―守るべきもの―
3話目です。
『世良』
声に誘われて瞼を開ければ、そこには、自分と同じ純白の翼を背負う人影が見えた。
闇の中、淡く光を放つその姿。
「飛天」
こんな姿の自分をこの世に落とした相手。
元は人狼で現長の妻だった、世良を生んだ母。今では耳も尻尾も無くなり、名を変え、与えられた翼を背負う、天界に住む天人の一人となっていた。
『良宇羅様のお傍に居たいのです。たとえこの世に存在する身でなくなったとしても。この姿をその目に映してもらえなくても』
母は夫である良宇羅を愛していた。心の底から。そして、愛し方を間違えた。
第一子キイラが普通の人狼でも、父として慈しんでいる姿を見て、母もキイラを慈しんだ。心の底から、愛おしんでいた。ただ、もっと父の愛を求めた。
だからこそ第二子が銀狼であればと願い続けていた。願っただけで生まれるのではないと知りながら、願わずにはいられなかった。
世良は願われ生まれた子だと母に言われ続けた。ただ、どうしてこんな姿になったのかは、最後まで教えてくれなかった。
「愛し方を間違えたのです」
教えてくれたのはそれだけだった。
夫を愛し、兄を愛し。その二人から切り離された生活は、彼女には耐えられなかった。
嘆き続けた母を見かねた様に、ある日天界から、一人の飛天が姿を見せ、天界の人間になるかと誘いを掛けた。
人狼の姿は消え、天界の人間の目にしか映らなくなる。良宇羅の傍に居ても、声も聴いてもらえず、姿も見てもらえない。それでも良いのかと。
それでも良いと、「ただ、傍に居たい」と耳と尻尾を失い、真っ白な羽を貰った母は美しく微笑んだ。
そうして母だった彼女が天に昇った日から、世良の前に姿を現したのは初めてだ。
世良は闇の中、静かに飛天を見つめる。
『もうすぐ、あなたの兄が此処にやって来ます』
ふとあの夜の冷たい声が蘇った。
「兄様にお子でも生まれるの?」
父の良宇羅は、世良が生まれて本社を清水湖の中央に移し、分社を畔に建て直した。通常は分社の方を使っているが、移転後はここが産土本社だ。長の子孫が生まれるのだとしたら、確かに本社でと望まれてもおかしくなかった。もしそうなれば、世良達はどこか、身を隠す場所を考えなければならない。
しかし事実は、そんな明るい予想とは全く違っていた。
『あなたを、亡き者にするために』
その静かで重い言葉が世良の息を詰める。
「何故? 兄様は私が生きている事を知らないはずだわ」
世良は、自分が死産にされている事を知っている。あの時だって、彼が隠してくれたから、多分バレていなかったはずだ。此処に居る者たちと父だけが世良の生存を知っているのだ。
そこで、ふと気付く。――隠してくれたから、知っている。
「まさか……ロウ……?」
ドクリと心臓が嫌な音を立て、体中に毒が回る様に痺れが走った。
『早まっては駄目です、世良』
「でも、彼しか私の存在を知る者はいない」
世良自身が否定したくても、湧き上がる疑念がどうしても拭えない。
『私には気の流れから先見をするしか出来ない。何が正しくて、何を信じるのか、それは自身の目で見て確かめるのです』
守ってくれた腕の強さを信じたい。孤独な夜に、ずっと寄り添っていてくれた優しさを信じたい。それでも、あの首輪から流れて来た、悪しき念や呪いが信じさせてくれない。
あれが、自身に向けられていたのだとしたら。
『思い込んではいけません。私の様に間違ってしまうから』
寂しそうに零した言葉に、世良の流されていた思考が止まる。
「飛天」
『間違わないで、世良』
飛天は間違った。愛し方を。力の強い子を産めば、もっと愛してもらえると。それ以上の愛を望んだ。
「私の姿の理由は、まだ教えてくれないの」
何度聞いても答えてくれなかった。けれど、今度いつまた姿を現すか分からない今となっては、聞くしかなかった。
こんな姿になってまで傍に居たいと願うこの人が、愛した人を裏切る姿が思い描けないのだ。
真っ直ぐに見つめる世良に向かって、飛天はゆっくり息を吐き出した。
『あなたは間違いなく、私と良宇羅様との間に出来た愛おしい子です』
「飛天」
この期に及んでもやはり教えてくれないのかと、世良は落胆する。
『私にも確証がないのです。だから、あなたが直接聞きなさい』
しかし以前は無かった、その先の言葉が続いていた。
「誰に?」
『あなたの、兄。――キイラに』
その一言に、ドクドクと鳴っていた心臓がグッと握り込まれた様に痛む。
「兄……様」
