を失う。
圭介は続ける。
「お前が、俺のせいで誰ともまともに付き合えなくなったらどうしようって、ちょっと思ってたから」
「……」
「でも違った」
圭介は静かだった。
「ちゃんと恋人できて」
「ちゃんと好きになって」
「ちゃんと幸せそうで」
太一は歩く速度を少し落とした。
胸が痛い。
圭介はそんな太一を見ないまま、ぽつりと言った。
「よかった」
その“よかった”が。
本当に、
自分を手放そうとしている声だった。
太一は立ち止まりそうになるのを堪えた。
圭介の“よかった”は、
昔みたいな独占欲が混じっていなかった。
欲しがらない。
引き止めない。
幸せならそれでいいって顔をする。
そのくせ。
その声だけで、
胸の奥をぐちゃぐちゃにしてくる。
「……なんなんだよ」
太一の声が少し掠れる。
圭介が隣を見る。
「何が」
「今さら、そういう顔すんなって」
圭介は少し黙った。
夜道を車のライトが流れていく。
「亮さんといる時のお前、安心した顔してる」
「……」
「前の俺じゃ、多分ああいう顔させられなかった」
太一は何も返せなかった。
それは事実だった。
亮といる時の自分は、
ちゃんと恋人をしている。
隠さなくていい。
遠慮しなくていい。
“好き”を我慢しなくていい。
幸せだ。
ちゃんと。
なのに。
「……先輩」
「ん?」
「なんで海外行くんですか」
圭介は少し笑った。
「仕事だから」
「そういうのじゃなくて」
圭介が歩幅を少し緩める。
「このまま近くにいたら、お前困るだろ」
太一の呼吸が止まる。
「俺、多分また欲しがるし」
「……」
「お前も優しいから、放っとけない顔したら揺れる」
図星だった。
太一は俯く。
圭介は続ける。
「だったら、一回ちゃんと離れた方がいい」
その言葉が、
太一には怖かった。
本当に離れてしまう。
もう、
会えない場所へ行ってしまう。
圭介は少しだけ笑う。
「亮さん、いい男だしな」
「……」
「俺よりちゃんと恋人できる」
太一は立ち止まった。
圭介も足を止める。
太一は唇を噛んだ。
「……それでいいんですか」
圭介は答えなかった。
数秒沈黙してから、
困ったみたいに笑う。
「よくはないよ」
太一の胸が大きく鳴る。
「でも、お前が幸せなら耐えるしかないだろ」
その言葉が。
太一には、
亮の優しさよりずっと苦しかった。
太一は何も言えなかった。
圭介は昔からずるい。
自分が欲しい時は強引なくせに、
本当に大事なところだけ、こうやって引く。
その優しさが、
今さら一番刺さる。
「……俺」
声がうまく出ない。
圭介が静かに待っている。
太一は俯いたまま言った。
「亮といると、ちゃんと幸せなんです」
「ああ」
「普通に好きだし」
「うん」
「大事にされてるって分かるし」
圭介は何も否定しない。
それが余計苦しい。
「でも」
太一はゆっくり顔を上げた。
「先輩いなくなるの、嫌です」
圭介の表情が止まる。
太一自身も、
口にしてからやっと理解した。
恋人を取られるとかじゃない。
圭介が、
自分の人生から消えるのが怖い。
「……」
圭介はしばらく黙っていた。
それから小さく笑った。
「それ言われると、行きたくなくなるな」
冗談みたいに言ったくせに、
声が少し掠れていた。
太一の胸が強く痛む。
圭介は視線を逸らした。
「だから、言うなよ」
「……」
「俺、今かなり頑張ってるから」
欲しがらないように。
引き止めないように。
ちゃんと離れられるように。
圭介はずっと、それを耐えていた。
太一は喉を鳴らした。
「……なんで今さらなんですか」
圭介が少し笑う。
「お前がちゃんと離れたからだろ」
その答えが、
あまりにも遅くて。
太一は泣きそうになりながら笑った。
「最悪」
「知ってる」
夜風が吹く。
二人の間に、
昔みたいな距離はもうない。
でも。
完全に終わったわけでもないと、
太一は初めて思ってしまった。
駅の入口が見えてきた。
ここで別れればいい。
改札を抜けて、別々のホームへ行って。
太一は亮の部屋へ帰る。
圭介は出国準備の残る自分の部屋へ帰る。
それが正しい。
分かっているのに、足が重かった。
「……平田」
圭介が呼ぶ。
苗字だった。
太一はそれが嫌だった。
「やめてください」
「何を」
「平田って呼ぶの」
圭介の目が少しだけ揺れる。
「仕事の人みたいで嫌だ」
言ってから、太一は自分で息を止めた。
圭介も黙った。
ほんの数秒。
それから、圭介が低く言う。
「……太一」
その声だけで、胸が詰まった。
久しぶりにちゃんと呼ばれた気がした。
「俺、もう行くから」
「……はい」
「でも」
圭介は少しだけ笑った。
「お前が呼んだら、たぶん戻る」
太一の喉が震える。
「そういうこと言うなよ」
「最後だから」
「ずるい」
「知ってる」
圭介は改札の方を見る。
「亮さんのとこ帰れ」
「……」
「ちゃんと大事にされてこい」
