―愛してる―
4話目です
「……ロウ……」
信じたくはなかった。
自分を滅ぼそうとしている者の傍に彼が居ることを。
しかしロウは、静かな、兄と同じ、温度を感じさせない怜悧な瞳で、社を見つめていた。
温かだった、優しい温もりなど微塵もない。
やはりロウは相対する者だった。
その事実に世良は立ち竦む。
「どうして? ロウ」
あなたを信じたかった。
孤独な夜、傍に居て温めてくれた優しさを信じていたかった。
言葉は届いていない。音にもならない。
自分でもどうすることも出来ない感情が世良を襲う。
「姿を現せ、我が妹。生きているのだろう」
浪々と響く声なのに、振動する空気が悪意に満ちていて怖気が走る。
キイラは世良の姿を見た事がない。本当に社に居るのか。生きているのか。それを確かめているのだろうと、風の音さえしない静まり返った空気に世良は思った。
「お前は悪しき子。この世に存在してはいけない存在」
対岸から聞こえる声に、一切の愛情は感じない。ただ憎む相手に、当然の言葉を投げつける、憎しみしか感じ取れなかった。
「長になるのはこの私だ。その悪しき力を私の為だけに捧げるというのなら、その命を生かし、飼ってやる」
ヒヤリと響く恐ろしい言葉。世良の力だけを求め、それを利用する事しか許されていない。
世良は長の座など狙ってはいないのに。此処に閉じ込められて、そんな事を考える事もなかったのに。
どうして今になって、そんな考えに及んだのかが分からなかった。
「兄様」
発した声は結界を出て、畔の草を揺らす、ささやかな風にしかならない。
「良いだろう。一晩待ってやる。その間に私の元に下るか、その命を捨てるのか決めるがいい」
そう言って傍で銃を構える男に躊躇いも無く、「撃て」と命じた。その瞬間、キイラの隣に居たロウの体がピクリと震えたのが見えたが、それ以上には動かない。
キイラは僅かに視線を彼に向け、至極満足そうに嗤った。その口元が「それでいい」と動く。
やはり彼から世良の存在が知れていたのだろう。もしかすると、今の一言はロウを試す為でもあったのかもしれない。
彼が選んだのは兄の傍だった。
「ロウ」
世良が零した声に重なった玉の弾ける音と共に、一発の銃弾が社に向かって飛んでくる。
「姫様っ」
声と共に、銃弾は結界をパシっと軽い音を立てて貫通してきた。父である良宇羅の結界が張られている関わらずだ。
世良は瞬時に背の翼を羽ばたかせ、銃弾を返したが、確実に結界の力が弱まっていた。
「結界が張られているのか。言葉だけではないという土産だったが、軽く返されてしまうとはな。その強い力は脅威にしかならん」
「結界に撥ね返されたと思っているみたいね。父様が張ったとも知らない様だわ」
本当に兄は何も知らされていなかったのだと分かる。張られた結界に気付けないほど力も弱い。そんなただの人狼であるキイラが、次期長の座を狙って事を起こせるほど甘くないはずだ。
年齢的に父の力が衰えるにも早すぎる。
何が起こっているのか、世良には分からない事だらけだった。
「お前の姿を早く拝んでみたいものだよ。我が妹。その瞬間を楽しみにしているぞ」
居丈高な笑いを残し、兄達は森へと踵を返した。
「おい、行くぞ」
最後まで社に向いて佇んでいた彼を、キイラが強い声で呼んだ。その声に素直に従う彼の姿に、冷たい息苦しさが襲う。
いつしか溢れた涙が止まらない。
毎夜、傍に来てくれたのは、その人のため。本当に従う、守りたい主のため。
だったらどうして、あの時、屋敷でそのまま兄に差し出してくれなかったの。
どうして、夜ごと抱き締めてくれたの。
寂しい夜に甘い夢を見せて、懐柔しようとした? こんな子供なら、優しくすればどうとでも出来ると思った?
