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8/16

 その夢の中では、いつも雨が降っている。季節外れの激しい雨だった。アスファルトが水を弾く音が、絶え間なく耳の底に張り付いていた。排水溝が溢れ、道路の低い部分に水が溜まっている。街灯の光がそこに反射して、ぐにゃりと歪んだ橙色の楕円を作っていた。

  マンションの一室。 当時住んでいた、居間に二つの六畳と四畳半の付いた家。

  壁紙は薄いベージュで、角の部分が少し浮いていた。父親が"今度直す"と言っていたのを遥は覚えている。結局、直されることはなかった。テレビの前には父親が好きだった古い映画のパッケージが積まれていて、キッチンのカウンターには母親が途中まで読んでいた文庫本が伏せて置かれていた。しおりは挟まれていなかった。ページを折るのが嫌いな人だった。

  リビングのソファに、小夜が眠っていた。

  当時十歳。膝まで届く古いブランケットに包まれて、寝息を立てている。ブランケットの端が床に垂れていた。遥はそれを直してやろうと、ソファに近づきかけた。

  その瞬間。玄関の鍵が、外側から開けられた。

  いつもと音の質が違った。家族の誰かが帰ってきた時の音ではない。鍵の回り方が違う。慎重すぎる、という意味において。遥の全身の産毛が、動物的な感覚で逆立った。十五歳の少年が持つには過剰なほどの、危機察知の本能が、脊髄の奥から警報を鳴らしていた。

  遥が動こうとした時――玄関が開いた。

  黒いレインコートを着た人間が、ぬるりと入ってきた。

  一人ではなかった。雨に濡れたその合羽が、複数、薄暗い玄関に重なった。顔は判然としない。光の角度のせいか、夢特有の曖昧さのせいか、輪郭だけがあって表情がない。ただ、動き方は分かった。訓練された人間の動き方だ。迷いがない。目的を持って、この部屋へ入ってきている。

  リビングへ続く扉が、開いた。

  そこに、父と母がいた。

  帰宅していたのだ。遥が付かないうちに。いや、気付かせないように入ってきた人間たちが、先に廊下で父と母を――。

  遥の記憶はそこで、いつもひどく歪む。

  音だけが残る。重く湿った音。それから、もっと軽い音。床に何かが倒れる音。母親の声が、一度だけ、ひどく短く、切れた。それだけだった。それだけで全てが終わった。

  夢の中の遥は、十五歳という無垢な少年のまま、その音を聞いていた。

「子どもが二人いる」

  レインコートの一人が言った。特殊なマスクを装着しているのか、変声機越しのその声は男女とも付かず、感情は天気予報を読み上げるように凪いでいた。その調子で、人が死んだ部屋の中を確認している。

「依頼対象の子どもか?」

「いや。関係ない」

  別の機械音声が答え、短い沈黙が生まれた。遥はソファの陰に身を潜め、小夜の口を片手で塞ぎながら自分の背中に隠す。彼女は目を覚ましていた。遥の背中に顔を押しつけ、震えていた。声を出さなかった。泣いてもいなかった。ただ、遥のシャツの背中を、小さな手でぎゅっと掴んで、震えていた。

「しかし……目撃者だ」

  三人目の声が言った。

「殺しておくか?」

  再びの沈黙。その沈黙の長さが――遥の人生を変えた。

  逡巡があった。たったそれだけの、数秒の逡巡。依頼対象でない人間を殺すことへの、金で動く人間たちの、ほんの僅かな計算の時間。その隙間に遥は全てを賭けた。

「小夜、俺の背中から離れるな」

  囁き声だった。小夜の耳のすぐそばで。

「走るぞ。絶対に離れるな」

  小夜が、遥のシャツを握りしめたまま、首を縦に振った気配がした。それを確認した遥は立ち上がった。ソファを盾にしながら、遥は窓の方を見る。リビングの窓は網戸だった。鍵はかかっていない――母親が夕方に風を入れていたのだ。文庫本を伏せて、網戸を開けて、夕方の風を入れながら読んでいた。その光景を遥は一瞬だけ思い出した。

  窓の外は、廊下に面したベランダだ。二階。

  レインコートの人間たちが動く前に、遥は窓へ走った。網戸を肩で弾き飛ばし、ベランダの手すりを片手で掴んで飛び越えた。落下しながら、小夜の手首を掴んでいた。小夜は声を上げなかった。二階の高さから飛び降りた衝撃を遥は膝で殺した。膝に激痛が走ったが、立ち上がれた。

