―夜が明ける―
5話目。
「飛天、父様をお願い」
夜明けが近づいてきていた。戻らなければ。
聞きたかった事、全てが分かった訳じゃない。余計に分からない事も出てきた。
それでも、全ては自分に掛かっている。
何もかもを諦めて、嘆いていた自分ではいけないこともわかった。
世良は再び、風を起こしながら社に戻った。
やはりロウだけが自分に気付き、今度は一声哭いた。
「姫様、お帰りなさいませ」
回廊に降り立った世良を、女たちが囲む。
「私がいつまでも弱かったから、此処に閉じ込めてしまった。いつまでも守られている子供だった」
世良のする父の話しを聞きながら、飛んで乱れた髪を梳いてくれ、羽織の代わりに長い打掛を掛けてくれる。そんな彼女達に初めて世良は聞いた。
「私はお前達の良き主になれるかしら」
「いつも私達の事を考えてくださる姫様は、もう立派な私達の主様ですよ」
「ありがとう」
朝日が昇る。
社に眩いばかりの、黄金の光が差し込んでくる。
「時が来たぞ。決心はついたか」
一筋の光と共に響く声。
清涼な朝日には全く溶け込まない、兄の姿が畔にあった。森の奥から、キイラの兵達も出て来ていた。
「ロウもいる」
「姫様」
父は結界を張り直してくれたようだ。気の大きさが違う。
これで彼女達だけでも守ることが出来る。
「出るわ」
「姫様、危険です。奥に御下がりください」
「良いの。兄の狙いは私なのだから、姿を現すのが筋でしょう。お前達は絶対に出て来ては駄目よ。何があっても、此処に居て」
そうして世良は祭殿の正面へと回る。閉ざした正門を開き、世良はそこに立った。
湖面が反射させた黄金の光に包まれて、幼き姿のまま、白銀の耳と尻尾を携え、何より純白の大きな翼を背負う。
その姿は、誰も見た事のない姿。
清水湖を挟み対峙する、兄を中心に隊を成している兵から、動揺を隠せない騒めきが起きる。
ある者は、魔が者と恐れたかもしれない。
ある者は、この世のものではない。まさしく“天狼”と畏れたかもしれない。
世良はそれでも良かった。
――その姿のままを認められるには、お前が強くなるしかないのだ。
父の言葉を自分自身に言い聞かせる。
「聞き及んだ通りの醜い姿。やはり生きていたか」
ニヤリと嗤う兄の気配が黒く染まる。目の前に居る兄こそ、魔魂に巣食われてしまっていた。
聞きたい事が山ほどあった。
どうやって“血の呪い”の術を知ったのか。
どうして父を捉えたのか。
そして何より。
「どうして、私を亡き者にしようとするの」
言葉として届かないことは分かっていたが、問わずにはいられなかった。
「何を言っているか分からん」
冷笑の元に、キイラは右手を上げた。
「言葉も通じぬ悪しき者を葬れ」
一斉に銃が世良に向かって構えられる。
そして半人半狼のロウさえも臨戦態勢で、身を低くする。
――ああ、本当に。
ロウ。清水湖を挟んですぐそこに居るのに、傍へと来てくれない。触れられない。臨戦態勢を取られているのに、この期に及んで、一欠けらの希望が捨てられない。
「姫様っっ!」
ずっと仕えてくれた彼女達の声がする。
世良は翼を大きく広げると、力の限りで羽ばたいた。
「撃て!」
兄の手が下ろされるのと共に、無数の銃弾が向かって来るのが見えた。
ゴオ! と濁音と共に、清水湖の水が巻き上がり、一瞬で世良の前に水の壁を作る。それさえも通り抜けた鉄玉を、自身を包んだ翼で振り払った。
「化け物だ! 幼い姿でも、なんという恐ろしい妖力だ! いま消さなければ、村は滅ぼされるぞ!」
誰かが叫んだと同時に、更に兵の銃弾が豪雨の様に世良に浴びせられる。
父、良宇羅が言っていたのはこう言う事だったのだ。異端姿に脅威の力を持つ世良を、いずれ人はただ恐れ、恐れはありもしない敵への恐慌を生む。
そんなはずはないのに。今まで静かに暮らしていたのに。今まで存在すらも知らなかったでしょう。