彼の全てが嘘だったのなら、それでも良い。
愛していると詩った、自分の心だけは本当だから。
その想いだけは自分のものだから。
世良は溢れた想いを涙とともに振り切り、顔を上げ直した。
「村まで下がったのでしょうか、姫様」
静かになった畔を見ながら、仕えてくれる彼女達が回廊に出てきた。
「近くには居るわ。空気がザワついている。まだ森の中でしょう」
「森の中からこちらの様子を窺っていると」
「おそらくね」
涙の跡には触れず、いつもの様に自分の世話を焼き始める。
――間違わない。
猶予はたった一晩だけ。それでも動けるはずだ。大事なものを守れる様に。
「父様の所へ行く」
「危険過ぎます!」
「それでも、何が起きているのか、ここからじゃ何も分からない。急に兄が動き出した理由も、父様の結界が、たった銃一弾で破られてしまった理由も」
彼が好きなの。ただ、好きだと思うの。それでも、社を襲うなら、やっぱり敵でしかない。自分には社に居てくれる者も、愛おしいから。
「私が帰るまで、絶対に社から出ないで待っていて」
結界を出た一瞬が勝負。兵達に気付かれない様に森を抜けるには、目に留まらないくらいの速さで飛ばなければならない。
そんな速さでなど一度も飛んだ事はない。出来るだろうかと、世良の心臓は緊張でぎこちない音を立てていた。
いつかの様に、宮居での翼隠し様に羽織を手にして、世良は翼を大きく広げた。
バサリと音を立てて一度羽ばたき、更に自身の芯に力を籠めると、メキメキと軋みながら、翼が大きく伸びていく。背中に痛みが走ったが気になんてしない。
「姫様」
力の使い方は感覚が知っている。そう信じて浮上した。そのまま一気に結界を突破し、兵の頭上を飛び抜ける。
誰の目にも留まらない、突風と間違ってくれる事を祈りながら。
そうして一瞬。瞬きもない刹那。
彼の視線がこちらを向いた。――気付かれた。
ドクリと鼓動が音を立てた時には、父の宮居の前だった。
彼は追ってくるだろうか。この身を捉えに。
その前に自分にはしないといけない事がある。夜明け前には戻らなければ、社がどうなるかも分からない。
世良は急いで羽織を肩に掛け、耳と尻尾を引っ込めると、記憶を頼りに父の部屋へと向かう。
中は静まり返っていた。兄は衛兵達を一人残らず世良の社に率いたのだろうか。
父は此処には居ないのだろうか。
世良は傍に居るはずの飛天の気を探る。
「居た」
以前見つけた場所と同じ部屋から、飛天の気が流れてきていた。その傍にもう一人分の気があるが、銀狼である父の気にしては弱すぎる。
違う。何か別の気が混じっている。
この気は。
「父様! 飛天!」
世良はもう構っていられなかった。
荒く襖戸を開け部屋に入る。
そこには初めて見る父が横たわり、そんな父を全身で守る様に抱き蹲る飛天が居た。
「何、これ。どういう」
やはり言葉にはならなかった。
「世良」
それでも飛天が気付き顔を上げる。
確実に生気は失われ、こうしている間にも、飛天の気が何処かに流れ出している。やつれた頬に安堵した様な笑顔を浮かべた飛天の、抱き締める腕の中で眠る父を見下ろした。
飛天が父の足元を指差す。着物の裾から出ている踝は、紅い紐で部屋の柱へと繋がれていた。そこから夥しい数の黒い念が、黒煙となって父を包み込もうとしている。それを飛天が必死にその翼で払い除けていたのだ。
世良に気を取られた一瞬で、黒煙が胸元まで這い上がる。慌てて払い除けた飛天の翼が、父の顔を撫でていった。
もう飛天の姿も映らないだろう父が、そんな飛天の翼につられたように瞼を上げた。
「世良……か」
姿を見たのが初めてなら、声を聴いたのも初めてだった。
「まだ、その様な幼い姿なのか」
苦しい息で放たれた一言。そうして父はゆるゆると、駄目だと言わんばかりに弱く首を振った。
どうしてと、問いたかった。
社に閉じ込め、一度も顔を見せに来てくれたことも、言葉をくれたことも無かった。
やはり生まれ落ちた時に――。
「せめて、お前の力が、オレの力を凌ぐ、その日までは、隠し切れるかと思っていたが」
「え?」
隠す? 結界を張り、閉じ込めて存在を消したのではなく?