太一は頷けなかった。
亮のことは好きだ。
幸せになれると思う。
でも今、目の前の男がいなくなることが、どうしようもなく怖かった。
「……俺、どうしたらいいんですか」
圭介は困ったように笑った。
「俺に聞くなよ」
前にも似たようなことを言われた。
でも今度は責める声じゃない。
選べ、と言われている。
太一自身の意思で。
圭介は一歩下がった。
「じゃあな、太一」
太一はその背中を見送った。
追いかけなかった。
---
亮は、何も聞かなかった。
玄関で太一の顔を見た瞬間、全部分かったみたいに少しだけ笑って、
「おかえり」
と言った。
いつも通りだった。
上着を受け取って、
水を出して、
ソファに座る太一の隣へ来る。
「……送別会、楽しかった?」
「普通」
「そっか」
亮はそれ以上聞かない。
太一はその沈黙が苦しくなって、自分から口を開いた。
「……先輩と話した」
「うん」
「海外行くの、俺が困るからって」
「うん」
「俺が幸せなら耐えるしかないって」
亮は静かに聞いていた。
太一は膝の上で手を握る。
「俺、先輩いなくなるの嫌だって言った」
亮の指が、ほんの少しだけ止まった。
けれどすぐ、いつもの顔で笑った。
「そっか」
「……怒らないの」
「怒りたいよ」
亮は正直に言った。
「でも、君がそういう顔して帰ってきた時点で、もう分かってたし」
太一は顔を上げられなかった。
亮は太一の髪を撫でる。
「太一」
「……ん」
「俺のこと好き?」
太一はすぐに頷いた。
「好き」
「うん」
「ちゃんと好きだよ」
「うん」
亮は少しだけ笑った。
「でも、あの人がいなくなるのは嫌なんだね」
太一は答えられなかった。
亮はそれを責めなかった。
ただ、太一を抱き寄せて、いつもより少しだけ強く抱きしめた。
「……俺、優良株なのになぁ」
「……ごめん」
「謝らないで」
亮の声が少し掠れた。
「謝られると、ほんとに負けたみたいで嫌だ」
太一は亮の胸に額を押しつけたまま、震える声で言った。
「俺、ほんとに亮のこと好きなんだよ」
「……うん」
「お前の笑った顔も、ちょっと変態なとこも、いつも俺のこと見てくれるその眼も……」
亮の腕が、少しだけ強くなる。
太一は唇を噛んだ。
「なのに」
その先が言えなかった。
好きなのに。
幸せなのに。
亮を選べばきっと間違いないのに。
圭介がいなくなると思うと、息ができない。
亮は太一の髪に唇を寄せて、静かに言った。
「うん」
「……」
「知ってるよ」
その声が優しすぎて、太一は余計に苦しくなる。
「だから、しんどいんだよね」
亮は笑わなかった。
「君が俺を好きなの、ちゃんと分かるから」
「……」
「でも、それでも足りない人がいるんだよね」
太一は、何も返せなかった。
亮は、太一を抱きしめたまま静かに言った。
「でも、圭介さんはもう海外行くよ」
太一の肩が小さく揺れる。
「もう会わない」
「……」
「俺は、ずっとそばにいるよ」
亮の声は穏やかだった。
責めるわけでも、
泣き落とすわけでもない。
ただ、事実みたいに置かれる。
「それじゃ足りない?」
太一は目を閉じた。
足りないわけじゃない。
亮はちゃんと温かい。
ちゃんと幸せだ。
隠さなくていい。
恋人として扱ってくれる。
甘やかしてくれる。
亮といると、
自分はちゃんと愛されていると思える。
それなのに。
圭介がいなくなると思うと、
胸の奥が空っぽになる。
太一は苦しそうに息を吐いた。
「……分かんねぇ」
亮は何も言わない。
ただ、
太一の背中をゆっくり撫でる。
「俺さ」
亮がぽつりと言う。
「君が俺を選んでくれたら、絶対後悔させない自信あるんだよね」
太一の喉が震える。
「うん……」
「ちゃんと幸せにする」
「……うん」
「だから、俺を選んでほしい」
その言葉は真っ直ぐだった。
亮はずっと、
太一を“幸せにする側”として立っていた。
でも圭介は違う。
幸せかどうかも分からないのに、
どうしようもなく離れられない。
太一は、初めてそれを怖いと思った。
太一は、亮の腕の中で小さく息を吐いた。
「俺、ちゃんと考える」
亮の手が止まる。
「……うん」
「ごめん。今日は帰るね」
亮は引き止めなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに笑った。
「分かった」
玄関まで送られる。
靴を履いて、ドアノブに手をかける。
背中に亮の声が落ちた。
「太一」
「……ん」
「ちゃんと考えて」
太一は振り返らずに頷いた。
「うん」
◇
夜道を一人で歩く。
スマホは握っていない。
圭介にも、亮にも、連絡しない。
俺は何を迷ってるんだろう。
亮は優しい。
ちゃんと好きだ。
幸せにしてくれると思う。
圭介だって言っていた。
『亮さんのとこ帰れ』
『ちゃんと大事にされてこい』
胸がざらつく。
なんで圭介に言われないといけない?