「走れ!」

  小夜の手を引いて、遥は雨の中をがむしゃらに走った。アスファルトが水を弾く。街灯の光が歪んで流れる。雨が顔を打つ。後ろからやや遠く声がした。追われていた。しかし遥は振り返らなかった。小夜の手だけを握って、走った。

  路地へ入った。彼はこの辺りの通りを熟知していた。毎日走って、毎日登って、毎日感触を確かめていた場所だ。体が大きくなるより先に、空間の使い方を天性で覚えた子どもだった。

  フェンスを越えた。小夜を先に持ち上げ、次に自分が跳躍し、階段の手すりを滑り降りた。そのまま配管を足場にして、上の階へ上がった。追ってくる気配がさらに遠くなった。雨音が全てを覆っていく。

  どれだけ走ったのか、わからなかった。

  やがて遥は、廃屋の軒下に小夜を引き込み、壁に背をつけて立ち止まった。雨は続いていた。追ってくる気配はもうない。

  小夜は遥の手を、ひたすらに握っていた。

  しばらく、二人は黙っていた。

  遥の膝は痛かった。息も切れていた。雨に濡れて、体が冷えていた。それでも、小夜の手を握り返し続けた。小夜も、握り返していた。

  雨音だけが続いていた。

  やがて、小夜が言った。

「……お父さんとお母さんは」

  遥は答えなかった。答えられなかった。

  しかし、小夜はそれ以上聞かなかった。遥の沈黙の意味を、八歳の小夜はすでに理解していたのかもしれない。あるいは、理解したくなかったのかもしれない。どちらでも、同じことだった。

「……遥」

  小夜が呼んだ。

「ん」

「手、痛い」

  遥は、自分がいつの間にか小夜の手を強く握りすぎていたことに、初めて気づいた。

「……わりい」

  力を緩めた。しかし小夜は手を離さなかった。今度は自分から、遥の手を握り直した。細い指で、全力で。

  遥はその感触を、掌で受け止めた。

  雨が屋根を叩いている。軒先から雫が滴り落ちて、水たまりに円を広げている。街灯の光が雨粒に屈折して、世界全体がぼんやりと滲んでいた。

「……遥、どこにも行かないで」

  小夜の声は、ひどく、静かだった。

「行かない」

  遥は即答する。

「絶対?」

「絶対に」

  小夜は何も言わなかった。ただ、遥の手を握る力が、もう少しだけ強くなった。

  壁に背をつけたまま、遥は雨の中の世界を見ていた。両親がいた部屋のことを考えた。母親の文庫本のことを考えた。父親の映画パッケージのことを考えた。直されなかった壁紙の角のことを考えた。それらが全部、もう二度と戻らない場所にあることを――十五歳の遥は、雨の音の中で、静かに受け取っていた。

  泣かなかった。

  違う。泣く場所が、なかった。

  隣に、小夜がいた。



  遥の眉が夢の中で歪んだ。雨音が遠くなっていく。軒下の暗がりが、溶けるように薄くなっていく。かつての輪郭が、崩れていく。

  しかし、雨の冷たさだけは残っていた。

  体の芯に沈んだ冷たさ。掌の中にある、小さな手の感触。それだけが、夢と現実の境界を曖昧にしたまま、遥の意識に貼り付いていた。

  眉間の皺が深くなり、呼吸が浅くなった。

  薄く開いた唇から、声にならない何かが漏れかけた、その時――。

  触れた。

  唇に、何かが触れた。

  温かかった。

  雨の冷たさとは全く違う、体温のある柔らかさだった。遥の意識が、深い水底から引き上げられるように、ゆっくりと浮上し始めた。

  離れた。

  また、触れた。

  今度は少しだけ、長かった。

  額に込められていた力が、少しずつ解けていく。浅かった呼吸が、深さを取り戻していく。雨音が遠ざかっていく。冷たさが、溶けていく。

  また離れた。

  また触れた。

  繰り返すたびに、遥の意識は水面に近づいていく。夢の輪郭が崩れていく気配。無力だった頃の遥が雨の中に溶け出す。

  長く続くキスだった。

  急がない。彼を引き戻そうとするのではなく、ただそこにある体温を、静かに、繰り返し、差し出し続けるような――そういうキスだった。

  遥の目が、ゆっくりと開いていく。

  そこには天井があった。

  古いマンションの、染みのある天井だ。早朝の光がカーテンの隙間から差し込んで、薄く、部屋を照らしている。

  小夜が遥の上にいた。

  両腕を遥の胸の両脇についた体勢で、身を乗り出している。黒髪が垂れて、遥の顔の周りに広がっていた。血のようなピンクのインナーカラーが、暗がりの中でも分かった。両耳のシルバーピアスが、静かに揺れていた。

