第068話 この感情は * 国境付近〈ヴィクトル〉
ヴィクトル目線。
改まってお礼を述べた。
「遅くなりましたが、獣から助けて頂いた上に、怪我の治療や食事まで…本当に、言葉でどうお礼を言っていいのか…」
私は向き合うような体制で丁寧に頭を下げた。
「もしかして……いや、もしかしなくてもその際に、その美しい服を汚してしまったということですね。……誠に申し訳ありません」
恐らく間違いない。乾かしている服は大層上等なもので細かい手仕事がうかがえる。見たことがないが民俗的な余所行きの正装だろう。
着飾った女性に、剣を取らせたのか。私は言いようのない気持ちになった。
それに冷静に考えみると、どれほど腕に自信があろうと見ず知らずの者のために危険を顧みず何のメリットもないのに参戦するなど、普通の者では到底できることではない。
その上、意識を失った私を安全なところまで運び、食事を与えてくれたのだ。
王子ではない、野に打ち捨てられた一人の人間に対して。
だが、彼女は恩に着せる訳でもなく、何でもないことのように返してくる。
「問題ない。すぐに洗えば血は落ちる」
私は、彼女にはなれない。
彼女ほどの圧倒的な実力も、精神的な強さもないからだ。
大きな差を感じた瞬間、何故か胸のあたりが重く感じた。
「それよりも、お前はこんな夜中にこの山で何をしていたのだ。それほど腕もないのにこの辺りを一人で出歩くなど危険極まりない。
自分が通りかからなければ、お前は死んでいた」
全くその通りだ。私は目を伏せて返した。
「仰る通り。私は旅の途中で迷ってしまったのです。訳あって護衛と離れてしまって……」
自分への詮索を避けるために早口になった。本当のことを言えない後ろめたさはあったが、『商人である』という嘘をつくことはなかった。
真っ直ぐな瞳を向けて見つめる彼女には、どうしても嘘だけは言いたくなかったからだ。
「で、あなたは、このあたりに住んでおられるのですか?」
「今は住んでいない。ちょうど、用があって、里帰りしていた」
「では、本当に偶然ということですね」
軽く言ったつもりだったが顔をあげると、彼女はまた力なく笑った。
「そうだな、偶然だ。当分帰る予定などなかったのだがな」
さっきから、度々見せる、儚く、胸が押しつぶされそうなほど切ない微笑みだった。
考えるより先に、何かに突き動かされるように立ち上がって彼女の凭れかかる横に座り、
「…おい…」
一瞬彼女は体を硬くしたように思ったが、強引に体を引き寄せて抱きしめていた。
胸の中で彼女は少し抵抗してみせたが、まわした手で、巻かれた葉っぱの治療が取れないように加減しながら彼女の頭を撫でると大人しく体重を預けてくれた。
人はこれほど温かかったのか。いや、彼女だからか。
私が私じゃないように、強引に彼女を抱きしめた。
色々な感情の中で、恐らく彼女にもこの心臓の音が聞こえているだろう。
抱きしめると更に愛おしくなる。
「……嫌でなければ、抗わないで、しばらくこうしていてほしい…」
「………。」
「あなたの元気のない顔を見ると……切なくなったんです…。すると、突然、こうしたいと体が勝手に……」
くぐもった声で彼女は返した。
「嫌ではない……。色々と、考えて、疲れているから、なのか。
何も知らないお前が、居てくれて…今は、よかったのかもしれない……」
彼女に何かあったのだろうか。
綺麗な正装で夜中、こんな山の中出歩くなどやはり事情があったのだろう。
里帰りと言っていたな。
どれほどの時間そうしていただろう。気付くと彼女は私の腕の中で眠ってしまったのだ。
心地よさそうな寝息が聞こえて、どうしようと考えたが、私はそのまま木にもたれて彼女の柔らかい髪を撫でた。
ひどく疲れていたのか。起きる気配が全くない。
そんな状態で、彼女は、私を助け世話を焼いてくれていたのか。
柔らかな肌、密着する熱にドキドキする胸を抑えるのが必死だったが、しばらくすると穏やかで満足な気分になった。
こんな感情は初めてだ。今まで感じたこともない感情だ。
風が渡る。
木々が葉を擦り囁く。
馬も寝たのだろう。
とても静かな夜だ。
私と、胸に抱く勇敢だが無防備で優しい女性。
この瞬間のために、私は城を抜け出したのかもしれないとさえ思えた。
彼女を知りたい。
そう思った時、一つの言葉を思い出した。
『あなたにもきっとわかる日が来るはずです。強く祈りたくなるような思い。全ての感覚が教えてくれるはずです』
かつてフィリア様が、咲き誇るどの花よりも美しい笑顔で私に告げた言葉。
『愛しているということを』
愛している。
あぁ、そうか、この感情かもしれない。
私は、こんな辺境の地で見つけてしまった。
時間が惜しくて眠ることなどできない。
彼女と少しでも長く、一緒に居たい。
そのためには、私は、私のままではだめだと、瞬時に悟った。
目を開けない姫の頬に、気付かれないようにそっと口づけをした。
生きる目的が、今、繋がったように思った。