俺と亮の問題なのに。
そもそも。
なんで俺は、圭介を忘れられないんだろう。
今、こんなに大事にしてもらっているのに。
隠されない。
恋人として呼ばれる。
抱きしめられる。
好きだと言われる。
それなのに、
圭介がいなくなるのが嫌だ。
何も貰えなかった。
恋人にもされなかった。
未来もなかった。
今さら好きって言われても、
また同じかもしれない。
しかも、海外に行く奴だ。
選ぶ理由なんて、
どこにもないはずなのに。
それでも。
圭介が自分の人生から消えると思うと、
息の仕方が分からなくなる。
太一は立ち止まり、夜空を見上げた。
「……最悪」
声は、夜に溶けた。
出国の前日。
亮は急に入った出張で、地方に行っていた。
『夜には電話するね』
そう言ってくれた。
太一も頷いた。
けれど一人になった部屋は、妙に広かった。
考える。
ちゃんと考える。
そう決めたはずなのに、何もまとまらない。
亮のことは好きだ。
圭介のことは、分からない。
いや、分かっているのかもしれない。
でも分かった瞬間、何かが壊れそうで、太一はずっとそこから目を逸らしていた。
「……暇」
呟いて、棚の横に置いてあった粘着クリーナーを手に取る。
コロコロ、コロコロ。
ラグを転がす。
コロコロ、コロコロ。
ソファの端。
クッション。
意味もなく何度も往復させる。
手持ち無沙汰だった。
亮の匂いが少し薄い部屋で、
太一は自分が何を待っているのか分からないまま、ただ床を掃除していた。
その時、インターホンが鳴った。
太一は手を止める。
「……亮?」
予定より早い。
出張がなくなったのかと思って、モニターを覗く。
そこにいたのは、圭介だった。
スーツ姿。
ネクタイは少し緩んでいて、髪も乱れている。
明らかに酔っていた。
太一は息を止めた。
出国前日。
明日にはいなくなる男が、
今、自分の部屋の前にいる。
「……何してんだよ」
モニター越しに言うと、圭介がゆっくり顔を上げた。
『悪い』
声が掠れている。
『最後に、一回だけ』
太一はドアを開けなかった。
開けてはいけないと思った。
なのに、指が震える。
『帰るから』
圭介は小さく笑った。
『顔だけ見たら、帰る』
太一は目を閉じた。
最悪だ。
本当に、最悪だ。
でも。
明日いなくなる。
そう思った瞬間、太一は玄関へ向かっていた。
鍵を開ける音が、やけに大きく響いた。
ドアを少しだけ開ける。
冷たい夜気と、酒の匂いが入ってきた。
圭介はそこに立っていた。
いつもの整った顔じゃない。
目元が赤くて、ひどく疲れている。
「……何しに来たんですか」
「顔見に」
「見たでしょ」
「ああ」
圭介は頷く。
なのに帰らない。
太一はドアノブを握ったまま、低く言った。
「帰ってください」
「帰る」
「じゃあ帰れよ」
「……うん」
圭介は笑った。
情けない顔だった。
「明日、行く」
「知ってます」
「半年かもしれないし、もっと長いかもしれない」
「知ってる」
「お前に連絡しない」
太一の指が止まる。
圭介は続けた。
「お前が亮さんといるなら、邪魔しない」
「……」
「だから今日だけ」
圭介の声が少し震えた。
「今日だけ、好きだったやつの顔見たかった」
太一は息ができなかった。
「……ずるい」
「ああ」
「ほんと、ずるい」
「知ってる」
圭介は一歩も入ってこない。
玄関の外で、ちゃんと立ち止まっている。
その線を越えないことが、余計に太一を壊した。
「なんで酔ってんだよ」
「素面だと来れなかった」
「来るなよ」
「うん」
「なんで来たんだよ」
「会いたかった」
太一は俯いた。
コロコロを持ったままだったことに、今さら気づく。
情けない。
こんな時に、自分は掃除なんかしていた。
「……先輩」
「ん」
「俺、亮と付き合ってる」
「知ってる」
「亮のこと好きだよ」
「うん」
「幸せだよ」
「よかった」
その“よかった”が、また胸を刺す。
太一は顔を上げた。
「よくない」
圭介の目が揺れる。
「よくないんだよ」
声が震えた。
「亮といると幸せなのに、あんたがいなくなるの嫌なんだよ」
圭介は何も言わない。
太一は続けた。
「なんでだよ」
「……」
「なんで何もくれなかったくせに、こんなに残ってんだよ」
圭介の顔が歪む。
「ごめん」
「謝んな」
「ごめん」
「謝んなって言ってんだろ」
太一はドアを開けたまま、泣きそうに笑った。
「俺、どうしたらいいんですか」
圭介はしばらく黙っていた。
それから、掠れた声で言った。
「俺を選ぶな」
太一の呼吸が止まる。
「……は?」
「今の俺は、選ぶな」
圭介は笑おうとして失敗した。
「海外行くし、遅いし、最低だったし」
「……」
「亮さんの方が、ずっといい」
太一は唇を噛んだ。
「じゃあなんで来たんだよ」
「好きだから」
即答だった。
太一の胸が鳴る。
圭介は初めて、逃げなかった。
「好きだから、最後に見たかった」
「……」
「でも、好きだから、今のお前は奪わない」
太一は、ドアノブを握る手に力を込めた。
圭介は一歩下がる。
「じゃあな、太一」
その背中が離れていく。
明日、本当にいなくなる。
太一は気づいた時には、ドアを開け放っていた。
「待って」
圭介の足が止まる。
太一は玄関から一歩出る。
「……待ってよ」
声が、思ったより小さかった。
「俺、まだ何も決められてない」
圭介は振り返らない。
太一は続ける。
「でも」
喉が詰まる。
「このまま行かれるのは、嫌だ」
圭介の肩が、小さく震えた。
圭介は振り返らなかった。
振り返ったら、きっと全部壊れる。
太一はそれが分かっているのに、止められなかった。
「……圭介!」
その瞬間。
圭介の足が止まる。
肩が、小さく震えた。
太一自身も、呼んでから気づく。
普段は“先輩”だ。