なのに。
「ねぇ、ロウ。あなたは、知っているでしょう?」
いつしか世良は歌っていた。
轟音の中。声にもならない。森の音にもならない。誰にも届かない。
――愛しき人。愛しき人。
この詩が届いたならば、傍に来て。
夜だけで良い。どんな姿でも良い。
ただ傍に来て。ただ傍に居て。
愛しき人――
それは世良の想いの詩。
どんな姿でも良いと思っていた。傍に居てくれるなら。
彼の色の無い瞳がこちらを見ていた。それが悲しくて。寂しくて。
「あなたの優しさに触れていたと思ったのは、やはり間違いだったの」
自分の巻き起こす暴風に紛れ、彼の元に自分の音さえも届けられない。
それでも一瞬、彼の瞳がこちらを向いた。
「ロウ」
今度はピンと立った三角の耳が、ピクリとこちらを向いた。
彼は臨戦態勢で身を低くはしているが、兄の傍から動こうとはしていない。
「どういう事?」
何かが違う気がする。いつもの彼と違う。それだけではない。禍々しい気の種類が違うというべきか。
彼の眉間に刻まれる皺が、段々と深くなっている様にも見える。
そうして、ようやく世良は気付く。その首元に、もう一本の首輪が嵌められている事に。
「“血の呪い”……あれをロウに嵌められるのは兄様だけ」
ロウは主である兄の血で染めた首輪に戒められ、その意思を奪われている。
「どうして、そんな酷いことを」
どうやってその秘術を手に入れたのか知らない。けれど、目の前で、愛しい人が苦しんでいるのは許せない。たとえ、本当に敵であったとしても、その口から真実が聞きたい。
どうして毎晩、来てくれたの。歌も、言葉も通じていなかったでしょう。
狼の姿でしか触れ合えないと分かっていて、ずっと抱き締めてくれていた、その訳を知りたいの。
敵と疑った時、必死に首を振ったあなたが忘れられないから。
「ねぇ、ロウ。愛してるって言ったら、もう一度、抱き締めてくれる?」
そう囁いて微笑むと、世良は一切の防御を解いた。
「姫様っ?」
背後から悲痛な声がする。その声にも振り返り、微笑んだ。
ぶわりと大きく広げた翼。同時に無数の銃弾が襲う。そのどれもよりも速く世良は舞い、トンっと、ロウの目の前に降り立った。
その姿は、幼女の姿を無くし、ほっそりと伸びた手足に、耳と尻尾と同じ美しい白銀の長い髪を靡かせた、神々しいまでの女性の姿。
「な!」
一瞬の出来事に、傍に居たキイラが固まる。そして慌てた護衛が自分達の間に、壁を作った。
「ロウ、今、助けるから」
やはり声にはなっていなかった。サワリと撫でた風が、彼の前髪を撫でただけ。
そんな二人を兵の壁に守られたキイラが嗤う。
「見かけは変容しても、幼いお前の力で、それが解けるわけがないだろう」
「助けるわ」
グルルと唸る様な声を自分が発しているなど、初めて聞いた。世良はどこか遠い意識で、彼の首輪を掴んだ。
「私は禁忌の子。そして、この世の全てを統べる天狼」
どこまでも通る明朗に発した声は、言葉となっていた。
驚く周囲をよそに、鋭く伸ばした犬歯を二本の首輪に当て、力の限りで引き千切る。
ブチブチと太い首輪が千切れる音に混じり、背後でガチャリと撃鉄を上げる音がした。
視界の端に映ったのは、自分と何故かロウにまで向けられた銃口だった。
咄嗟に世良は銃身を掴み、眼力で全部の銃口を自分へと向ける。
この人に、傷なんてつけさせない。
「良いでしょう。それほど、私を滅したいのなら。撃ちなさい!」
「させない!」
そのどこまでも響き渡る、狼の咆哮は一体誰のものだろう。
「姫様。――愛しい我が主――」
どこか遠くで、声が聞こえる。
温もりに包まれていた。ずっと。
この温もりを知っている。
「――様っ! 姫様っっ」
果てしない遠くから聞こえる声を頼りに辿り着いた先は、光だった。
「お……前達、無事……?」
絶え絶えに発せられた声が、自分のものだとは到底思えなかったが、瞳に移る彼女達の涙が自身を映してくれていた。