兄が全てを知っているかもしれないという事実。そして、自分を亡き者にしようとしている現実。
『私の間違いが、あなたを苦しめる。どう償えば良いのか、私にも分からないのです。それでも、あなたの幸せは願っています。だから、私のように間違わないで。愛しい世良』
闇に消える飛天を見送って、世良は急いで女官たちを起こしにかかった。
飛天はもうすぐ兄が此処に来ると言った。その時刻は分からないが、力の無い者たちを逃すなら闇に紛れている方が良い。
「姫様、何事ですか」
「早く起きて支度なさい。ここを出るのです。皆、これに着替えて」
世良は普段は着物姿の女官にまで巫女装束を渡した。
「ここで新しい子を産むそうです」
世良は誤魔化しながら、皆を追い立てる。
「姫様は」
「私には此処でする事がある。終えたら、皆を追いかけるわ」
「でしたら私達も残ります」
「駄目よ。先に行きなさい」
初めて世良の凛然とした拒否に、誰もが言葉を失い社を後にする。
清水湖を渡り、森深くに姿を消したのを確認し、世良は自室で静かににその時を待った。
夜明けはもうすぐだ。
ここを出た女官や巫女達がそろそろ森を抜ける頃だろう。
彼女たちには、森に入れば着替えられるようにと、着物も渡しておいたが、無事に人里に紛れ込めたら、長である良宇羅の屋敷に行く様に伝えてある。
屋敷には兄キイラも住まう。どうか、見つからないで欲しい。
社を出てしまうと言葉が話せない。それは良宇羅が張った結界のせいだ。だからこそ術を良宇羅に解いてもらう必要があるが、キイラに見つかり、社の者だと分かればどうなる事か、世良にも予想はつかなかった。
そうしている内に、清水湖の水面で光が踊り出す。
とうとう夜が明けた。
ついに、ザワリと結界内の空気が揺れる。
「来た」
世良は立ち上がり回廊に出て、祭殿正面へと向かった。
大勢の人の気配はする。しかし空気が一向に淀まない。
「どうして」
ざわつく気配の中、世良が祭殿へ入ると、そこには大勢の女官や巫女達の姿が。
「お前達」
驚きにぎこちない声しか出てこなかった。
「村に向かう最中、大勢の衛兵に出逢いました。どうやらキイラ様がお集めになった、姫様討伐隊とか。聞いた兵は、姫様が生きているなど、半信半疑だと申しておりましたが」
「それを知って、戻って来てしまったの」
茫然と呟いた世良に、彼女達は「当然」と笑った。
「私達も此処に残ります」
「もう、お前達まで犠牲になる必要はないのです」
長い間、一緒に閉じ込められてくれた。世良の事を愛してくれた。だからこそ、解放してあげたかった。
「姫様。私達はこの社が閉ざされたあの時、自らが志願して残ったのです。あなた様の犠牲ではない。私達の意思でございます。そこは間違われては困ります」
その言葉に世良は我に返る。思い上がっていた。彼女達の意思を無視し、自分の存在のせいで犠牲にしたとばかり。
「姫様の足手まといになるのなら出て行きましょう。そうではなく、ただ私達を思ってくださっての事ならば。少しでも姫様のお力になれる事があるならば。私達を姫様の傍に置いてください」
間違ってはいけない。けれど、どれが正しいかなんて結果が出なければ分からない。
「どうなっても知らないんだから」
込み上げるものを堪えた言葉は、ただの強がりではない。
「姫様」
守られていた。ずっと、彼女達もまた寄り添って居てくれた。
世良は自身に誓い直す。今度こそ、本当の強さを手に入れると。
「世良様!」
その時はやってきた。
巫女の声に世良は清水湖の畔を見遣った。
ここに居る者達の数倍は居る兵を引き連れた者。
その先頭に、立派な鎧を付けた青年が居た。冷徹な瞳の色は、あの時の声と同じ。兄のキイラだ。
「兄様」
呟きはコトリと落ち、その事実を世良自身にも知らしめる。
「彼らをここに入れるわけにはいきません。社の扉を閉めなさい」
世良の指示の元、重たい社の表門は閉められた。
世良は回廊から清水湖の畔の見える場所に一人立った。そこからは彼らの姿も声も、自分なら微かに聞こえるからだ。
清水湖を挟んで対峙し、初めてしっかりと兄の姿を見た。
立派な成人の姿をしているが、耳も尻尾もない人型。そうしてその体には、夥しいほどの悪しき念の姿が絡みついていた。
その隣に立つのは――。
あの夜、幼い世良を助けてくれた青年の姿がそこにあった。
銀色の耳。銀色の尻尾。半人半狼の姿を保つその首には、血色の首輪。何より、七色の結花が淡く光り、世良に彼の正体を教えてくれている。
「……ロウ……」




