第061話 生きて帰る * 国境へ〈ヴィクトル〉
ヴィクトル目線。
『第055話 商人ヴィル』の続きです。結構長いです。
私が想像していた旅とは、全く違うものだった。
旅だけではない。彼、『レヴィストロース』という人物についても、だ。
どれほど駆けたかわからない。いくつかの町を通り越してから、ひたすら長い畦や舗装されていない砂利などを走り抜けた。
昼夜問わず駆けて、腰が抜けそうで、内股は擦れて腫れた肌に血がにじんでいる。
手綱を握る手も豆が何度か潰れて、その汁で握った手と綱がくっつきそうになっていた。
手当といえば傷口を舐めるだけ。この年になって血がこんな変な味なのだと初めて知った。
私は自分の事を『商人』と言ったが、前を駆けるレヴィストロースは本当に『商人の護衛』として付き添っている感覚で、手など貸してくれたことは一度もなかった。
少しくらい私を気遣う素振りを期待していたが、思っていた以上に彼は冷酷で、本当に私に対して恨みでもあるのではないかと思う節もあった。
二人旅が始まる前に『食料の調達までは面倒見れない』とはっきりと宣言され、王都で調達した簡易的な食料は思ったより早く底をつき、手渡されたのは短剣と弓。
『まさかこれで獣を調達して食べろと言うことか』と目を丸くしたところ、彼は紳士的な笑みを浮かべ『当然でしょう?それ以上のことを求められるのであれば一緒には同行できません。私はあくまで護衛ですから』と簡単に突き放した。
『同行をお願いしたわけではない』と言おうとしたが、『とある彼の忠告』が頭をよぎると軽々しく反発もできなかった。
旅に際して、私は色々と安易に考えすぎていたらしい。
王子とバレないよう足がつく行為を避けて、国境に近づくのは至難の業と聞かされたのだ。
極端に言うと、王都から脱出できればその後はなんとかなるかと思っていた節もあったのだが、どうやら国境へ近づけば近づくほど治安は著しく悪くなるらしい。
レヴィストロースと合流した酒で有名な街と王都は比較的近い距離にあり、治安も保たれているため危険が及ぶこともなかったのだが、基本は護衛をつけなければ十中八九身ぐるみをはがされた挙句、殺されるのが常で、野に打ち捨てられた死体の処理が出来ていない地域も多いそうだ。
まさか、街の外がそんな恐ろしいことになっていることすら私は知らなかった。
『村や街に定住出来ない者』
そういう存在がいることすら知らなかったのだが、彼らが生きていく方法は犯罪しかないのだ。
その者達が徒党を組んで賊となり、勝手の知らない商人や旅人を襲い生計を立てる。
国境へ行きたくば、国家が保証する護衛付きの馬車を雇うしかないが、相当な金を積む必要があり、更には身分や要件を明らかにする必要があるらしい。
大勢の猛者を連れずに自力で旅行するなどはまさに自殺行為であり、そういった者は賊か野獣の餌食となり殆どは帰ってこないらしい。
ただ、この状況と何が変わるのだろう、とふと頭をよぎることがある。
今の状況は、生まれてきてこれまで受けたことがない、明らかな『拷問』と言っていい。
レヴィストロースの初めの印象は、『こんな人間だったとは…』という、意外な一面への単なる驚きでしかなかった。
それから、何日間か一緒に過ごして、子供の頃の私にとって『逞しいヒーロー』だった彼は、実はとてつもなく冷酷で性格が悪いことを知った。
私の中の、大切な思い出。あの頃の印象をいとも簡単に破壊した。本当に、信じられない程の嫌味な男だ。
昔の面影を死守するため彼に同行を許可するべきではなかったと、何度後悔したかわからない。
何の経験もない、当たり前を知らない私に対して、ひどく冷たかった。
彼自身は獣を仕留めて手際よく捌き、美味しそうな匂いを漂わせて肉を頬張っているのに、私と言えば運よくとれた木の実程度。
獣など…王侯貴族の嗜みとして獣狩りには連れて行かれたが、私はそれが大嫌いだったため腕もあまりよくなかった。
遊戯として小さな動物を殺め、大量に狩れたことを自慢するなど理解不能であったが、今となっては生きていくのに必要な技術だったと悟った。
まさかこんな旅に出るなど想像もしなかったし、もっともその技術は与えられるだけの貴族連中などには全く必要ないのだが。
そして、本当に何も取れない時は塩粒だけを舌に乗せ、筒にためた雨水で流し込んだ。
本に書いていた非常時の方法を真似てみたが、実際は、食べた感覚がなく、何も満たされなかった。
疲労が増した上にこれはきつかった。駆ける目的を見失いそうになるほど、空腹だけに意識が集中してしまう。
呪われたように、食べたい、食べたい……ただそれだけの時間が過ぎるのだ。