  小夜の目が、遥を見ていた。

  近かった。

  いつもの、感情の読めない黒い瞳だった。しかしその奥に、遥が夢を見ていたことを、小夜がずっと知っていたことが——ただそれだけが、静かに滲んでいた。

  遥は数秒間、何も言わなかった。

  天井を見た。小夜を見た。自分の掌を確かめるように、ゆっくりと指を動かした。

「……小夜」

「起きた」

  小夜が言った。確認ではなく、事実の確認だった。

「ああ」

「うなされてた。辛そうだった」

「……そうか」

  遥は目を閉じた。それから、また開いた。天井のクジラが、さっきと同じ場所にあった。変わらず、そこにある。

「……何年ぶりだ、あの夢」

「さあ」

  小夜は言った。しかし、その中身を遥は知っていた。小夜は覚えている。遥がいつ、あの夢を見たかを。隣で寝ていれば必ず分かるからだ。ずっと、そうだったから。

「起こしてくれたのか」

「うん」

「……サンキュ」

  小夜は答えなかった。代わりに、そのまま遥の胸の上へゆっくりと額を落とした。崩れるように力を抜いて。遥は目を閉じたまま、右腕を小夜の背中へと回した。リビングに静寂が戻る。

  悪夢――八年前のあの夜から一ヶ月も経たないうちに、両親の死は"怨恨か強盗による殺人"として報道された。当時の遥はそのニュースを、児童相談所の待合室のテレビで知った。小夜は隣で眠っていた。画面の中のアナウンサーが淡々と読み上げる、被害者の名前、発見時の状況、捜査の見通し。

  怨恨か強盗。遥はその言葉を、頭の中で反芻した。

  おかしいと思った。あの夜、部屋から何かが盗まれた形跡はない。父の財布も、母の指輪も、そのままだという。自分の見た鍵の開け方は訓練された人間のそれだった。そして何より――子どもは依頼対象じゃない、などという台詞は、恨みをもつ本人でも、ましてや強盗が口にする言葉でもない。

  誰かに頼まれて、来た人間たちだった。

  それだけは、あの雨の夜から、遥の中で揺らいだことがない。しかし依頼した人間が誰なのかは、報道にも――その後の捜査にも、ついに浮かんでくることはなかった。実行犯すら結局は闇の中だ。

  両親の殺人事件は、結局、迷宮入りとして処理された。

  それから数カ月、自分たちが生き延びられた理由を、遥は後になって冷静に分析したことがある。

  答えは単純だった。割に合わなかったのだ、向こうにとって。

  依頼の対象は両親だけだった。子どもは最初から目的の外にいた。取り逃がした後に十五歳の少年と八歳の少女を追い続けることは、依頼の範疇を超えた、純粋な持ち出しになる。しかも雨の夜に地形を使って完全に撒かれた時点で、追跡コストはさらに跳ね上がっていた。顔も名前も組織も割れていない実行犯について、子どもの証言がどこまで捜査に結びつくかも不透明だ。

  故に切り捨てた。それだけだった。遥と小夜の命は、かつての金の計算の結果として、たまたま今夜も此処にある。その事実を、遥は十五歳の時点ですでに受け取っていた。怒りは当然あった。しかし怒りより先に、冷たい理解があった。あの人間たちは最初から金で動いて、金の勘定で去った。ただそれだけだ。

  一時保護所に移ってからしばらくの間、警察の巡回が定期的に来ていた。強盗殺人の被害者遺族、という名目での身辺警護だった。制服姿の警官が週に何度か顔を出し、施設のスタッフと二言三言話して帰っていく。遥はその様子を、廊下の窓から黙って見ていた。

  ありがたい、とは思えなかった。あの夜起きたことが単なる殺人事件である限り、警察の捜査はずれた方向を向き続ける。本当の依頼主は、その誤った前提の陰に、最初から隠れている。巡回の警官たちに悪意はない。

  数ヶ月後、巡回は自然に来なくなった。

  捜査が行き詰まるにつれて、リソースは別の事件へと向いていく。それは当然のことだ。警護が薄れていく過程を、遥は静かに観察し続けた。法律ではここまでしか届かない。その現実を、遥は少年の目で正確に測っていた。