「その姿のまま、皆の前に出ても、人狼の長だと、言わしめる力が育つまではと、思っていたのにな」
「無様に捕まった」と力なく笑った。
何か重大な事を言われた。なのに、言われた言葉が理解できない。いや、理解はしているけれど、淀んだ澱の沈む感情が、拒否をしている。
「世良」
焦る飛天の声が聞こえる。悪しき念に飛天まで飲まれようとしている。恐らく、良宇羅の話しに飛天まで気を取られたのだろう。
自分達は思い違いをしていたのかも知れない。だったら、全てが聞きたい。この人の口から。
たかだか紐で繋がれるほど、銀狼の力は弱くない。
世良は慌てて解こうと、良宇羅の足首を戒めている紅い紐に触れた。瞬時に、バチリっと弾かれる
その一瞬で感じ取れた、その気は――ロウ。
紅い紐はやはり、ロウの気が流れていた。銀狼の力を抑えるには銀狼の力。でも、どうやって。
世良が驚きに動きを止める。
「“血の呪い”だ。その紐には力を持つ血が染み込んでいる」
人狼にとって、血より強い術はない。
“血の呪い”はどんな力の弱い者でも使える術。しかし、その相手の意識さえも飲みこんでしまう、大守の長にしか伝承されない邪悪の術。
翼を広げ、世良は長い二本の羽を引き抜いた。
「お前が生まれた日、その翼を見て知った。その術を誰かが手に入れていると気付いた。だからこそ、その“誰か”から、世良、お前を隠した」
その“誰か”が兄だったというわけだ。恐らく父は気付いていたのだろう。その正体に。
だからこそ、兄には世良の一切を知らせていなかったのだ。
世良は再び紐に手を伸ばした。そうして一気に、自分の力を手にした二枚の羽に流し込んだ。増大したエネルギーの発露に、耳も尻尾も飛び出してくる。
一本目の羽は折れてしまったが、黄金に光る刃の様に、羽は僅かずつ紐を断ち切っていく。繊維の一本が切れるごとに、気が弾けバチバチと火の粉が飛ぶ。
ダンっ! と最後の一押しで敷布団どころか、畳までを貫通させた。
その瞬間、紐から解き放たれた邪念たちと共に、一匹の大きな狼が襲い掛かってくる。
その姿は知っていた。見間違うなんてありえない。
ロウだった。
一瞬、追いかけて来られたと思ったが、彼本人ではなかった。紐に込められた気が実態として、姿を見せただけ。
「っつ!」
なのにその姿を見て、僅かに祓うのが遅れた。
「小賢しいっ!」
戒めから解放されたばかりの良宇羅が、気の咆哮を吐き、一息で霧散させる。
ロウの影も一瞬で消えた。消え去る瞬間に目が合った。
ただの影なのに、苦しい。
彼は敵。世良は彼と戦わなければいけないのだ。
戦いたくはない。だって、まだ彼の姿を見るだけで、鼓動が跳ねる。まだこんなにも、苦しい。
敵だと知ったのに。
それが世良の甘さなのかも知れない。
打ちのめされた様に放心する世良の背後で、ドサリと何かが崩れる音がした。
振り返ると、再び良宇羅が倒れていた。
どうやら最後の咆哮で、力が入らなくなったらしい。意識も飛ばしている。飛天もそれまでに力を使い過ぎていて、抱き締めながらオロオロとするばかりだ。
世良は翼を広げ、父の頭の先から爪先までを一撫でした。
フウと深い溜息を吐き出して、良宇羅が意識を取り戻した事を知らせる。
「世良。愛しい我が子。守り切れず、すまない」
吐息混じりで途切れ途切れの声は、ともすれば何かの間違いかと思うような言葉を紡いだ。
ずっと守られていたのだと知った。
「父……様……?」
声は言葉にならず、ふわりと舞う。
「言葉も、まだか。おいで」
力なく、それでも傍に寄っても良いと許すように父が、腕を伸ばして微笑んでいた。
「オレの力を越えれば、お前は結界の影響など受けないんだぞ」
世良はよろよろと、引かれる様に横たわる父、良宇羅の横へ膝をついた。
そっと大きな掌が頬を撫でてくれる。
「よいか、世良。その姿のままを認められるには、お前が強くなるしかないのだ。何事が起っても、誰からも人狼の長の器だと、信じていてもらえるほど、強く」
耳を。頭を。撫でてくれる。
「はい。……はい、父様」
世良は言葉にはならない声で答えながら、何度もこくこくと頷いた。
この温もりを知っている。
いつか光の中で感じた。
――愛しているよ。
そう遠くから聞こえる声。
そうして、ずっと傍にあった。寂しい夜も、寒い心を温めてくれる様に。
たとえ欺きだったとしても、温もりだけは本当だった。