最終的に、私は眩暈を起こして落馬してしまったのだ。
運が悪ければ死んでいたのかもしれない。
気付けば、放置されたように寝かされ、二匹の馬は木の枝に括り付けられた状態で、レヴィストロースは歩いて単独行動しているようで周りには誰もいなかった。
空は、林の中にぽっかり浮かんで、何気ない顔で私を見下ろしていた。
周りに誰もいないという状況など今までかつてあっただろうか。
獣と鳥と虫の音しか聞こえない中で、落馬の痛みと空腹と、疲労が襲い、それ以上にどうしようもない嘆きのような悲しみが込み上げてきた。
一体私は何のために宮殿を飛び出したのだ。この過酷な状況に理由が何であったかさえ忘れてしまいそうだった。
下手したら本当に死んでしまうことになることなど、一度も考えていなかった。
最終的には、誰かが王子である自分を、助けてくれると考えていたのかもしれないが、あの宮殿を出た瞬間自分は初めて個人になったのだ。
何の肩書も持たない。ただの若造になった。
宮殿内で落馬などを起こした場合、打撲だけでも数週間寝台から起き上がれず侍女数名に付きっ切りで看病されていたことだろう。
これは打撲だけで済んでいるのか?どこかの骨を折っているかのように体を少し動かす程でも痛い。
それなのに長い間経ってからどこかからともなく帰ってきたレヴィストロースは、普段と変わりない冷めたような表情で特に私を意識する様子も見せない。
色々な条件が伴って、私の中では段々と疑念が湧き上がり渦巻いてくる。
本当に、私は彼に殺されてしまうのではないか、と。
そう思う理由は十二分にあるのだ。
私が知らないだけで、公爵と王が彼を排除しようとしている理由は、彼が私を恨んでいてそれを知っていたからなのかもしれないとか、
あの辺鄙な街で出会ったのも偶然ではなく、私と二人きりになり、殺害するタイミングを見計らうといった仕組まれた計画だったのかもしれないとか、
会話らしい会話もない中で、妄想が妄想をよび、消化できない程の感情にまで育っていった。
最終的には、『食事は塩のみ』が数回続いたある時、彼はようやく「差し入れをあげましょう」と申し出てくれた。
その言葉には本当に期待したのに、突き出してきたのは何かの虫の幼虫一匹だけだった。
その瞬間、自分に歯止めがきかなかった。
今までにない境遇を、私なりにずっと耐え忍んできたつもりでいた。
空腹と疲労が重なり、おかしな妄想で正直、殺意さえ湧いていたのだ。
声を張れる気力などどこにもない。
うごめく大きな幼虫を見つめながら言った。
「……レヴィストロース、貴様、私を殺すつもりか…」
すると彼は半笑いの顔でこう告げた。
「虫で死ぬわけがないでしょう」
「違う」
虫を乗せた手を今ある精一杯の力でなぎ払い、座ったまま頭を抱えた。
「…はぁ…はぁ…、貴様まで私を殺すつもりなのだな…。もう、いい、もう十分だ…」
感情が高ぶってきて、俯くとぽろぽろと涙がこぼれた。
こんな顔をレヴィストロースなんかに見せたくない。
必死に耐えようとしたが、口元が歪むだけで涙が止まることはなかった。
「…お前を信じたのが、間違いだった…。もう…疲れた…」
「そうですか」
レヴィストロースが立ち上がった音がした。
「あなたに命じられた通り、護衛の任務はこなしています。
それに、信じてくれと言った覚えもなく、筋違いにも泣かれ、挙句裏切られた風に言われるのは大変心外です。
私は雇われている身。別に、あなたにどう思われても結構ですが?」
「…貴様…」
何て情のない、氷で出来たような男なのだと、煮えたぎる思いで足元の土を掻き握りしめた。
色々な彼との思い出が頭をよぎり、全てあれは嘘だったのかと裏切りに対する憤りを感じた。
さらに胸の穴を更にこじ開けるかのように、レヴィストロースははっきりと私を評価し、斬って捨てた。
「王子はやはりプライドが高く自己中心的で、世間知らずであられる。
そして、こんな程度で涙を流されるなど、全くもってか弱いお方だ。
ならば、今すぐ王都付近までご要望通り送って差し上げよう」
ひどく冷たい言葉を吐いた後、俯く目の前に手が差し伸べられた。
このゴツゴツした手が好きだった時期もあった。
その彼が私に、プライドが高く、自己中心的で、世間知らずだと言う。
昔の温かい感情が穢された。
……あの広い宮殿内で、唯一の味方だと思っていたのに……。
「…いつ、傲慢な態度を私が、取ったのだ…、貴様には、何も要求はしていないはずだ。
休憩を取るタイミングも、食事を取るタイミングも、全て貴様の言った通りこなしていただろう…。
不平も、言ったか?……一度も、言っていないはずだ……。
それなのに……!