  それから遥は、独りで調べ始めた。

  最初は大きな図書館だった。新聞の縮刷版を端から読んだ。データベースも活用し、似たような手口の事件を探した。強盗殺人として処理された案件の中に、明らかに強盗ではない事件がいくつも埋まっている。被害者の共通点を探すと、徐々に繋がりが見えてきた。見えてくるほど、遥の中で何かが冷えていった。

  裏社会では、金を払えば人が死ぬ。それが、遥の辿り着いた答えだった。

  ネット上でまことしやかに囁かれる"殺し屋"という存在を、遥はその時初めて輪郭のある現実として認識した。映画の中の話だと思っていた。少なくとも、自分の両親が巻き込まれるような話だとは思っていなかった。幼いその無知を、遥は静かに、しかし深く恥じた。知らなかった。この世界の裏側では珍しいケースですらないということを、何も知らなかった。父も母も、その腐った世界の中であっけなく消費された。そしてその論理は今も、遥の知らない場所で動き続けている。

  恥と怒りが、遥の中で同じ温度で燃えていた。それはすぐ外に向かわなかった。最初に向かったのは――自分自身。

  鍛えた。

  理由は単純だった。あの夜、自分にもっと力があれば――という思考が頭を過ぎったからだ。それ以上考えるより先に、体が動いていた。走る。ぶら下がる。壁を登る。高いところへ上がる。落ちる。また上がる。痛みの感覚が変わっていくのを、遥は淡々と観察しながら続けた。

  格闘技は手当たり次第に叩き込んだ。

  最初に入ったのは、近所の安い柔道の道場だった。礼儀だの段位だのに興味はなかった。関節の極め方と、人間の重心の崩し方だけを吸収して、半年で出た。次はボクシングジムへ行った。打撃の軌道と、被弾を最小にする体の捌き方を覚えた。そこでも一年足らずで、教えられることがなくなった。指導員が首を傾げていた。筋がいい、という次元の話ではなかった。遥の体が、動きの本質を異常な速度で咀嚼して、自分のものにしてしまうのだ。ムエタイを修得した。ブラジリアン柔術を修得した。システマを修得した。ナイフ術の動画を繰り返し見て、独りで反復した。軍のタクティカルトレーニングに短期で参加し、射撃全般とその回避方法を体得した。それぞれの核だけを取り出すと、遥の体の中で即座に混ざり合っていった。

  天賦の才があったのかもしれない。あるいは、止まれなかっただけかもしれない。どちらでも良かった。

  体が変わるにつれて、見える世界が変わった。路地の抜け方、建物の使い方、人間の動き方の癖――かつて本能で感じ取っていたものが、意識的に読めるようになった。同時に、裏社会の輪郭も少しずつ鮮明になっていった。調べるほどに、金で動く殺し屋たちが、この街の底に無数に潜んでいることが分かった。依頼する人間がいて、受ける人間がいて、その間で命が売買されている。信念もなく、覚悟もなく、ただ金のために他人の人生を終わらせる人間たちが、法の目の届かない場所で堂々と生きている。

  慧と出会ったのは、遥が十九歳の時だった。

  きっかけは些細なことだった。遥が単独で裏社会の末端を追っていた夜、向こうも同じ人間を別の方向から追い詰めていた。手段は全く違った――遥が体で動いていたのに対し、慧は紙と情報だけで相手の退路を完全に断っていた。鉢合わせた時、慧は驚く様子もなく、ただ銀縁眼鏡の位置を直しながら言った。

「効率の悪い作業だね、お互い」

  最初から信用したわけではない。慧の方もそうだったはずだ。ただ、互いのやっていることの根っこに、同じ形の怒りがあることは、邂逅の夜にすでに分かっていた。慧が孤児院を経営していることを知ったのは、もう少し後のことだ。その孤児院に集まっている子どもたちの事情を知った時、遥は何も言わなかった。言う代わりに、翌週から慧の依頼を受けるようになった。

  それが彼らの始まりだった。

  ふと、意識が現在へと戻る。雨は降っていない。薄明かりの差し込む中、小鳥の囀りと、遠くにバイクの走る音が聞こえる。遥の掌は温かかった。小夜の体温がそこにある。八歳の小夜の手の感触は、もうない。代わりに、今の小夜の重さが、遥の胸を細く柔く押していた。

  十分すぎるくらい、それで良かった。

  遥は天井を見るのをやめ、目を閉じる。もう雨の夢は来ない。ただ、小夜の呼吸が遥の上で続いていた。深く規則的で――温かかった。

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