37
「ああ。また、か」
意識の落ちる瞬間の甘ったるい、どろりとした感覚。それが伝播するようにオメガの中に滑り込んだ。
“ソレ”を拒絶することはオメガには容易い。しかしそうはしない。
(真実を知る者が一人ぐらいてもいい)
自らの時は回らない。そしてオメガと同じ存在はこの世界にはいない。
だからこそ、その感触を拒絶しないのはただ一人の孤独に耐え切れないからか。
夢を見る時は本物の時間なんて流れない。だからこそ、“彼女”の存在はオメガに対するただ一人の同類、同じ感覚を味わうものなのだ。
(その場にいるのに、その場にはいない)
その無力感と絶望と、
「後悔はしないけれどね」
するはずがないのだ。
無力と絶望を感じたとしても、後悔だけはしない。なぜなら、それは全てを手に入れた瞬間だからだ。一瞬にして滑り落ちたものだとしても、あの時、オメガは全ての物を手に入れた。自らの時を止める結果になるとしても、その長く続く孤独の闇を知っていたとしても、行動は一寸たりとも変わらなかっただろう。だからこそ、
(その感覚を、もう一度手に入れるためならば、なんでもする)
「手段なんて、選べないよね」
オメガは漸く目の前を見据えた。
「ね、」
吾平を前に気軽く挨拶をする。だが、対峙する方としては非常に険悪だ。
「なんでお前が、こんなところに……ッ!」
感情的になる吾平とは別に彼は非常に冷めた眼をしていた。
今はその時ではなかった。期せずしての邂逅は望むところではない。焦がれる相手に出会えたことは本来的に嬉しいはずだったが、彼にはそれも微風のようであった。
(駄目だな)
近づきすぎたことを後悔する。
オメガは誰にも知られない存在だ。秘されるべき姿は街中を歩いていても、誰もが気づかない。気づいてはいけない。それは“異常”なのだ。
(時を歩まないものと時を歩むものが交錯することはあってはならない事象だ)
それは世界の歪みでもある。
吾平が気づいたのは、吾平自身が“時を歩まない存在”だからだ。
「おい、行くぞ。今は任務中だ」
もう一人が吾平を促す。龍城だ。
二人は現在、引き続いて“擬者”の事件を追っている。張り込み――なかなか成果が上がりにくい上に根気の必要とされる作業だ。現場へと向かう途中で足を取られているわけにはいかない。そのことは吾平にもよくわかる。だが、
「――ッ離せ!」
オメガを前に冷静でもいられない。
たとえ冷静であったとしても、逃がすわけにはいかなかった。
だが龍城は知らない。オメガをオメガと知らない。
「じゃあね」
龍城に取られた腕を取り返す際、ふと目を離した隙にその姿は去る。
人々が何も知らず、歩き、行き交う街。裏道でもない細い路地はすぐそこに大通りがあり、多くの人々がそれぞれの時間を過ごしている。けれど、吾平はそれに背を向けて、路地を曲った。
龍城の声が追いかけてきても、吾平はオメガを追っている。オメガ自身、時に追われるように姿を消していた。
見えない背を追うように走った吾平に運命のようなものがぶつかる。熱に焦がれた心はうねる様に当惑した。
「一人で突っ走んな!」
行き止まりに一人慄然とした思いを抱えていた吾平に追ってきた気配が言う。けれど、
「――っ逃げられた」
変わりようもない事実に、吾平は呻くように発した。
「何やってんだよ、てめぇ」
「オメガ」
龍城の疑問に答えるわけではなかった。ただ、心を攫われたまま、その名を口にしていた。オメガ――先導者。サリファンダに由来ある者。
「……あれが、か?」
龍城の声は心だけに留まらず、けれど行き止まりに反響して消えた。吾平の心に響くことは決して、なかったけれど。