世間知らずというのは、貴様から言われるまでもない。本当に…知らないのだ…何も…。
公爵にも『籠の中の鳥』と評された。…だから、私は、あの宮殿から出ようと決心したのだ…。
それから私なりに、公務の合間を縫って、規則を破ってでも、色々と社会について調べた。
城から王都へ抜けるのも、汚物に塗れた下水を通って自力で出たのだ…。
あれは、あれだけは、自分の力だけで、成し遂げたんだ…」
私は思っていたことを全部吐き出す勢いで続けた。
泥まみれの切れてそこらじゅうから血がにじむ手で、抑えきれない気持ちをぶつけるように土を握りしめた。
涙はとめどなく流れ続けた。
「…レヴィストロース!孤独な中で、私はお前だけが支えだったのだ…。
無理に王から左遷されたお前を、軍部会議に召集したのは、…私も浅はかな判断だったと、いつか、謝罪しようと思っていた…。
…私の孤独を埋めるためだけなのに。……お前は、つらい目をして参加してくれていたな…。
愚かな限りだ…。申し訳なかった……。
だが、あの宮殿に味方が一人もいない気持ちが、お前にはわからないだろう?
…私が、世間をしらないことと、一緒じゃないのか…。誰も、私の辛さなどは、理解してくれないのだ……。
ちっぽけだと笑えばいい……。殺したければ殺してくれ…、いっそ今お前に殺された方がましに思える…。
それほど、今は、お前のそんな態度が、とてもつらい……」
嗚咽で、もうそれ以上話すことが出来なくなった。
話ししただけで、これほど体力が消耗すると思っていなかった。
殺される前に、死んでしまいそうに、体が重い。
一通り、聞いたレヴィストロースは、かすれた声で言った。
「ヴィクトルよ」
初めて名前だけで呼ばれたことに驚いて、乱れた顔を気にすることも忘れ顔をあげてレヴィストロースを見上げた。
彼は、精悍な顔つきで向きあい、先ほど私が手を払い、地面に転がした幼虫をもう一度屈んで掴みあげた。
驚くことに、レヴィストロースはそのうごめく幼虫の頭を噛みちぎり、悍ましくもその物の緩いであろう体液を啜り飲み込んだのだ。
残酷すぎるその光景に呆気にとられ、私は目を見開いたまま動けなかった。
残った薄皮を捨て口を拭う彼の表情に、嫌悪感など一切ないことに、本当に人間なのかを疑った。
「戦闘中は、これが貴重な食料源。成長するための養分を蓄えた、素晴らしい自然の恩恵だ」
敬語を話さず、淡々とつぶやく。
虫の幼虫を、食すなど…、常軌を逸している。
衝撃的な出来事にゴクリと唾をのみこみ、一瞬思考が停止した。
「生き抜くための手段だ」
生き抜くため?
その言葉をもう一度反芻した。
出兵時に十分な食料を用意できない事態があった時、今と同じ状況になる。
生きて帰るには、戦いに勝利せねばならない。
そして、戦うほどの力を保有するためには、なんとしてでも食いつなぐ必要がある。
これは、彼の知っている処世術。
単なる意地悪ではなかった、ということなのか。
生きていくための、術だったということか。
混乱はしているが、子供のように考えが独りよがりすぎなかったかと振り返るほど、徐々に恥ずかしくなってくる。
そんな感情がうまれた頃、責めるわけではない、彼の瞳は今までと変わらないことにも気づきだした。
冷酷だと感じていたその表情は、無表情であるいつものまま。
必要以上話そうとしないのは、昔から変わらない。子供嫌いな彼のままだったのだと今更ながらに気づいた。
「お前の辛さなど、俺にはわからん。そして、逆に言うと、世間の辛さもお前は知らんだろ?
想像つかないだろうが、塩があるだけ十分という環境だってよくある話しだ。
空腹がどれほど辛いことかは理解したか?最終は、餓死と言って、骨と皮だけの状態になって死を迎えるのだ。
状況によれば、人間同士食い合うこともある。それも生きるための手段の一つ。そういう現実は知らんだろう?
