第六十六話「飛び降りる者」
『主よ。振り向くな! 今は全速力であの女の元に向かえ!』
マレーネはクリスの背中に乗って、前を指さした。
「わかっている! だが、ルーを説得できた自信はないぜ!」
『大丈夫じゃ! 主は三人にしっかりと物語を刻んでおる』
「刻む? 至宝の能力は物体に一文のみ物語を刻む能力だろ? 人には無効だって言っていたよな?」
『わかっておらぬのぉ。人の心に物語を刻むのは、言葉を超えた行動だけじゃ!』
「言葉を超えた行動……ねえ」
『主よ! 今はそんなことを考えている場合ではない! あの女、柵を乗り越えるぞ!』
クリスが前を見ると、腰ほどの高さの柵を両手で掴んで跨いでいるところだった。
(マズい……!)
建物の縁には立ち上がりもパラペットもなかった。
あるのは2メートル手前にある、腰の高さほどの柵のみだった。
その柵を乗り越えてしまったと言うことは……。
あと二歩、三歩で奈落に落ちる!
だが、女性は歩みを止めようとしなかった。
ビル風特有の上昇気流に、女性の白いドレスがはためき出した。
さらに、ブロンドの髪が舞い上がる。
(おい! 止まれ――)
すると、クリスの思いが通じたように、女性は屋上の縁で立ち止まる。
しかし次の瞬間、彼女はビル風に身を委ねるように、前に向かって身体を傾けていった。
女性の身体は次第に傾きを増していき、やがて地上へと引っ張られていく。
クリスは手を伸ばす。
届かないとは分かっていても――。
その時だった――。
風の音が、止んだ。
そして——目の前の女性が空中で止まってみえた。
「色男! 時は止めた!」
背後からリディの声が聞こえた。
「サンキュー! リディ!」
「悪ぃ……。だが、数秒が限界だぜ!」
「ああ、それだけあれば十分――」
クリスは速度を上げて柵を跳び越えると、女性に向かって右手を伸ばす。
しかし、タイミング悪く再び時間が動き出す。
(――くっ!)
瞬間、クリスも突風に煽られてしまった。
それでも右腕を伸ばし、彼女の手を掴む。
しかし、今度は女性の全体重が、クリスを奈落へと引きずり込もうとしてくる。
クリスは、歯を食いしばり、必死に右腕に力をこめた。
だが、足元のガラスパネルが踏みとどまることを許さない。
踏みしめているはずの両足が、ズズ……ズズズ――と、少しずつ滑っていく。
振り返って、柵に向かって左手を伸ばしたが届かなかった。
それどころか、僅かずつではあるが、柵から遠ざかってしまう。
クリスは腰を下ろすと、ようやくではあるが引きずり込まれることはなくなった。
そのまま女性を引っ張り上げようと試みるが、強風に煽られてしまい、少しでもバランスが崩れると引きずられてしまう。
「クリス! 手を伸ばせ!」
悪戦苦闘をしていると、背後からリディの声が聞こえてくる。
振り返ると、リディが柵の向こうから身を乗り出して、腕を伸ばしていた。
タイミングを見計らって、クリスは右手を伸ばすが――。
ズズズズ――と、奈落へと引き摺られてしまう。
「クリス!」
リディが柵を乗り越えて、クリスの右手を掴んでくれる。
しかし、リディも引っ張るが状況は芳しくなかった。
ズズ……ズズ――と、やはり引き摺られてしまう。
今度はリディが柵に向かって左手を伸ばすが、柵に指先が触れるか触れないかくらいの所で止まってしまった。
「あと…もう少し――」
必死に左手を伸ばしていたリディだったが、一瞬吹いた強風にバランスが崩れてしまう。
すると、容赦なく三人の身体は滑るように奈落へと引き摺られる。
「クリス!」
クリスの下半身が、ビルの外へと飛び出していた。
「リディ! 手を離せ!」
「んなこと、できるか!」
「お前も落ちるぞ!」
リディが笑みを浮かべる。
「あともう少しだ! 色男が駆けつけてきた!」
リディは背後から近づく足音を感じ取っていた。
「遅いぞ、シャル!」
「人使いが荒いな! ほら手を伸ばせ!」
柵の向こう側から、シャルがリディの腕を掴み引っ張りはじめた。
クリスの身体が、ようやくうつ伏せになりながらであったが、ビル側に——生者の側に戻ってこれた。
そして——奈落に落ちかかっている左手を持ち上げる。
女性の右腕が見えた。
シャルとリディは、その女性の腕を掴み持ち上げて引っ張る。
「ああ、何とか間に合った……」
三人はその場にへたり込み、荒い呼吸を繰り返していた。
安堵したのか、三人は顔を見合わせて笑みを浮かべた。
ふとクリスは、ここに居ないルーが気になった。
「ルーはどうした?」
振り返ると、強風に煽られながらも、必死に走ってくるルーの姿が見えた。
シャルとリディも安堵したように、走ってくるルーを見つめる。
「クリス!」
遠くからルーの声が聞こえてくる。
しかし、三人が安堵したのも束の間だった――。
微細な振動が足元から伝わってきた。
(――まさか!)