曖昧な関係だった頃も、
本当に甘えた時だけ、
太一は圭介の名前を呼んだ。
抱きしめてほしい時。
帰らないでほしい時。
酔って弱ってる時。
そういう時だけ。
だから圭介は、振り返れなかった。
「……それ、ずるい」
掠れた声だった。
太一は玄関から一歩出た。
「……居なくなるなよ」
圭介の呼吸が止まる。
太一は泣きそうな顔で笑った。
「俺の目につくところで、幸せになっててくれよ」
「……」
「眺めてられれば、それでよかったのに」
圭介がゆっくり振り返る。
太一はもう止まれなかった。
「なんでいなくなるんだよ」
「……」
「なんで、見てることすらできなくするんだ」
声が震える。
「大学の時からずっと」
「見てるだけでよかったのに」
圭介の思考が止まる。
「……は?」
掠れた声が漏れる。
「大学から?」
太一は言ってしまってから、少し顔を歪めた。
圭介は一歩近づく。
「何それ。知らない」
「……言ってない」
「お前、男嫌だって言ってたじゃん」
「言ってたよ」
「じゃあ何で」
「知らねぇよ!」
太一の声が少し大きくなる。
夜の廊下に響いて、二人とも一瞬黙った。
隣の部屋の気配が動く。
太一は顔をしかめて、ドアを大きく開けた。
「……外で話すことじゃない」
「太一」
「いいから入れよ」
圭介は躊躇した。
「……いいのか」
「俺の家だし」
低い声だった。
「今さらそこだけ遠慮すんな」
圭介は何も言えなかった。
靴を脱いで、部屋へ入る。
酒の匂いと夜気をまとった圭介が、
太一の生活の中へ入ってくる。
その瞬間、
太一の胸がまた変な音を立てた。
明日、いなくなる人。
ずっと見ていた人。
何も知らなかった人。
太一はドアを閉めて、背中を預けた。
「……大学からって、何」
圭介が静かに聞く。
太一はソファへ座り、顔を逸らした。
「だから、見てただけ」
「見てるだけでよかったって」
「うん」
「なんで」
「先輩だったから」
太一は苦く笑う。
「モテるし、陽キャだし、女の人途切れないし」
「……」
「俺、普通に憧れてたんだよ」
圭介は黙って聞いている。
太一は続ける。
「だから、近くにいられるだけでよかった」
「就活相談乗ってもらって」
「飲み連れてってもらって」
「先輩後輩でいられればよかった」
そこで、太一は少しだけ目を伏せた。
「……あんたが触るまでは」
圭介の喉が動く。
「社会人になって再会して」
「飲んで」
「終電なくなって」
「キスされて」
太一は笑った。
泣きそうな顔で。
「俺、死ぬほど嬉しかったんだよ」
圭介が目を閉じる。
太一は止まれなかった。
「やっと見てるだけじゃなくなったって思った」
「先輩も俺のこと欲しいんだって」
「だから、恋人じゃなくても我慢した」
部屋が静まり返る。
圭介はゆっくり息を吐いた。
「……ごめん」
「だから謝んな」
「でも」
圭介の声が掠れる。
「俺、それ知らないまま、お前に触ってた」
太一は目を逸らした。
「知らねぇ方が楽だったろ」
「楽じゃねぇよ」
即答だった。
圭介は太一を見る。
今までで一番苦しそうな顔で。
「知ってたら、あんな事しなかった」
太一の顔が強張る。
「あんな事って?」
圭介が目を伏せる。
「……抱いたこととか」
太一はすぐに言い返した。
「は?」
「……」
「そこから無しになんの?」
圭介は何も言えない。
太一は立ち上がった。
「お互い様って言ったじゃん」
「……」
「俺も都合良かったって」
圭介が苦しそうに眉を寄せる。
「それは、お前が自分守るために言ってただけだろ」
「違う」
「違わない」
「違うって!」
声がぶつかる。
太一は息を荒くしたまま、圭介を睨んだ。
「俺、嫌なら行ってない」
「……」
「終電なくなるまで飲んで、家行って、キスされて」
喉が震える。
「全部、自分で選んだ」
圭介は目を閉じた。
太一は続ける。
「確かに苦しかったよ」
「恋人じゃないのもしんどかった」
「彼女の話されるのも最悪だった」
「でも」
太一は唇を噛む。
「俺、あんたに触られるの嫌だったこと一回もない」
部屋が静まり返る。
圭介の呼吸だけが少し乱れていた。
「……太一」
「だから、勝手に被害者みたいにすんな」
太一は苦く笑った。
「俺まで否定されてるみたいで腹立つ」
圭介は何も返せなかった。
太一は視線を落とす。
「好きだったんだよ」
「ずっと」
「だから嬉しかった」
「嬉しかったから、やめられなかった」
圭介が顔を覆う。
その姿を見て、太一は少しだけ泣きそうに笑った。
「……今さらだろ」
太一は、震える息を吐いた。
「俺、お前に恋人にしてって縋ったことなかっただろ」
圭介の顔が上がる。
「分かってたんだよ、ちゃんと」
「……」
「お前が俺を恋人にしないことも、彼女と結婚するかもしれないことも」
太一は笑った。
でも、その顔はぐしゃぐしゃだった。
「結婚するまでだって、元々決めてたんだ」
圭介の表情が止まる。
「だから」
太一は声を荒げた。
「俺のためを思うなら、見えるところで幸せになっててくれればそれで良かったんだよ!」
部屋が静まり返る。
圭介は何も言えなかった。
太一はずっと、
選ばれないことを前提にしていた。
恋人になれないと分かっていて、
それでも近くにいた。
終わりの日まで。
圭介が誰かと結婚する日まで。
それを、自分なりの終点として用意していた。
「なのに」
太一の声が小さくなる。
「なんでいなくなるんだよ」
「……」
「なんで、俺の見えるところから消えんだよ」
圭介の顔が歪む。
「太一」
「やめろ」
「……」
「今、優しく呼ぶな」
太一は俯いて、拳を握った。
「忘れたいわけじゃなかった」
「嫌いになりたいわけでもなかった」
「ただ、見えるところで幸せになっててくれたら」
