第096話 信頼できる右腕 * 海辺の街ルフラン〈レイ〉
レイ目線。第092話 13番の続きです。
足音が聞こえる。擦り足気味だが淡々とした足取りだ。
この足音は俺が知っている奴のものだ。
霞んで見えない視界と朦朧とした意識では、何が現実かわからない。これも幻聴なのかもしれんが。
反響する音を思うと、ここは閉鎖された空間なのだろうか。充満した甘い香りに、どこか黴臭さが混じっているように思う。ここの空間は湿気が溜まるような構造だということだろう。
近くで足音が途切れると、しばらく無音になったため俺の方から声を掛けた。
「やあ」
一拍おいて、目の前にいるだろう男から笑い声と共に返答が聞こえた。
「なかなかいいザマだな」
案の定。俺が想像していた男だった。
あぁそうか。確か、こいつと話をしていたのだったか。
すると、突然意識がなくなったのだ。
「囚われてる様がお前にはとてもよくお似合いだ。愛しのレイリー」
「馬鹿馬鹿しい手を使うようになったのね。見損なったわ、イグナシオ」
「よく言う。俺が手段を選んできたのは、お前だったからだ。
そして、手段を選ばなくさせたのも、お前自身だよ」
そう言うと、生身の上半身に鞭を振るわれた。
それは凶器のように肉体が裂けるよう特殊に改良された自白拷問用のものだ。
「さすが、卑猥な声で楽しませてくれない、か。優秀な13番は」
「……案外、不感症なもんでね」
「その無駄口がいつまで叩けるのか見ものだな」
逆側からまた打たれ、全身を痙攣するほどの痛みが走る。
意識ははっきりとしてきたが、焦点が定まらない。
恐らくこの匂いの所為か、それとも何か飲まされたかどちらかだろうが、このまま鞭を振るわれ続けると俺は間違いなく失血死だ。
体重と体が撓る反動で、手首の枷もギリギリと締まる。
苦痛を味わい続けて死ぬのか。
一思いに殺してくれると楽なんだが。と自ずと笑いが込み上げる。
「何がおかしい?」
「……秘密よ。あんたに教える義理なんてないわ」
「生意気だ」
永遠と続くこの繰り返しで、意識の糸を手放せば、俺は楽になれる。
何度も希望した、全てからの解放だ。
けれど、こうして死を掴みとってしまうと、多分ヤンギスタは『見損なった』と言うのだろう。
それに、まだリュカの護衛の報酬、例の施設及び関連事項についてはレヴィストロースに『約束を取り付けた』ところまでだ。
レヴィストロースも情で動くような男ではない。事もあろうに、リュカを放置して、己の事情で死ぬなど、単なる業務放棄と見なすだろうな。
口約束の状態ではなく、進捗の確認をしてからリュカの元に行けばよかった。
今更後悔しても仕方がないが、あと一歩のところまで来ていたのに……と奥歯を噛みしめた。
ルフランには、いい思い出がない。だから、ずっと避けていたのに。このタイミングでこの男に掴まってしまうなど、なかなかのバッドエンドだな。
「何故貴様は……」
イグナシオは何を言おうとしたのか、言葉に詰まる間に、鞭をもう一度振るわれた。
耐えかねる痛みに叫びが口をついて出そうになる。
声を抑え込むためにギュッと目を閉じた瞬間、イグナシオは髪の毛を掴み引っ張り上げた。
イーヴォの部屋で失態を犯した男が、組織の連中にされていたように。我ながら無様だろうな。
手は使えないため素直に見上げさせられた状態で、目の前にはイグナシオがいるのだろう。
俺は目を開けることはない。
「何故裏切った、俺を」
至近距離で聞こえる声に温度はなかった。
「裏切る?……よく言うわ。そもそも、あんた自身に、忠誠を誓った覚えはないんだけど?」
ギリギリと髪を締め上げるこの痛みをどこか遠くで感じているような気がする。もう、全身が痛いからだ。
そんな中でも饒舌に話すことが出来るのは、恐らく培った精神力のなせる技だろうと自分でも思う。
「どこまで俺を侮辱すれば済む?」
「侮辱?……待って頂戴。あんた、わかってないだろうから、もう一度言おうか?」
薄目を開けると、イグナシオも同じように年を重ねたのか、あの頃より大人になっている。
噂の男娼を興味本位で見に来た当時とは、目から放つ光が違う。
「あたしは、金で動いてんの。
情やなんかで動かされる、人間に出来てないの。
初めに、言ったわよね?『金にならないのなら断る』、って」
静かな表情のまま、イグナシオは淡々と返した。
「それは知っている。
血の盟約をお前は組織と交わし、お前の大好きなお金は間違いなく組織から支払われていたはずだ。
……貴様は、最低な男だよ。俺はお前があの時必死に生きようとした、その熱意を金で買った。
そして、お前を身請けし、組織に引き入れた。俺はそこでお前に対しての責任が発生する。
それなのに、最低限のルールを守らず、組織を裏切るなど……!」
……どういうことだ?言葉に変な違和感を感じた。
「……血の盟約は、正式に破棄、した」
俺の言葉に、イグナシオは怒りを抑えきれんというように髪の毛を掴む手が打ち震えた。
「今更!今更なんだ!!よくそんなことを言えるな!!
このウソつき野郎が!!」
どういうことだ。……ウソつきだと?
