第071話 幼い日の話 * 国境付近〈リュカ〉
リュカ目線。回顧録。
薄ら夜が明ける前。ヴィルと共にレイモンド村を出立した。
鬱蒼と茂ったこの獣道も変わりはないな。湿気を含んだ土の匂いに、いい思い出ではないが懐かしさを感じる。
ミネアのごたごたがあったため、この時初めて、レイモンド村に久しく里帰りした実感が湧いた。
今から向かうのは、結構な斜面を登り、切り立った崖の上にある高台だ。
そこは、あまり村に馴染めていない頃、よく一人で向かった場所である。
思い返すのも恥ずかしいような、実体のない過去の幻影を追いかけることしか出来なかった子供の頃のこと。
隣国が一番近くに見える場所を探して、へとへとになるほど歩いたあの頃が懐かしい。
見えるはずもないのだが、自分を置いていったロクシアが、隣国へ一人で向かおうとしているのなら見つけられるかもしれないと思っていた。
今考えると情けないが、あの日々がなければ、自分は強くなろうと思わなかっただろう。
村に賊が流入して撃退する前の、村で居ることが苦痛でしかなかった幼き日の話。
当時、流れ者の自分は村人にとっては、人間以下の存在で、はっきり言うと嫌悪の対象だった。
毎日毎日、石をぶつけられたり、農機具で追いかけられたり、そうまでして自分は何故この地にいる必要があるのか当然のように考えた。
ロクシアがいなくなった今、村にいなければならない理由など、もはやなかったのだ。
彼が帰ってくる保証もないのに、ただひたすら待ち続けることが苦痛でならない。それに、自分がレイモンド村に居ることでいいことは一つもなかった。
借家を与え、面倒を見てくれていたミネアやその家族にも迷惑をかけているようだったからだ。
ある日、ジョイに言われた言葉が、当時の自分の心を貫いた。
『全てお前の所為だ!』と。断罪したようなあの顔を忘れられなかった。
そんな中、自分自身、のうのうと生きてる訳にはいかなくなった。居場所など元々なかったのだ。
もうここに居ない方がいいと思い、ある日、村から逃げ出したのだ。
もう、ロクシアはいない。一人で生きていこうと。
でも、それは浅はかな考えだった。
まさか子供一人で野生で生きていけるはずもなかったのだ。
街以外での放浪生活が長かったため、獣を殺ろして捌くことは朝飯前だったが、野生での生活はこれほどきついものだったかと思い返した。
人間との生活に馴れてしまったからかと初めは思っていたが、そうではなかった。
ロクシアとの旅の途中こんな風に思ったことは一度もなかったのに、夜になれば周囲に気を配るために深く眠れない。
常に眠く、頭が重い。睡眠が取りたい。だが取れば食い殺されるかもしれない。
退路を確保するため木の幹に梯子用の枝を打ち付け、木の上で眠るも、夜行性の肉食野猿がいつ何時仕掛けてくるかわからない。
剣を抱いていても、獣の遠吠えや取り巻くすべての音が意識に入って眠りを阻害する。
森の全てが敵に感じた。
物音ひとつで過剰に反応し、殺されないように自分は精神を尖らせ続けていた。
そんな状況の中、ようやく彼の大きさに気付いたのだ。かつてロクシアも自分を守るためにそんな夜を過ごしていたのかと。
今更気づいても遅いのだ。もう、守ってくれた彼はどこにもいない。
周りは自分を付け狙う敵しかいない、誰の温もりもない一人きりの世界。
高くて深い闇の色の空にも、深い森にも、走りながら消え去っていくロクシアの幻影しか見えなかった。
最終的に村を飛び出して数週間後、精神的に限界に達していた頃、その高台に辿り着いた。
絶壁で、落ちれば間違いなく死ぬような場所だ。
だが、そこから身を乗り出すと奇跡のような見晴らしで、心が揺さぶられた。
辛い気持ちを洗い流すかのように、夕焼けが、ここから見下ろす下界を、世界の全てを、美しい茜色に染め上げていたのだ。
標高が高いのか、向こうの連なる山々に雲が霞んで見え、優雅に鳥たちが空を駆けどこかに帰る。
麓の新緑も赤色を纏い、隣国の国境を越えても等しく同じ色に染め、国を隔てる境界線は壁と言うよりただ区切っただけのようで、すぐに越えて行けそうに思えた。