喉が詰まる。
「俺もちゃんと、終われたのに」
太一の声が、少しずつ崩れていった。
「結婚やめるとか」
「別れるとか」
「海外行くとか」
圭介の顔が歪む。
「それが俺のせいで」
「違う」
「俺のせいだろ!」
太一は、もう圭介を見ていなかった。
自分の中に沈んでいくみたいに、ぼろぼろと言葉を落とす。
「俺のせいで、あんたの幸せそうな顔が見れなくなる」
「いなくなる」
「もう会えなくなる」
息が詰まる。
「最悪だ」
「俺のせいだ」
「俺が、結婚する日まで何も言わなければ、あんたは幸せになれたはずなんだ」
圭介が一歩近づく。
「太一」
「ごめん」
太一は首を振る。
「俺が軽率だった」
「……」
「自分も幸せになりながら、あんたの幸せを見たいとか思ったのがいけなかった」
圭介は、たまらず太一の腕を掴んだ。
今度は乱暴じゃなかった。
逃げていく思考を、止めるみたいに。
「違う」
低い声だった。
「違うって言ってるだろ」
「でも」
「俺が別れたのは、俺があいつと結婚できなかったからだ」
太一の目が揺れる。
「海外行くのも、お前のせいじゃない」
「……」
「俺が逃げるんだよ」
圭介は苦く笑った。
「お前を見てたら、また欲しがるから」
太一は息を止めた。
「だから俺の問題だ」
「お前が悪いんじゃない」
腕を掴む手に、少しだけ力がこもる。
「俺の幸せを、お前が勝手に決めるな」
太一は、腕を掴まれたまま固まった。
「……勝手にって」
「ああ」
「だって、俺は」
「お前はずっと、俺の幸せを見てる側に回ろうとしてただけだろ」
圭介の声が低くなる。
「俺の隣に来たいって、一回も言わずに」
「……」
「俺が誰かと幸せになってるのを見て、それで終わろうとしてた」
太一の喉が詰まる。
「でも俺は、そんな幸せいらなかった」
「……」
「お前が見てるだけの場所で、俺だけ普通に幸せになるとか」
圭介は苦しそうに笑った。
「そんなの、もう無理だろ」
太一の目が揺れる。
「でも、亮が」
「亮さんはいい男だよ」
即答だった。
「お前をちゃんと大事にしてる」
「……」
「だから俺は、明日ちゃんと行く」
太一の腕を掴む手が、少しずつ緩む。
「行くんだ」
太一の声が掠れた。
「ああ」
「俺が、行くなって言っても?」
圭介の表情が歪んだ。
「言うな」
「なんで」
「行けなくなるから」
太一は唇を噛んだ。
圭介は手を離す。
その温度が消えた瞬間、太一は自分でも驚くくらい寂しくなった。
「……圭介」
「その呼び方もやめろ」
「やだ」
「太一」
「やだ」
太一は俯いたまま、子どもみたいに繰り返した。
「いなくなるなよ」
圭介は何も言わなかった。
ただ、苦しそうに目を伏せる。
太一は小さく笑う。
「俺、最低だな」
「知ってる」
「そこは否定しろよ」
「無理だろ」
圭介の声が少しだけ昔に戻る。
太一はそれだけで、泣きそうになった。
圭介は玄関の方へ視線を向ける。
「帰る」
「……」
「ここにいたら、本当に帰れなくなる」
太一は止めたかった。
でも止めたら、全部壊れる。
亮も。
圭介も。
自分も。
圭介は靴を履き、ドアノブに手をかけた。
最後に振り返る。
「連絡する」
「……本当に?」
「ああ」
「邪魔しないんじゃなかったのかよ」
圭介は少し困ったみたいに笑った。
「邪魔しちゃうのは、俺、往生際悪いよな」
太一は目を伏せる。
「……うん」
「だから、ハガキにする」
太一が顔を上げた。
「は?」
「ハガキ」
「今どき?」
「うん」
圭介は少し笑った。
「それなら亮さんも許してくれるだろ」
太一は思わず笑ってしまった。
「なんだそれ」
「生存確認くらい」
「軽」
「重いよりいいだろ」
部屋の空気が少しだけ緩む。
圭介はその空気のまま、小さく息を吐いた。
「……俺は行くよ」
太一の胸がまた痛む。
でも今度は、
さっきみたいな“消える”感じじゃなかった。
「最後に本音聞けてよかった」
「……」
「お前、ちゃんと俺のこと好きだったんだな」
「今さらかよ」
「ほんとにな」
圭介は笑った。
泣きそうな顔で。
「太一、幸せになってくれよ」
その声は、もう諦めだけじゃなかった。
「お前が幸せなら」
圭介は静かに言う。
「俺も、幸せになれそうだから」
太一は何も言えなかった。
言ったら、きっと引き止める。
今度こそ本当に、
行くなと縋ってしまう。
だから唇を噛んで、頷くこともできずに立ち尽くした。
圭介はドアを開ける。
冷たい夜気が入ってくる。
「じゃあな、太一」
今度は、苗字じゃなかった。
太一は小さく息を吸った。
「……行ってらっしゃい」
圭介の目が揺れた。
それでも彼は、今度こそ背を向けた。
ドアが閉まる。
太一はしばらく、その場から動けなかった。
部屋が静かだった。
さっきまで圭介がいたのに、
もう何も残っていない。
酒の匂いだけが、少しだけ漂っている。
太一は玄関の前へ座り込んだ。
「……何だよ、それ」
幸せになってくれ。
お前が幸せなら、俺も幸せになれそうだから。
そんな綺麗に言うな。
太一は顔を覆った。
圭介は最後までずるかった。
欲しがるくせに、
最後はちゃんと手放そうとする。
亮は真っ直ぐだ。
ちゃんと好きだと言って、
ちゃんと幸せにするって言ってくれる。
圭介は違う。
幸せになれって言うくせに、
ハガキ送るとか言う。
切る気ないじゃん。
「……最低」
スマホが震えた。
亮からだった。
『まだ起きてる?』
太一はしばらく画面を見つめる。
返信を打とうとして、止まる。
今の顔を見せたら、
亮はきっと気づく。
圭介が来たことも。
自分がまだ揺れていることも。
太一は長く息を吐いて、短く返した。
『起きてる』
すぐ既読がつく。
『声聞きたい』
胸が痛む。
亮は、何も悪くない。
