第062話 だれかぼくをたすけて * 国境へ〈ヴィクトル〉
ヴィクトル目線。
………!
………………!!
大声で泣く声がする。
半狂乱な奇声を上げるが、この若い女の声を知っている。
だが、何を言っているのかは、いつも聞き取れない。
感覚だけが目覚めたように、(またいつものように繰り返されるのか)と、耳をふさぐことも出来ない中、この時が終わるのをじっと待つしかすべがない。
ただひたすら浴びせられる叫びに似た彼女の張り裂けん思いは、正確に私に伝わることはない。
私から声を掛けることもできないのがいつものルールだからだ。
これは一方的なやり取りだ。
薄い膜を隔てて立つ私は苦しい感情に飲まれながら、彼女へ伝わることのない感情を自分の頭の中だけでひたすら繰り返す。
『もう、やめてほしい。
私は、泣かないから
あなたの前には現れないから。
もう、泣かないで………』
何故このように思うのか。
私自身も実はわかっていない。
苦しくて、つらくて、全身がだるい。
彼女の叫びは、私の精神を浸食していく。
それを打ち消すように、自分の声で上書きし、祈るように、頭の中で念じ続ける。
『やめて、もう泣かないから。
もう、ここから居なくなるから』
すると、段々と声は聞こえなくなる。
いつもなら、ここで終わるはず。
……それなのに。
今日は、はっきりとただただ残酷に、耳元で呟かれた。
『あなたは、丈夫な鎖で繋がれた家畜』
!
心臓がはねた。
いつ現れたのか。
亡霊のように美しい男が私のすぐ隣に立っていた。
あの青白い顔の絵師クリューエが人形のような様相をしている。
人間かどうか違和感を感じていた不気味な男が、今、自分の隣に立っているのだ。
咄嗟に逃げようとしたが、その一歩がどうしても出ない。
まるで変な術で拘束されたかのように、深い沼に囚われる感覚で、手足が急に重く感じた。
本当に彼が言った通り、家畜同然にされてしまうのか。
いや、もしかして既に自分の手足は、もぎ取られているのかもしれない。
反抗しようにも全く体が動かないからだ。
自由がきかないと、焦りが感情を支配した時、隣に寄り添うように立つクリューエの白目がギラリと光った。
背筋が凍りついたように寒くなった。
その時悟った。
私はこの男に、殺されるかもしれないと。
斜め下に視線をずらすと、彼の後ろ手にしっかり握られているそれが見えてしまった。
大きな斧だった。
力をかけずとも重力だけで頭くらいは簡単に落とせそうな代物だ。
彼の顔は無表情。
何故、私を殺す?
全身が冷や水を浴びせられたように寒くなった。
全く表情は変わらない彼は、からくり人形のようにこちらをゆっくり向き合うと、空いた片方の手で私の肩を指がめりこむようなくらいの力でガッチリ捕まえた。
あぁ!
全く手足は動かない。
殺される……。
グッと指先に力がこもり目と目がしばらく合うと、躊躇いもなく大きな斧を真上に振り仰いだのだ。
無機質な刃先は私の頭上にある。
どうして。
殺されると言うのに、声すら出ない。
彼がそうする理由も意図も、私には全くわからない。
数秒後起こるであろう事態に、一刻の間に私の頭にわっと疑問符が渦巻いた。
何故私は殺されなければならないのか。
私が何をしたのか。
何が悪かったのか。
恐怖に混じるのは、怒りではない。疑問しかない。
ただ、目をきつく瞑った。
その瞬間また、女の悲鳴が警告音のように頭の中に反響し始めた。
………!
………………!!
