第063話 できるだけ遠くへ * 国境へ〈ヴィクトル〉
ヴィクトル目線。
遠くの方から蹄の音が段々近づいて聞こえる。
レヴィストロースが身を固くした瞬間、反射的に私は馬に乗り、木の陰に隠れ様子をみることにした。
段々近づいてくるその気配が、何者かわからない。
心拍数が上がる。
そして、少し離れた場所に立つレヴィストロースの声が聞こえた。
「おぉ。久しいな」
「こんなところでどうされたのですか?レヴィストロース様。まさか、おひとりですか?」
馬の足音からすると一人ではないようだ。
「あぁ、自然を旅するのも隠居生活の醍醐味だろう。
それほど人を連れてどうした?」
「……探し物が、ございまして一帯を捜索しているんですよ…」
「探し物?何だ?一緒に探そうか?」
「いえ、レヴィストロース様にそんな…」
探し物。まさか、私の事ではないのか。
おおっぴらに出来る内容ではない探し物といえば、自分である可能性も高い。
こんなところまで追ってを差し向けるなど、かなりの包囲網だな。
久しく人に会っていなかったが、逆によかったのかもしれない。
……いや、もしかすると、たまにどこかに消えたレヴィストロースは、周辺の気配を察してそれに対応していてくれていたのか?
『あなたに命じられた通り、護衛の任務はこなしています』
そういやあの時、彼はそう言っていたな。
確かにそうでもしないと、誰ともすれ違わないというのは少々不自然だ。
度々順路をかえていたのはこれが理由だったのかもしれないと、今更ながら彼の貢献に感謝した。
鼓動が馬に伝わったのか、突然暴れだしそうになったので、私は声を殺しながら落ち着かせたが、レヴィストロースは気配を察したのか強引に話を繋いだようだった。
「おお、ここは大きな野獣が出るそうだ。
それに、先ほど野生の馬に会ってな。大層、珍しい山だな」
「へぇ、そうですか……今も蹄の音が」
「君らも気を付けて捜索せんとな」
「…あ、有難うございます…」
いつまでこの状態で居れるのか。
馬もこの緊張した状況では落ち着けないのだろう。度々体を撫でたが興奮気味な様子には変わりない。
それに、行方をくらました王子の私がここに居ることがバレた時、レヴィストロースはおそらく誘拐犯と見なされ危険な状況となる。
最悪、処刑だ。
「ところで、捜索されているというのは何だ。私に言えない事情でもあるのか?」
「え、あ、その…」
生唾を飲んだ。
レヴィストロースが注意を逸らそうとしてくれているのが伝わる。
手綱を持つ手が一瞬震えたが、力でねじ伏せた。
『生き抜くための手段だ』
あの時、そう言って、真っ直ぐに向けてくれた精悍な顔立ちが過った。
初めて、英雄ではないレヴィストロースという一人の男が、私の前に存在した瞬間だった。
処刑になど、させる訳にはいかない。
彼が生き続けるために、そして自分が籠の中の鳥としてではなく、人間として生き残るための手段は、たった一つしかない。
それは、今か。
そう思った瞬間、私はこの場を離れようと馬の腹を蹴って駆けだしていた。
レヴィストロースが今こちらを意識したのがわかったが、私は、もう野生の馬だ。
人に狩られる前に逃げなければならない。
ここを一人で離れることの不安など考える余地がなかった。
どちらかというと蹄の音にばれていないか、追手が来ないか心配で、少しでも遠く、彼に危険のないように私を運んでくれと、その一心で手綱を引いた。
足場の悪い上り坂で、落ちそうな崖に目を奪われずに前を向いた。
できるだけ、遠くへ。
暫く駆けた後、森の中の反響する獣の声に我に返り、自分一人しかいないことを悟ったが、あの瞬間彼と離れたことに後悔はなかった。
逆に、あの時の自分自身の判断には拍手を送りたい気持ちだった。
想像してみてもわかる。
誰が私の言い訳を聞くだろうか。
彼と私が一緒に居てどんな言い訳を使ったとしても、恐らく、レヴィストロースが私を誘拐した罪で処刑されるはずだ。
レヴィストロースを消し去るいい口実にでもなろう。真実など不要なのだ。政治的に利用できることは使わない手などないといったように。
私の発言など、命令と捉える者など、宮殿には一人もいない。
私の現状は、あの鳥籠から、ただ逃げただけ。
孤独な状態は何も変わってはいないのだ。
それならば、考え方を少し変えてみた。
もし、ここで野たれ死ぬことになったとしても、自分の所為で大切な人を見殺しにしなくて済んだのだ。
この判断は、誰が評価してくれなくても、私が評価する。
……レヴィストロースの本音、私に対する気持ちは、正直今もわからない。
本当は、私の事が嫌いなのかもしれない。
けれど、そんなことはどうでもいい。
自分が蒔いた種で、大切な人を死に追いやるなど、あってはならないことなのだ。
それに、私はレヴィストロースに生かされて、今現にここに立っているのだ。
彼がどう思おうがいい。それだけは事実。
そう思うと、何故か全てから解き放たれた気分になった。
足場の悪い道をどれだけ駆け上がっただろう。
馬も疲れた様子だったため降りてゆっくりと引いた。
ここで倒れる訳にはいかない。頑張ってくれ。そう馬に言い聞かせた。
暫く行くと、広く開いた空間に出て、見渡すと木々が茂って暗くはあるが、私は目を疑った。
「素晴らしい…」思わず感嘆の声が出た。
世界にはこういう場所があるのか。
木漏れ日が各所から差し込み、そこにぽっかりと開いた湖をキラキラと光を反射させている。
湖に近づくと、小魚が泳いでおり、底まで見通せる透明度だ。
脇に立つ木の根が湖底深くまで張り、そこにゆらゆらと揺れる緑の藻が茂っており、優雅にその隙を行ったり来たりする魚を見ると心が落ち着いてきた。
なんて美しい光景なんだ。これは色々なことへのご褒美なのか。勘違いしそうなくらい絶妙なタイミングだ。
それに、久しぶりの水。
私は興奮していた。とりあえず口に含むと何とも言えない感情が湧き上がる。
器から飲むあれと同じものとは思えない。レヴィストロースと離れたのに、こんなこと一つで満たされるのか。
馬も必死にその水を飲んでいた。よかったなと背を撫でると、返事をするように鳴いた。
私は、裸になって居住区の女がやっていたように服を洗い、そのあたりの木々に干して久しぶりの水浴びをした。
所々の傷口が痛いが、気持ちいい。この旅で初めてこんな気持ちになったかもしれない。
素足で湖の中に立って思った。
少しだけ注ぐ程度なのに、太陽はこれほど気持ちがいいものかと。
体を巡る力が、循環するのがわかる。
生きている。まだ、私は生きている。
幻想的な風景を前に、手を胸の前で組んで祈った。
「フィリア様、私は頑張って生きます。
だから、レヴィストロースが無事に帰還できることを……」
もう私に守護はいらない。
フィリア様。
レヴィストロースを護ってあげてください。
ざわざわと木々が風に揺られ葉が擦り合う音が、美しい彼女の返答とさえ思えた。
それが、前触れとでもいうのか、その後、代わりに訪れる運命的な出会いを、この時の私はまだ知らない。