本能が危険を告げていた。
さらに、空気の密度が変わる。
「皆、伏せろ! ルー! お前も——」
次の瞬間――。
先ほどまでいたヘリポート付近が、突如として爆発したのだ。
爆風が、四人に襲いかかった。
シャルとリディは、咄嗟にその場に伏せた。
クリスも座り込んでいたので、コンクリートの破片が飛んでくる程度であった。
だが、ルーは違った。
柵の側まで駆けつけていたが、背中に爆風をまともに受けてしまったのだ。
ルーの身体は浮き上がり、柵を軽々と飛び越えていた。
さらには、そのままビルの外へと放り出されていた。
「「ルー!」」
シャルとリディが、手を伸ばすが間に合わなかった。
クリスは考えるよりも先に身体が動いていた。
ルーに向かって跳躍をしていた。
気づけば——両腕でしっかりと彼女を抱きとめていた。
「クリス!」
ルーが涙目で見つめてくる。
「俺を追い抜くなよ」
クリスは笑みを溢すと、ビルの方へと、彼女を突き飛ばしていた。
シャルとリディが、ルーの身体を受け止めてくれた。
ルーの無事を見届けながら、クリスは三人から遠ざかっていった。
抗うことのできない、奈落の底までの自由落下――。
「悪いな、マレーネ……」
独り言のように、婚約者に詫びていた。
マレーネがため息を吐く。
『主よ。妾は言ったはずじゃぞ。主はすでに三人の心に刻み込んだと——』
そう言って、マレーネは微笑みかけてきた。
「お前、何を――?」
すると、微かではあるが、三人の声が聞こえた気がした。
「「「クリス!」」」
幻聴ではなかった。
落下による風切り音に混じっていたが、はっきりと聞こえてくる。
クリスが落ちた方向を見上げると、手をつないだ三人が瞬間移動を繰り返しながら、近づいてきたのだ。
「お前たち!」
ルーはクリスに向かって手を差し伸べた。
「クリス! 追いつきましたよ!」
「お前ばかり、先に行かせないぜ!」とシャル。
「そうだぞ、色男!」とリディ。
「お前たち、バカだろ? 落下してんだぞ?」
クリスはフッと笑いがこみ上げてきた。
「追いかけてきて、どうする?」
そう言って、差し伸べてくるルーの手を握った。
すると、ルーも笑みを溢す。
「貴方が仰ったではありませんか?」
「これは監獄王によって仕組まれた舞台の中だと――」
クリスは下を見ると、ビルの真下にある道路が封鎖され、巨大な消防マットが広げられていた。
「だが、あの大きさでは衝撃を受け止めきれないだろ? おそらく、あの大きさでも高さは60メートルが限界じゃないのか?」
「ですから、我々全員が同時に飛び降りるのが助かる条件なのでしょうね」
(ああ……そう言うことか――飛び降りる者は俺たちだったのか)
クリスは舌打ちをしてしまう。
「面白くないな……」
クリスが呟くと、ルーもそれに同調した。
「ええ。面白くありませんね」
「二人とも! 口を閉じて衝撃に備えろ! 舌を噛むぞ!」
シャルは至宝で、四人の身体に緩衝空間を作り上げていた。
四人は仰向けの状態で落下していく。
エアーマットの中央が勢いよく沈み込んだ。
落下の衝撃をエアーマットとシャルの緩衝空間が吸収したことで、四人は無事に地上へと生還することができたのだった。
***
その後は——消防隊や救助隊が入り乱れる中、事情聴取が行われた。
四人が解放されたのは19時を回った頃だった。
「それではクリス――帰りましょうか? リムジンも待たせてありますよ」
ルーは振り返り、クリスににこやかに微笑んだ。
「帰る?」
「我々の屋敷に招待すると言いましたよ。まさか忘れているのですか?」
「まあ、屋敷とは言っても、近衛省の銃士専用の宿舎だよ」
シャルがそう説明し、立ち止まるクリスを追い抜いていく。
「実質、あたし達以外いないから使い放題だ」
リディもクリスを追い抜き、シャルと並んで歩いて行く。
「あちらに、リムジンを待たせてあります」
そう言って、ルーも歩き出していた。
クリスはその三人の後ろ姿を見て、顔をほころばせていた。
「そう言えば、そうだったな……」
そう呟くと、クリスは少し離れて三人に着いていくのだった。