本当に何も悪くない。
なのに自分は今、
別の男が帰った玄関の前で、
その恋人に返信している。
太一はゆっくり立ち上がった。
洗面所へ向かう。
鏡の中の自分は、ひどい顔だった。
「……亮」
小さく名前を呼ぶ。
好きだ。
本当に。
でも。
太一はその先を、まだ言葉にできなかった。
通話ボタンを押すまで、少し時間がかかった。
コール音が一回。
二回。
三回目の前に、亮が出た。
『太一?』
その声を聞いた瞬間、胸が痛くなる。
「……起きてたのかよ」
『起きてるよ。君が変な返信したから』
「変じゃねぇし」
『変だよ』
亮は少し笑った。
いつもの声だった。
太一の好きな、軽くて、甘くて、優しい声。
『何かあった?』
太一は鏡の前で目を伏せた。
嘘をつきたくない。
でも、全部言うのも怖い。
「……圭介が来た」
電話の向こうが、少しだけ静かになった。
『そっか』
「明日行くから、最後に顔見たかったって」
『うん』
「俺、部屋に入れた」
『……うん』
亮は責めなかった。
その沈黙が、逆に痛かった。
「ごめん」
『謝ることした?』
「分かんねぇ」
『じゃあ、まだ謝らなくていいよ』
太一は目を閉じる。
「亮」
『ん?』
「俺、ちゃんと考えるって言ったのに」
『うん』
「まだ分かんねぇ」
声が震えた。
「亮のこと好きなのに」
『うん』
「圭介がいなくなるの、やっぱり嫌だった」
亮はしばらく黙っていた。
それから、いつもより少し低い声で言った。
『そっか』
たったそれだけ。
太一は、泣きそうになった。
亮は、少しだけ息を吐いた。
『でもさ』
「……」
『太一は、圭介さんを帰した』
太一の呼吸が止まる。
『今、俺と話してる』
「……」
『ちゃんと選んでるよ』
その声は、優しかった。
優しすぎて、苦しい。
「俺、そんな立派じゃ」
『立派だよ』
亮は笑った。
『君、優しいから、誰も傷つけたくなくてぐちゃぐちゃになってるだけ』
太一は鏡に映る自分を見る。
目元が赤い。
ひどい顔だ。
『でも、ちゃんと帰したじゃん』
「……」
『行くなって縋ってたら、たぶん圭介さん帰れなかったよ』
太一は何も言えなかった。
圭介も言っていた。
『行けなくなるから』
あれは本音だった。
『でも太一、最後ちゃんと手放した』
「手放せてねぇよ」
『うん』
亮は否定しない。
『だからまだ苦しいんだろうね』
静かな声だった。
『でも、君はちゃんと選べる人だよ』
「……」
『大丈夫』
太一は唇を噛む。
亮はいつも、
自分を信じる側に立ってくれる。
圭介は、
自分を壊す側だった。
なのに。
太一は目を閉じた。
どうしても、
壊された場所が疼く。
翌日。
昨日のことが嘘みたいに、会社の時間は過ぎていった。
メールを返して、
会議に出て、
資料を修正して。
周囲は普通だった。
圭介が今日出国することも、
昨日自分の家に来たことも、
全部、自分だけの秘密みたいだった。
太一は何度も時計を見た。
何時の便なんだろう。
今まだ日本にいるのか。
もう空港か。
搭乗したのか。
考えたくないのに、ずっと頭の隅にいる。
◇
夜。
亮が太一の家へ来た。
ドアを開けた瞬間、太一の顔を見て、小さく息を吐く。
「……ひどい顔」
「うるせぇ」
亮は何も聞かなかった。
ただ靴を脱いで部屋へ入り、静かに言った。
「俺んち帰ろ」
太一は少しだけ目を上げる。
「……なんで」
「一人にしたくない」
その声が優しくて、太一は断れなかった。
◇
亮の部屋は、いつも通り温かかった。
でもその夜の亮は、少し違った。
優しいままなのに、
どこか必死だった。
太一を抱きしめて、
キスして、
何度も名前を呼ぶ。
「太一」
「……」
「こっち見て」
亮の手が、頬を包む。
太一は逆らえなかった。
亮はそのまま太一を抱き込む。
逃がさないみたいに。
でも傷つけないように。
太一の頭が真っ白になるまで、
亮はずっと触れていた。
考えなくていいように。
圭介を思い出さなくて済むように。
亮なりに、
必死で太一を引き留めていた。
◇
土曜の朝。
目が覚める。
隣には亮がいた。
寝癖のまま、
太一を抱きしめて眠っている。
暖かい。
安心する。
なのに。
太一はぼんやり天井を見上げたまま、理解してしまった。
もういない。
圭介はもう、日本にいない。
昨日までここにいたのに。
もう会えない距離へ行った。
その瞬間。
太一の目から、勝手に涙が落ちた。
亮が気づいて、ゆっくり目を開ける。
「……太一?」
太一は声を出せなかった。
ただ涙だけが止まらなかった。
亮の腕が、ゆっくり強くなる。
「……泣かないでよ」
いつもの軽さがない声だった。
「俺、頑張ったのに」
太一は息を詰める。
「ごめ……」
「謝らないで」
亮は太一の額に唇を押し当てた。
「謝られると、ほんとに俺、負けたみたいになる」
太一は何も言えなかった。
亮のことが好きだ。
好きなのに。
幸せなのに。
圭介がいないと分かった瞬間、身体の奥が空っぽになった。
「……亮」
「うん」
「俺、最低だ」
「知ってる」
亮は小さく笑おうとして、失敗した。
「でも、好きだよ」
その言葉が優しすぎて、太一はまた泣いた。
亮は太一を抱きしめたまま、静かに目を閉じる。
「……行っちゃったんだね」
太一は小さく頷いた。
「うん」
「そっか」
亮はそれだけ言って、太一の髪を撫でた。
それ以上、責めなかった。
引き止めもしなかった。
ただ、朝の光の中で、太一が泣き止むまで抱いていた。
太一は、亮のシャツを握ったまま言った。
「このまま亮といた方が幸せなのは分かってる」
亮の手が止まる。
「お前、いい男だから」
「……なら」
亮の声が少しだけ掠れた。
「それなら、俺にしときなよ」
太一は目を閉じた。
「でも、ごめん」
亮の息が止まる。
