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―愛の詩―

2話目です


――愛しき人。愛しき人。

  この詩が届いたならば、傍に来て。

  夜だけで良い。どんな姿でも良い。

  ただ傍に来て。ただ傍に居て。

  愛しき人――


「あらあら、今晩は。素敵な狼さん。あなたみたいな素敵な方が、歌を聞きに来てくださるのに、魔が歌なんて失礼しちゃうわね」

 世良はふわりと微笑むと、その柔らかい銀色の毛を撫でた。

「本当に姫様は、その銀狼がお気に入りですね」

 ころころと世良を囲んだ世話役の巫女や、女官達が笑う此処は、世良の居住区となっていた。

 特殊な結界により、外気が一切入り込まない社の各部屋は、襖や御簾でしか区切られていない。

「銀狼さんは私と居てくれるからね。傍に居てくれる人は好きよ。大好きよ」

 言いながら世良は、その未だ育ち切らない腕で、目の前の狼に抱きついた。

「姫様……」

 本来、人狼は生まれて数年で成人の姿になり、その後は長い寿命に伴い、何百との年月をかけて年を経る。

 しかし、世良は百年経った今でも、少女の姿のままだった。

 伝説上の天狼として強い力を持ち、禁忌の血と力を秘める世良だからこその姿なのか。その真実は誰にも分からない。

「ほらお前達、すぐそんな顔をしなの。私は寝るのだから、早くお前達も休みなさい」

 フゥっとロウソクを吹き消し、女官達を追い出すと、世良は再び銀狼の傍に座り、御簾越しに清水湖を眺めやった。

「この向こうには、女官達の親兄弟が居る。私が此処で生きている限り、彼女達は向こうに渡れない」

 静かな横顔には、傍に仕える彼女たちへの深い愛情と、罪悪感で溢れていた。

「幾度も消えたいと――」

 そう言いかけた小さな世良を、銀狼は大きな尻尾で抱き寄せ、その腹元で包む。

「ふふ、コレを言うと、いつも銀狼さんが止めるわね」

 世良は甘える様に、銀狼のふわふわの首元へと抱き付いた。

「ごめんなさい。でも、やっぱり。父様は私一人を此処に閉じ込めてくだされば良かったと思うのよ」

 幼女の姿には釣り合わないほどの大きな責務。

 それは生まれ落ちたその瞬間から背負わされている世良の運命。

 この世に生まれ落ちた事を。この身を。世良は何度恨んだかしれない。

「せめてこの結界さえ解いてくれれば、彼女達は自由になるのに」

 世良一人なら、結界を破れはしなくとも抜け出す事は容易い。そうして幼い頃の世良は何度か社を抜け出し、父の屋敷へと忍び込んだ。

 たった一言、「結界を解いて」と請う為だけに。

 ただ、父以外にこの奇異な姿を見つかってはいけない。それだけは分かっていた。

 だからこそ闇に紛れ、音もたてずに、父の部屋を探す。匂いなんて知らない。宮居の構造も分からない。何度も、何度も忍び込み、ようやく父の部屋の位置を把握できたその日、とうとう見つかってしまった。

「誰だ」

 夜中に忍び込んだ相手に発しているのに、決して大きくはない声。

「そこで何をしている」

 静かではあるが、低く鋭い声だった。

 バクバクと早鐘を打つ心臓が、全身を震えさせ、世良の躰はピクリとも動けない。

「子供がこんな夜中に何の用だ」

 そう言って正面に回り込まれた時、翼を隠すのに掛けていた薄絹が、ヒラリと舞い上がった。

「――ひ……め……」

 世良の目線に合わせるため、目の前に膝を折った彼の、紫色の瞳が煌めくのを確かに見た。

 その瞳の色に一瞬で惹かれる。

 耳も尻尾も完璧にコントロールされているが、体内に秘められた力が強い。

「こんな所で何を。お兄さ……誰かに見つかったら、どうなると」

 そこに僅かな人の動く気配がした。

「耳と尻尾を隠せますか」

 焦った様な注意を受け、世良は驚いて飛び出していたものを慌てて引っ込めた。

「おい、何をしている」

 更に別の男に声を掛けられる。

「っつ」

 闇の中で再びビックリして、飛び出しそうな耳を慌てて押さえた。が、隠し切れなかった尻尾と翼が、一瞬パタっと揺れてしまった。

 ――見つかる!