何を言っても、お前は恵まれている。生きようと努力しなくても、生かされる存在であるからだ。
人間に生れ落ち、この身に宿る魂がこの器から出たいと悲鳴を上げ、それでもなお苦痛の中生かされる辛さや、
何故人間に生れ落ちてしまったのかと嘆き、自殺する体力もなく誰かに一思いに殺してほしいと思うほどの肉体の苦痛を味わったことはないだろう?」
衝撃的な内容に言葉を失ったが、それは彼の見てきた現実なのだろう。
目の前の男は、知っているのに遠く感じる。
何故、今、自分の目から涙が出るのかわからない。
彼は残酷な内容を語るのに、穏やかな顔つきをしている。
「世間を知るとか言いながら、その優しい檻の中から単なる興味だけで出てきたのだとしても、今からしっぽを巻いて帰れば、お前は一生色々な現実を知らずに生きていくことができる」
あぁ。わかった。私は辛いのだ。
どこか諦めたようなレヴィストロースの顔が、想像できない彼の不遇時代を物語るようで辛いのだ。
「けど、俺は、いいと思うぜ。幸せじゃねぇか。生ぬるいところに居れば。誰も咎めねぇよ。
この世の中、全て折り合いがついて皆が皆、分かり合えるなんてことはない。時間がたっても同じことだよ。
そんな世界はあるわけがない、全くの幻想だ」
涙を拭いても、チクチクと胸は痛みつづける。
それは、全く英雄に見えない、等身大のレヴィストロースだった。
始めから英雄など、どこにもいなかったのだ。彼がレヴィストロースなのだ。
英雄は世間が作り上げた幻想だった。
今胸が痛いのは、多分、今頃、そんなことに気が付いたから。
彼に寄り添うことが出来なかったのは、私が彼自身を見つめていなかったからだ。
そして、彼が突き放したように『分かり合えるなんてことはない』と言いつつ、私がその事実を肯定した時、彼と自分との間には深い溝が生まれるのだろうと察した。
いや、もう初めから溝はあったのだ。越えるか越えないかは、私次第だったのだ。
「さぁ、帰りましょう。お送りしますよ、王子」
突き放されたような、敬語。
全ての謎に包むような、ようやく見つけた彼が、どこかに逃げて行ってしまうような気持ちにさせる。
あれほど、冷酷な彼に腹を立てたのに、殺したい程の気持ちに苛まれていたのに、
私は彼に嫌われることが、つらくなってきたのだ。
勝手なものだ。
はっきりと、今、『理解したい』と心から思えた。
世間を知らなければならない理由は、もう漠然とした何かではなかった。
ここで引き返せば、薄い自分の価値観でものを量り、馬鹿げた筋違いの私の判断にほくそ笑む者たちの中で、一生孤独のまま過ごしていくことになる。
広い世界を知るなど大それたことを言うつもりも、もうない。
単純に、彼を理解したいということだった。
それは、孤独を埋めてくれるのは、やはり彼だと思ったからだ。
込み上げる熱を止めることもできず、静かな涙が一筋だけ流れ落ちた。
「…帰りません。私が間違っていました…」
「はい?何故、そうなるんです」
「私を孤独の闇から救ってくれるのは、やはり、あなただ。レヴィストロース」
「買いかぶらないでください。そういうのは面倒なんです」
「面倒、そうでしょう。私も面倒だってそう思います。
それなら、説明など不要だったではありませんか。
世間知らずな私など放置して、ここから立ち去ればよかった。
けれど、時間を割いて、私に色々と説いてくれた。これは事実です。
…先程は、馬鹿げたことを口走り、申し訳ございませんでした…」
何故か、強い気持ちで言えた。
疲労と空腹は精神を侵していくが、今は迷わない気持ちが勝っていた。
明確な、気持ち。
世間を知る前に、彼に、近づきたいという気持ち。
「もうしばらく…もうしばらく、私におつきあい頂けないでしょうか」
彼に深く頭を下げた。地に額をつけて。
何でもするという意思がそうさせた。
「頭をおあげください王子、なにしてるんです。そういうことは冗談でもやめなさい」
「それなら、もう少しおつきあいください。今は王子ではない。宮殿を出た後は一介の商人です。
そして仮初め(かりそめ)の商人である私に対しても、あなたはこうする態度を批難するのなら教えてください。
狩りの方法を、生きる知恵を。私は初めから、こうしてあなたに頭を下げればよかったのだと、今気付いたのです。
もう、遅いでしょうか?私自身の力で生きていける方法を、この旅の間だけでいい。教えてほしいのです」
顔をあげると、初めて困惑したような素のレヴィストロースの貴重な顔が見れたのだ。
「どうか…」
舌打ちをしたレヴィストロースは、短いひげをさすって盛大なため息をついた。
「…悪かない口説き文句だな……」
その後、手を差し出されたので、その手を握るとグイッと引き上げられた。
いつも闇に閉ざされた彼の無表情が一瞬、嬉しそうに見えたのは勘違いだろうか。
そんなことはどうでもいい。
握った手は、あの日と変わらずに温かい。
「私はスパルタですよ?ヴィルさん」
「ええ…もう怖いくらい知ってます」
後悔はしない。私は、生きて帰る。