「俺がダメなんだ」
「……」
「やっぱり、忘れられない」
亮はしばらく黙っていた。
それから、無理に笑った。
「今だけだよ」
「……」
「だってもういない」
亮は太一を抱きしめる。
「いずれ忘れる」
「……」
「忘れさせてみせる」
太一は小さく首を振った。
「違う」
「何が」
「忘れたくないんだ」
亮の腕が、ほんの少し震えた。
太一は顔を上げる。
「忘れたくない」
「……太一」
「亮といたら、幸せになれると思う」
「うん」
「でも、圭介のこと忘れて幸せになるのは嫌だ」
亮は何も言わなかった。
太一は泣きながら続けた。
「俺、あいつが見えるところにいればそれでよかったんだ」
「……」
「だから、忘れるくらいなら、まだ好きなままでいたい」
亮は苦しそうに笑った。
「でも、俺と別れたからって付き合えるとは限らないよ」
「いい」
「海外だよ」
「うん」
「会えないかもしれない」
「うん」
「それでも?」
太一は頷いた。
「いいんだ」
声は小さかった。
「俺は、見れればいいだけだから」
亮は目を閉じた。
それが嘘だと、たぶん二人とも分かっていた。
でもその嘘を抱えたままでも、
太一は圭介を選ぼうとしている。
亮は太一を抱きしめたまま、長く息を吐いた。
「……ほんと、勝てないな」
太一は何も言えなかった。
亮は、しばらく何も言わなかった。
太一を抱きしめたまま、ただ静かに呼吸をしている。
それから、少しだけ掠れた声で言った。
「……忘れなくていいから」
太一の肩が揺れる。
「いない間は、俺のそばにいたら」
太一は目を閉じた。
その提案は、亮らしかった。
優しくて、
ずるくなくて、
太一を無理やり選ばせない。
だからこそ、だめだった。
太一はゆっくり首を振る。
「それはだめ」
「……」
「俺、お前も好きだから」
亮の呼吸が止まる。
「だから、お前を雑に扱うの、俺が許せない」
太一は亮を見る。
ちゃんと。
泣きそうな顔で。
「お前は、大切に扱われないとだめだよ」
亮は笑おうとして、うまくできなかった。
「何それ」
「……ほんとだよ」
「今、振られてる?」
「分かんねぇ」
「ひど」
亮は小さく笑った。
でも、その目は赤かった。
「俺さ」
亮が静かに言う。
「君が圭介さん選ぶなら、最後まで嫌な男になれない気がする」
太一の喉が詰まる。
亮は太一の頬を撫でた。
「だって君、俺のことちゃんと好きだったもん」
それが一番苦しかった。
太一は、ゆっくり亮の腕から離れた。
亮は引き止めなかった。
ただ、離れていく温度を静かに見送っていた。
「……ごめんな」
太一の声は掠れていた。
「俺を選んでくれたのに」
亮は目を伏せる。
「俺が、同じだけ返せなくて」
「……」
「ごめん」
亮は少しだけ笑った。
困ったみたいな、泣きそうな笑い方だった。
「ちゃんと返してくれてたよ」
太一は首を振る。
「足りなかった」
「うん」
亮は否定しなかった。
「足りなかったね」
その優しさが、最後まで亮らしかった。
太一は唇を噛む。
「……帰るね」
亮はしばらく黙っていた。
それから、小さく頷く。
「うん」
太一は立ち上がる。
亮の部屋。
何度も泊まった場所。
抱きしめられて眠った場所。
幸せだった場所。
玄関へ向かう背中に、亮の声が落ちる。
「太一」
太一は振り返る。
亮はソファに座ったまま、少しだけ笑った。
「ちゃんと幸せになって」
太一の目が揺れる。
亮は続ける。
「今度は、“見てるだけ”じゃなくて」
その言葉に。
太一は初めて、声を出して泣きそうになった。
でも、泣かなかった。
泣いたら、
きっと戻れなくなる気がしたから。
太一は小さく頷いて、ドアを開けた。
「……ありがとう」
亮は笑った。
「うん」
ドアが閉まる。
部屋の中には、亮だけが残った。
しばらく動かなかった亮は、太一が置いていったマグカップを見て、小さく笑う。
「……ほんと、勝てなかったな」
その声だけが、静かな部屋に落ちた。
亮との別れシーン後から、電話版で繋げるとこう。
⸻
亮の部屋を出たあと、太一はまっすぐ自分の部屋へ帰った。
泣かなかった。
泣いたら、戻れなくなる気がした。
玄関で靴を脱いで、部屋の灯りをつける。
誰もいない。
昨日まで、亮の部屋で目を覚ましていた。
抱きしめられて、甘やかされて、好きだと言われていた。
幸せだった。
ちゃんと幸せだった。
でも、自分は帰ってきてしまった。
「……最低」
呟いて、ソファに座る。
亮の最後の言葉が、まだ耳に残っている。
『ちゃんと幸せになって』
『今度は、“見てるだけ”じゃなくて』
太一はスマホを握った。
圭介へ連絡しようとして、やめる。
もう海外にいる。
昨日まで日本にいたのに。
自分の家の前に立っていたのに。
もう、いない。
でも、これでよかった。
亮を雑に扱わなかった。
好きなまま、ちゃんと終わらせた。
それだけは、間違えなかったと思いたかった。
◇
数日後。
仕事から帰ると、ポストに一枚のハガキが入っていた。
海外の消印。
太一はその場で足を止める。
裏返す。
見慣れない街並みの写真。
石畳と、古い建物と、青い空。
表の宛名は、少し乱れた圭介の字だった。
本文は短い。
『生きてる。
ハガキ、意外と売ってた。
飯はまずくない。
でもコンビニが恋しい。』
太一は、玄関先で少し笑った。
「何だよ、それ」
もっと重い言葉が来ると思っていた。
好きだとか。
会いたいとか。
忘れられないとか。
でも圭介は、そんなことを書かなかった。
生きてる。
それだけ。
それが妙に圭介らしくて、太一はハガキを握ったまま部屋へ入った。
その夜、太一は机に向かった。
引き出しから、何年も使っていなかった便箋を出す。
ハガキはなかった。
仕方なく、小さなメモ用紙に書く。