美しい大地が、すり減った精神の欠けた部分を修復してくれるようで、熱い涙がこぼれた。
こんな綺麗な景色を、彼と二人で味わいたかった、そう思うと、
逆に自分は、この世にたった一人残されたのだと、この広大な大地が静かに告げたように感じた。
世界は無駄に広く、自分のためにはまわってくれないことを知った。
その時、とあることを思い出したのだ。
『お前に出来ることは何だ?考えろ』と。無理難題をロクシアから突き付けられた時の事だ。
最終的にどうしようもなくて、ロクシアの胸でわんわん泣き喚いた。
彼は、自分を優しく抱きしめてこう諭してくれたのだ。
『そうすることも方法の一つだな』と。
子供の自分が一番生きていきやすい方法。
強くなければ『人間の中で、誰かに頼って生きていくしかない』という結論に至った。
小さいながら、人間として、村人として、自分は生きていくしかないのだと。
もう、孤独は嫌だった。見えない敵しかいない状態には耐えられなかった。
自分は、泣きながら村に帰った。
情けなくて、後から後から涙が出たのを覚えている。
村に戻ってみたところで知っている他人と言えば、自分を受け入れてくれたミネアただ一人で、庇ってくれていたロクシアがいない現状には変わりなかった。
だが、安心して眠れる空間があることはこれ以上ない幸せに感じた。だからどんなに辛くても、ここを離れることは出来ない、村で生き抜こうと決意を固めた。
本当はそこからが大変だったのだが。
他人とどう接するべきか、それすらも分からないところからの始まりだったからだ。
定住したことのない自分は、まず人としての常識を知らなければならない。ロクシアがいてくれたからこそ、知らずに済んでいた大人の事情もあえて覚えるようにした。
人から言われる前に出来るだけことを吸収しようとし、惨めな思いをしようが、村人達にどんな罵声を吐かれようが、今は耐え抜こうと努めた。
力を得て自由に生きるために。
ロクシアみたいに強ければ、自分は自由に生きていける。
誰に頼らずとも、思い通りの生き方が出来る。
だから、強くなれと言ったのかはわからないが、いなくなったロクシアが帰ってきたとしても、自分が支えていけるように強くなれたらと。
そうだ、あの日から恐らく自分は我武者羅に生きるようになった。
高台はそういう意味で自分の大切な場所だった。
こんなことを思い出すなんてな。
あれから、少しでも自分は進歩しただろうか。
「リュカ」
「どうした?」
「いえ、なんか楽しくて」
「楽しい?」
ヴィルはキラキラの笑顔を向けて言った。
「護衛としてお願いしているリュカに対しては不謹慎かもしれませんが、私自身あまり外に出歩かないので、こうして名もない道を突き進むということ自体にワクワクしているんです」
「それはよかった」
風に舞う真っ直ぐの綺麗な黒髪がさらりとなびく。
美しい笑顔というのはこういう笑顔のことを言うのだろうか。
「護衛を引き受けてくれてありがとう」
「大したことではない」
「いえ」
彼は約束通り近づくことはない。
その距離を保ったままで自分の速度についてくる。無理は多少しているのかもしれないが、表情に出すまいとしているのだろう。
ただ、一言一言が艶やかに響く。
自分はただの護衛として付き従っているのではなく、出来るだけ彼の意に沿えるようにと考えていることも、彼はわかっているかのように思う。
「あなたとの旅は、一生忘れないと思います」
大袈裟な言い方だったが、嘘には聞こえないのだ。
そう言った彼は少しはにかんだ顔をした。
黒い服の男と別れたあの日、彼が見せた表情と似た、胸を掴むような儚げな微笑みだ。
自分は何も答えず、ただ口の端だけで笑みを返した。
自分も誰かを連れて、またこの道を進むとは思ってもみなかった。
もうあの日のように、孤独ではないということだけで今は十分だ。
ミネアもいなくなってしまって不安定な気持ちになるところに、ただ誰かがいてくれるだけでも、自分は救われているのかもしれない。
口に出すことはないが、逆に、ヴィルに感謝しなければいけないのかもな。