 恐怖に体を縮こまらせた瞬間、フワリと大きな羽織が頭の上から被せられ、ギュッと抱き込まれた。

 初めて感じる、社の女たちとは違う筋肉質な硬い腕。

「そのまま、動かないで」

 世良にしか聞こえない様に、そっと、直接耳元で囁かられた。

 トクトクと逸る鼓動は、緊張や恐怖からきただけのものではなかった。

「家臣の子供が寝惚けたようです」

 彼の穏やかな声が、抱き寄せられた胸から直接聞こえる。

「こんな時間に騒がせるなど厳罰だ」

 それに引き換え、相対する男の声はヒヤリと凍える。

「やり過ぎです、キイラ様。親であろうと寝惚ける子は管理できません」

 ――キイラ……兄様……?

 あえて言い含める様に諭す彼に向かって、兄は行儀悪く舌打ちをする。

「お前は甘すぎると言っているだろう。分かった。もういいから、早く連れて行け」

 シッシッと追い払われ、彼の腕に抱かれたまま屋敷を出た。

 彼は無言で、それでも苦しいくらいの力で、世良を抱き締めていた。

 何も言えない世良を清水湖の畔に連れて来て、ようやく腕から降ろされた時、初めて正面から抱き締められた。

「こんな危ない事、二度としないでくださいっ! 見つかったら、どうなるか」

 強いはずのその腕が震えていた。

『ごめんなさい』

 世良は素直に謝ったけれど、やはり声にはならなかった。

 そうして胸元から一通の手紙を取り出すと、彼に渡し、身振りで広げて読んでと伝えてみる。

「良宇羅様に嘆願書ですか」

 世良自身は此処に留まるから、せめて彼女達を解放して欲しい。結界を解いて自由に行き来できるように計らって欲しい。

 ただそれだけの事を伝えたいだけだったのだ。

「姫様は、お優しいですね。本当に」

 そう言って彼はもう一度、その腕で、今度は温かく包み込んでくれた。

 それ以降、世良は屋敷に忍び込むことを止めた。

 身を挺して守ってくれた彼の、あの震えた腕に込められた杞憂のためにも。

 彼に託した手紙がどうなったかは分からない。父からの返事はもちろん無く、数十年たった今でも結界は張られている。

 自分がした事は何だったのだろう。自分の存在とは、何なんだろう。

 夜になり、あの闇夜の事を思い出す度、自身の存在が揺らぐ。

 それでも傍で仕えてくれる女官や巫女達のことを大切に思えば思うほど、この身をどうすることもできずに、寂しくなる。

 弱い自分なんて嫌だけれど。子供の自分は嫌だけれど。それでも、震えながら抱き締めてくれた腕が愛おしい。

 愛しき人。この詩が届いたならば、傍に来て。そう届かないはずの声で歌ったその夜、この銀狼が現れた。

 それからの夜は必ず、この狼が傍に居てくれたのだ。

 彼は、あの屋敷で会った彼だ。

 世良は知っている。

 たった一度だけ、畔で人に戻る姿を見た。

 けれど、彼が正体を明かしてくれるまでは知らない振りでいる。

 大きくて、優しい人。

 ずっと傍に居て欲しい。けれど、それは望んではいけない事だから。せめて子供の稚気に混ぜ、想いを吐露する。

 淡く光るふわふわの毛に包まれて、夜を過ごす。そうすれば、恋しい温もりが、一時の感傷などどこかに払ってくれる。

「銀狼さん」

 いつしか世良は夢現。

「いつまでも“銀狼さん”じゃ他人行儀ね。ギンはなんだか鋭い感じ。ロウ。ギンを取ってロウ。良いわ」

 勝手に決めて抱き付くと、狼の肢体がピクリと跳ねた。

 毛皮の下の筋肉質な感触が、あの彼の腕を思い出させる。

「大好きよ。ロウ」

 ほのかに体温の上がった銀狼の柔らかな毛並みに蹲りながら、世良は微笑む。

「温かいわ。今夜も、ありがとう。ロウ」

 返事などは期待しない。吠える事も、話すことも無く、ただ狼は傍に寄り添ってくれる。それで良かった。

 この社で言葉が話せるのは、此処に閉じ込められた者たちだけ。そうして外では、此処の者たちの言葉は、美しい音になるだけ。

 世良が生まれ落ちたその日から、そうして日々は続いていた。

「ロウはいつも紅い首輪をしているわね」

 世良は狼の首元から顔を上げ、そっとその首輪に触れた。その指先からジリジリとした、少し荒い気の流れを感じる。

 それは恐らく、首輪に掛けられた術の力だった。その術の波動があまり良いものには感じられない。雑多な感情や、術式が複数込められているのだ。

 目の前の狼を通して、世良に向けられたものなのか。この銀狼に対してのものなのか。それすらも判断がつきにくい。