正式に破棄したことは、本当の事だ。
手が勢いよく放され、その瞬間に鞭が何度も体に牙を剥いた。
裂ける肉体が、どうなっているのかさえ、感覚で把握できない。全身が熱い。
肩で息をしながら、精神を集中する。痛みに全てを持って行かれそうになりながらも、頭で状況を整理しようと努めた。
「貴様の裏切りで、俺は責任を取って家を抜けた!だから今俺はオメルタの一員ではない!
家督には引き止められたが、血縁だから優遇されていると思われたくなかったからな!」
まさか、後に聞いた『家の分断』の引き金は、俺が作っていたというのか?
怒りに打ちひしがれる、この男の瞳は本物だ。
……俺が、裏切って、組織を抜けたことに、なっていると?
馬鹿な。
あれは……『イーヴォからの指令』だったはずだろう。
まさか、俺はそんな『ルール違反』はしない。誤解だ。
……あぁ、だからか。
全て今、繋がった……。だから、こいつは、俺をおびき寄せて、こうやって牢にぶち込んだのか。
知らんところで、恨みを買っていた。ということか。
全て、今更。
……確かにそうだな。
「この期に及んで、嘘を上塗りしようとするなど!
お前はもっと潔い奴だと勘違いしていた。
そうだ、お前には裏切られることばかりだ。
お前は金のためだと言いつつ、信念を持っていると思っていた。
だから、俺はリスクを背負ってでも、お前をあの商売から引き取った。
何でもすると言ったお前は、言葉通り本当に素晴らしい功績を遺してくれた。それには俺も鼻が高かったよ。
俺の目に間違いはなかったんだと。
お前は、間違いなく、将来、俺の特別な右腕になる存在だと確信をもっていた。
それなのに……!」
霞んで見えないが、イグナシオの声はどことなく震えていた気がする。
「……レヴィストロースの暗殺に失敗して、まさか組織を裏切り寝返るなどと……!!」
それは、事実に反する。
「……違う…」
「何が違う!!」
もう一度、髪が強引に掴まれ、伸びた首に冷たい刃の感触が当たる。
「口を開いてみろ。これ以上嘘がつけないように、殺してやろう」
最低だ。やはり、あの時、こいつには言っておくべきだった。
いつも、俺は一つの目標に向かって邁進する時、周りは何も見えていなかった。
かつての館の連中も、俺の事を恨んでいた。周りに媚びない優等生は排除したくなるものだ。
ソフィが言葉で教えてくれるまで、俺はそれに気づくことさえしなかった。
ゴミのような連中の戯言などと、俺が気に入らなければ実力で越えてくればいいのだと蔑んでいた。
ただ、イグナシオには、確実に伝わっているものだと思っていた……。
組織を離れたのは、『正式なイーヴォのはからい』で、レヴィストロースに使わされたのだと。
正確な事情を知るはずの……イーヴォ自身が何故、……こいつに嘘を教えたのか。
嘘を教える理由。
それは、俺との関係を『悪い形』で絶つためだろう。
イグナシオと連絡を取り合わないようにするためだ。
何故?
それは、恐らく、イーヴォに内通した者がいたからだろう。
『俺と、イグナシオが良からぬ関係である』と吹聴したか?
俺は、組織の中でも優等生だった。俺に恨みを持っている奴など山ほどいた。
その中の誰かが、いや複数がそういう噂を流したのなら、身請けした事実もある以上、それは真実味を帯びる。
俺とイグナシオの間には、体の関係など一度もない。
イグナシオが求めていたのは、信頼できる右腕だ。
体を重ねても得られることはない、仲間と言う名の、確固たる絆。
……それは、俺が、かつて賊に、金という魔物に奪われたものだ。
笑えねぇが、笑うしかない展開だな。
こんなことで最終足をすくわれるなどと。
全て、終わりだ。
この甘い香りが、倦怠感を増すように、痛みが引いてくる。
白濁化する意識が告げる。恐らく、本当に終わりが近づいているらしい。
首元の刃を引けば、一瞬でこの世から去ることが出来る。
その前に、一言だけ言っておこうか。
「……感謝、している……」
それが、最期の言葉だ。
「貴様、今更何を……!
許しを乞おうなど、最期まで……浅ましい男だな!!」
いいよ、最後までそう罵ってくれ。俺はそれの方がいい。
そうだ、これほど小気味よく、ヤンギスタも、ファリオも、俺に罵ってくれればよかったんだ。
『お前が、あの時、一緒に逃げようと言ってくれれば、みんなは助かったのに』
『お前の所為で俺は死んだのに』と。
……もう、言っても仕方がないか。
あぁ、そうだ、宿に置いて来た、アイツ、リュカには誰がなんて説明するのか。
俺を相当恨んでいるようだったが、不安げな顔で『行くな』と言っていたな。
お前の言うとおりにしていたら、こんなことになっていなかったのかもしれんな。
自分の主張だけを押し通して、人の言うことに耳を傾けようとしないと、また口うるさく言われるんだろう。
お前の直向きな姿は嫌いではなかった。
女と知った時は、相当驚かされたがな。
俺の若い時を見ているようで痛々しくもあり、……面白い子だった。
感覚は、次第に麻痺する。
その瞬間、遠くから大勢の悲鳴と、走ってくる足音が聞こえた気がしたが、俺は意識を手放した。