『見てるだけはやめる』
そこまで書いて、手が止まる。
心臓がうるさい。
太一は息を吐いて、続けた。
『俺もちゃんと欲しがる』
書いてから、しばらく見つめる。
恥ずかしい。
でも消さなかった。
◇
そこから、圭介とのやり取りは少しずつ増えた。
最初はハガキ。
次にメール。
たまに写真。
時差があるから、返事はすぐに来ない。
それが逆によかった。
即座に感情をぶつけなくて済む。
考えて、選んで、言葉にできる。
太一も仕事をした。
飯を食った。
寝た。
亮とは、たまに会社帰りの駅で偶然会うことがあった。
その時、亮はいつも通り笑った。
「元気?」
「まあ」
「そっか」
それだけ。
責めない。
引き止めない。
でも、太一を見る目は相変わらず優しかった。
太一はそのたびに、少しだけ胸が痛んだ。
それでも、亮は最後にいつも言った。
「ちゃんと幸せになってね」
太一は頷くしかなかった。
◇
圭介が海外へ行ってから、二ヶ月が経った夜。
スマホが震えた。
圭介からだった。
太一はしばらく画面を見つめてから、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『起きてた?』
久しぶりの声だった。
時差の向こう。
少し掠れていて、でもちゃんと圭介だった。
「そっち何時」
『朝七時』
「早」
『お前こそ』
「夜十一時」
『寝ろよ』
「お前こそ寝ろ」
『起きたんだよ』
くだらない会話。
太一は少しだけ笑った。
遠いのに、声だけは近い。
沈黙が落ちる。
電話の向こうで、圭介が息を吸う音がした。
『太一』
「何」
『俺の恋人になってほしい』
心臓が、強く跳ねた。
ずっと欲しかった言葉だった。
何年も待っていた言葉。
でも太一は、眉を寄せた。
「……保留」
『は?』
「大事なこと、電話で言われるの嫌だから」
向こうで圭介が少し黙る。
『……だよな』
「そういうとこだぞ」
『知ってる』
その瞬間。
インターホンが鳴った。
太一は固まった。
「……は?」
電話の向こうで、圭介が笑う。
『だよな』
「お前」
『そう言うと思ったから、帰ってきた』
太一はスマホを握ったまま、玄関へ向かった。
モニターに映っていたのは、スーツケースを引いた圭介だった。
髪は少し伸びていて、顔には疲れが残っている。
でも、ちゃんとそこにいる。
太一はドアを開けた。
「馬鹿じゃないの」
「まあな」
「仕事は」
「一時帰国。二日だけ」
「二日って」
「だから最初に来た」
圭介は太一を見る。
逃げない。
誤魔化さない。
隠さない。
「なぁ、太一」
太一の喉が震える。
圭介は、少しだけ緊張した顔で言った。
「俺の恋人になって?」
太一は泣きそうな顔で睨んだ。
「……遅ぇよ」
「うん」
「今さらだよ」
「うん」
「めちゃくちゃ待った」
「知ってる」
「知らねぇだろ」
「これから知る」
太一は唇を噛む。
それから、圭介の胸ぐらを掴んだ。
「二度と、名前なしに戻すなよ」
「戻さない」
「隠すなよ」
「隠さない」
「俺のこと、ちゃんと恋人って言えよ」
「言う」
圭介の声が震えた。
「好きだよ、太一」
太一は目を伏せる。
言葉が喉で引っかかる。
でも、今度は逃げなかった。
「……俺も」
ようやく言えた。
「好きだよ、圭介」
圭介の顔が崩れた。
次の瞬間、太一は強く抱きしめられた。
昔みたいに奪うような腕じゃなかった。
帰ってきた人が、
ようやく行き先を間違えずに辿り着いたみたいな抱き方だった。
「……入れよ」
太一が小さく言う。
「いいのか」
「俺の家だし」
「うん」
「あと」
「ん?」
太一は圭介の胸に顔を埋めたまま、ぼそっと言った。
「恋人なら、玄関で止めない」
圭介が息を詰める。
それから、笑った。
「そうだな」
ドアが閉まる。
部屋の中に、圭介のスーツケースが転がる。
太一はそれを見て、少しだけ笑った。
もう見ているだけじゃない。
今度は、自分で呼んだ。
自分で選んだ。
そして、ちゃんと手を伸ばした。
圭介が太一の名前を呼ぶ。
「太一」
「何」
「恋人って、もう一回言っていい?」
「重い」
「言わせろよ」
「……一回だけな」
圭介は太一を抱きしめたまま、耳元で低く言った。
「俺の恋人」
太一は、泣きそうになりながら笑った。
「……うん」
その返事は、ずっと昔から欲しかった場所へ、ようやく届いた。
⸻
圭介は太一を抱きしめたまま、ぼそっと言った。
「太一」
「何」
「俺のこと、ちゃんと恋人って紹介してくれる?」
太一は少し顔を上げる。
「……急に何」
圭介は苦い顔をした。
「いや、お前から言われた“仕事の人”って言葉」
「……」
「今でも夢に出てくるんだよ」
太一は思わず吹き出した。
「重」
「重くしたのお前だろ」
「まだ引きずってんの?」
「引きずるわ」
圭介は真顔だった。
「結構ショックだったんだからな」
「知らねぇよ」
「紹介された瞬間、“終わった”と思った」
「……」
「仕事の人って何だよ。取引先かよ」
太一は笑いながら圭介の背中を叩く。
「だってあの時はそう言うしかなかったんだよ」
「しかも俺、帰国の飛行機でもその夢見て飛び起きたわ……」
「は?」
「“こちら仕事の人です”って」
「そんな丁寧に言ってねぇよ」
「夢の中だと敬語だった」
太一は声を上げて笑った。
「最悪」
「隣の外国人にめちゃくちゃ心配された」
「何してんだよ」
「いや、普通に傷ついてたんだって」
圭介は不満そうに太一を見る。
「じゃあ今は?」
少しだけ顔を寄せる。
太一は観念したみたいに息を吐いた。
「……恋人」
「うん」
「俺の恋人」
圭介の顔が、一気に緩む。
「はー……よかった」
「何その安心した顔」
「これで夢更新される」
「なんだそれ笑」