「ロウ。あなたは、私の敵?」

 ポツリと零れ落ちた世良の言葉に、ヒュッと呼吸が止まる音が聞こえた。

 目の前の狼が、明らかに驚きに目を開き、動きを止めている。

「違うの。ごめんなさい。疑ったのはあなた自身じゃなくて」

 そう言い繕う世良の声も聞こえていないのか、狼は必死で首を振っていた。その顔は明らかに、もどかしそうで。

 彼はここを出れば言葉が使える。ここに居るからこそ、態度でしか表わせられないのだ。

 気付いた世良の表情が途端に曇る。

「そうね。違うわね。ロウは、違う。そんな事分かっているのに、上手く言えなかった」

 世良はそっと首を振り続ける狼に、再び抱き付いた。

「こんな血にも似た色、ロウには似合わないわ」

 首輪を撫でながらキスを一つ落とす。少しでも、彼にとって良い気になります様にと、願いを込めて。

 悪い気は悪いものを呼ぶ。良い気は良いものを呼ぶ。

 外では守る事が出来ないから。せめて。

「少し待っていて、ロウ」

 夜の帳が明けかけている。そろそろ彼が、本来の場所に戻る時刻が近づいてきていた。

 世良は急いで七色の絹糸で編んだ組紐を、自身の宝物を入れている小さな引き出しから取り出した。

「この紐はね。この山の草木や花で染めて、清水湖でさらしたものよ。とても綺麗に染まったから、組紐にしておいたの」

 そうして世良は器用に、紐を小さな花の形に結ぶ。

「ロウ、この首輪には術が掛かっている」

 真っ直ぐに見つめた先で、彼は静かに見返し、深く頷いた。

「知っているわね、あなたなら。それがあまり良くない類のものだと言う事も」

 再び頷くのを見て、世良は知る。

 それでも抗えない相手に掛けられた術なのだと。

 銀狼の上位には天狼しか居ない。そんな力を持つ銀狼が抗えないのは、自分が守るべき大切な者にだけ。

「そう。ロウには、大切な守るべき人がいるのね」

 世良が微笑むと、僅かに彼は口を開けたが、やはり何の音も発せられなかった。

「その人はこの首輪に今も触る?」

 それでも何度か口を開けていた彼は、諦めたように、ゆっくりと首を振った。

「良かったわ。だったらコレを付けても、暫くは気付かれないでしょう」

 そう言って世良は、紅い首輪に、小さな七色の結花を付けた。

「七色は厄除けの色よ。そうして、後はこれね」

 微笑みながら背負う純白の羽を広げ、自らの手で、柔らかい羽毛を三枚抜き取り、フゥっと息を吹きかける。

「一枚はロウの体を。一枚はロウの心を。一枚はロウの命を」

 結花の根元に三枚の羽を差し込んだ。

「お守りよ。役目を終えるまでその子達は落ちない」

 どこまでも澄んだ光が、社の中にまで差し込んで来る。

 それは二人で見た初めての朝日だった。

「ロウ、また来てね」

 清水湖の上を走り飛び渡って行く姿を、世良は静かに見送った。

 対岸の畔で彼が一度こちらを振り返り、一声、吠えた。

 強くて、どこまでも温かい声だった。


 どこか、予感があったのかもしれない。それは天狼としての力なのか、禁忌の子の力なのか。

 朝日の中で見送ってから、彼は姿を見せなくなった。

 一晩が過ぎ。二晩が過ぎ。幾日もの夜が過ぎても、傍に居てと詩っても。彼は姿を現してはくれなかった。

 彼の身に何か起きてやしないかと、あの邪念が彼の身を蝕んではいないかと、気が気ではない。

 そうして日中、森の向こう。人狼たちの里がある方角から流れてくる空気が、肌を刺すようになっていた。

 それはあたかも、あの日、彼の首輪から感じた波長に似ていて。

「姫様」

 縁側からずっと森の向こうを見遣る様になった世良に、何も感じられない女官や、少しは感じてしまう巫女達は、心配そうに声を掛けてくる。

「大丈夫よ。何があっても、私がお前達に手出しなんてさせないのだから」

 守られているだけでは駄目なのだ。守れるぐらい強くならなければ。

 日も落ちれば、闇は一層濃くなる。

 社の誰しもが不安の中眠りにつく時刻。

『世良』

 闇の中から優しい声が聞こえた。

 女性とも男性とも判断のつかない、優しく、丸い声。

『世良』

 声に誘われて瞼を開ければ、そこには、自分と同じ純白の翼を背負う人影が見えた。

 闇の中、淡く光を放つその姿。

「飛天」

 こんな姿の自分をこの世に落とした相手だった。


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