「ここは?」
「姫様のお部屋です」
視線を巡らせて辺りを見遣れば、確かに見慣れた部屋だったが、自身の視界にちらちらと入ってくる、見慣れないものや、感触が、世良の感覚を惑わせたのだ。
自身の姿が未だに信じられない。
「急に成長しちゃうと、ちょっと恥ずかしいわ」
指の長さも、爪先までの距離も違う。膨らんだ胸元も、体中に纏わりつく髪も。
「後で結ってくれる?」
「はい。後ほど」
女官の楽しそうな声を不思議に思い、そうして気づく。冷たく冷えてしまった手を包む温もりに。
ふと自身の傍で横たわる姿。
銀の耳に、強く結ばれた口元。精悍さを表す眉と、骨張った輪郭。
そうして、絶対に離すまいとする意思さえ感じる、握り込まれた指の温もり。
「銃の嵐の中、凄い勢いで彼が姫様を守りながら兵としての戦力を奪い、果てる寸前に姫様は彼を抱えて、社まで戻っておいででした」
二人とも同時に倒れてしまい、肝を冷やしたと、少しの小言を食らう。
銃声を聞いた後の事はほとんど覚えていない世良は、彼一人を抱えて飛んだことも、覚えてはいない。
「ロウ」
そっと呼びかけた。
開かない瞼を、握られていない方の手で、そっと撫でる。
「守ってくれたのね、ロウ」
世良の囁きが彼の睫毛に踊る。
握られた指先からトクトクと鳴る心臓が伝わりそうで、世良はその手を離そうと手を引いた。
その瞬間、ギュッとさらに強い力で握り込まれてしまう。
それだけで、トクトクからぎゅっと鼓動が特別な音を立てた。
「もうしばらくそのままで。姫様」
苦笑に近い声で女官が言う。
世良は無言で頷き、彼の寝顔を見遣った。
おそらく世良を守ってくれた時にできた、頬や額の擦過傷。あちらこちらが破れてしまった着物。そうして、世良が引き千切った首輪の痕。あの時既に、付けた羽は全て落ちていた。
「私も守れたのかしら」
守られるだけではなく、自分も守りたかった。それが出来たのならば、これほど嬉しい事は無かった。
そうして再び瞼を閉じると、穏やかな温もりに、緩やかな眠りへと誘われる。
「姫様――俺の主」
遠い昔に聞いたような覚えがある。
優しい囁きと、柔らかい声。
瞼を開けると、初めて見る彼の笑顔。
「ロウ」
今度は、彼が先に起きていたらしい。
「はい、姫様」
そうして返事が返ってきた。
世良は不思議なものにくるまれている感覚で、身を起こした。慣れない体の重みや、長い髪に絡みつかれながら起きるその最中も、ロウが手を伸ばし、そっと助けてくれる。
「そうだわ、ロウが半人半狼の姿」
「そうですね」
「言葉も通じてる」
「はい」
しっかりとした返事に、体が震える。
怖いからじゃない。悲しいからじゃない。嬉しくて、歓喜に体が満ちていく。
「――ロウ」
「はい……」
「ロウ」
「はい」
何度呼び掛けても返ってくる声が嬉しくて、確かめる様に手を伸ばす。
彼は少し躊躇った後、それでも以前の様に、しっかりと、その腕の中へと抱き込んでくれた。
「……ロウ」
「はい――姫様」
息が出来ないほど抱き締めてくれる腕は、いつかの様に震えていて。
「どこか痛めたの」
心配になり腕の中から顔を上げると、透明な光を放つ紫の瞳にぶつかる。
ふわりと二人の間に風が吹いた。
「そう。結界が無くなったのね」
父の力を越えた証。
だからこそ、彼はこの姿でここに居てくれる。こうして返事をしてくれる。
「あなたは、敵?」
いつかの問いかけを世良はした。はっきりとした彼の言葉が聞きたかったからだ。
「いいえ。決して」
「あなたの主は、兄様でしょう?」
世良の一言に、彼の喉がグッと音を立てた。
そうして、そっと世良をその腕から世良を離すと一歩下がり、片膝を立て頭を下げた。
「私の名は、琅・メイヴィル。姫が生まれる前より、姫は私の主。それは誰にも、良宇羅様にも決められない」