すると、疑問符はたちどころに消えて、
純粋な要求に変わり、強く願うほど息が出来なくなる。
やめてくれ。もう、やめて。
私は、死にたくない。
死にたくない。
殺さないで。
ころさないで。
「……じ……」
『だれか、
ぼくをたすけて!』
「……ヴィク…じ…!」
別の世界から男の声がして、すぐさま覚醒した。
「ヴィクトル、王子……」
目の前には、レヴィストロースの顔があった。焦ったように私の両肩を掴んでいる。
再度揺らされて、現実に戻ってこれたことを知った。
夢、か。……助かった。……いつもの、夢か。
「……レヴィストロース…、おはよう」
大袈裟な程の深い溜息をついて私を離し、彼は離れて薪の始末をした。
「……ヴィルさん、あまり年寄を脅かさないでください。本当にどうにかなってしまわれたのかと思いましたよ」
年寄と言うような年でもないだろうが、あの感情を押し殺すレヴィストロースが、相当驚いた形相をしていた。
とりあえず、「すみません…」と返答をしておいた。
最近見なくなったが、悪夢ではっきりとした寝言を言うことがあるらしい。
忘れよう。というかいつもあまり内容は覚えていないのだが、この夢を見る時は決まってよくないことが起こることだけは覚えている。
用心するに越したことはないな。
起き上がると、そこここがだるくて重い。これが悪夢を見た原因かもしれない。
誰が、肉体疲労なんかはすぐに回復すると言ったのだ。これほど体力を使うことなど今までなかったからか。
ちらりと隣を見る。中年と言える年なのに、ガッチリとして鍛え抜かれた体。同じ男だというのに体の作りがまるで違うことには少なからず嫉妬を覚える。
私以上によく動くし、本当に人間なのかと思えてくる。もしかしなくても、肉体年齢は負けているのではなかろうか。
それに、何食わぬ顔で獣を捕まえ、面倒だからと生で齧るときもあるのだ。一体どういう神経をしているのか。
確かに先日彼が言っていた『生きるための手段として食べれる栄養を取る』ということは、最も、頭ではわかる。
私もあれから色々と努力して、獣の皮を剥ぐことは出来るようになったが、虫を食べることはどうしても出来ない。
人にはやっぱり、向き不向きがあるのだ。
……食べ物だけでもしっかり食べることが出来たなら、体力も回復するのだろうが。
悪夢で睡眠も削られ、野獣に備えて『起こされたらすぐに走る』という訓練も度々させられ…。
引き続き過酷な状況には変わりはないが、精神的に先日の状況よりは幾分かましだ。
レヴィストロースを見ると、弱音など吐くことは出来ない。
自分で頬を二度ほど叩いて、弱くなる気持ちに気合を入れる。
理由もないのに、一緒に居てくれるレヴィストロースに申し訳が立たないから。
「立てますか?ヴィルさん」
手を貸すことはないが、そう声を掛けてくれるレヴィストロースはあの時よりも優しく感じる。
「大丈夫です」
多分、心の持ちようなのだろう。
周辺の痕跡を消すために事前にかき集めておいた草などで薪の跡を覆った。
もう野宿は手慣れたものだ。
あれから、釣りが意外に自分に向いていることを知り、野鳥も半分くらいの確立で弓で仕留めることも出来るようになった。
それもこれも恐らく先生のお蔭か。
顔を見ると、レヴィストロースは久しぶりに穏やかな顔つきをしていた。
「ヴィルさん。喜びなさい。恐らく今日の夕方頃には、あなたが目指していた国境付近に着きますよ」
「本当ですか!」
「ただ、ここは山岳地帯なので平坦な道ではなくなります。後はひたすら上り坂を覚悟して頂くだけでよろしいかと」
「は、はい……」
思わずため息が出た。最後にして最大の山場ということだな。
……気合を入れて進む必要がありそうだ。
馬に最低限の生活品が入ったカバンを括り付けて、一緒にずっと駆けてくれた馬に礼を言うために鼻頭を掻いてあげると、嬉しそうにしっぽを揺らした。
「ところで、ヴィルさん、いえ、王子」
「え、あ、はい!」
改まって何だろうと思いつつ、レヴィストロースは神妙な顔で訊ねてきた。
「今更ですが、何故、行先をこちらにしたのです?」
確かに疑問に思うに違いない。
矢じりを筒に入れ短剣を腰に差しながら答えた。
「それは、誰かがそのように言っていたのを聞いたからです。
ただ立ち聞きのようなもので…断続的な言葉しか聞こえなかったのですが」
「お伺いしてよろしいですか?それはどのような」
「…わかりません、ただ、戦争は山から起こると」
レヴィストロースは頭を抱えたままで、渋い顔をした。
何かよくないことを言ったのだろうか。
考え込むような状態で、しばらくお互い無言で馬を引いてすすんだ。
「一度、確認しておきたいところがあるのですが、私の用事について来てくださいますか?」
「はい、喜んで」
レヴィストロースからお願いされることなどなかったため、少し嬉しくなった。
「ただあなたがバレると厄介です。……なので」
そう言った瞬間、レヴィストロースの顔が険しくなった。
どうしたのかと口を開こうとしたとき、彼は人差し指を立てて手短に『黙れ』と無言で口を動かした。
……人だ、人が来る。




