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内緒話

 住宅街の一角にその建物はあった。元は個人経営の小さな保育施設だったらしく、外壁は白く塗り直され、入口の脇には子どもたちが育てているのだろう、プランターがいくつか並んでいる。枯れかけた花と、まだ青い花が、無秩序に混在していた。門扉には慧が発注した鉄製のプレートがはめ込まれていて、そこには小夜が描いたロゴが刻まれている。児童養護施設"ハルシオン"。複雑に絡み合う線が、しかし不思議な調和を保っている、あのデザインだ。

  昼を少し過ぎた時刻の陽光は、冬にしては柔らかい。遥はその門扉の前で一度だけ立ち止まり、プレートを眺めた。隣で小夜もそれに倣った。自分が描いたロゴを、他人事のような目で見つめる。しかしその視線が、ほんの少しだけ、普段より長くそこに留まっていた。

「行くか」

「……うん」

  中に入ると、廊下の奥から慧の声がした。

「来たね。遅かったじゃないか」

  リビングへ続く引き戸の前に、慧が立っていた。スリーピースのスーツは今日も隙がないが、袖を肘までまくり上げているのは、午前中から子どもたちの相手をしていた名残だろう。銀縁眼鏡の奥の目が、遥の頬のガーゼを一瞬だけ確認し、それから小夜へと向いた。

「小夜ちゃん、来てくれたんだね。ありがとう」

  小夜は黙って軽く顎を引いた。愛想のない返事だったが、慧はそれを当然のように受け取った。

「子どもたちは庭にいる。昼食が終わったばかりだから、しばらくはうるさいかもしれないけど――まあ、許してやってくれ」

  引き戸を開けると、庭に面した窓から子どもたちの声が流れ込んできた。高く、無秩序で、屈託のない声だった。小夜の肩がほんの僅かに強張る。遥はそれを見て何も言わなかった。

  慧がリビングのソファに腰を下ろしながら、遥に目配せした。

「雨漏りの箇所は二階の北側の部屋だ。後で見てくれるか」

「ああ」

「助かるよ。……僕は三時には事務所へ戻らないといけない。依頼人との打ち合わせがある」

「そんなに急ぐのか」

「弁護士業は待ってくれないんだ。君と違って、表の仕事が本業だからね」

  慧は口の端だけで笑い、銀貨を指の間に挟んで転がし始める。 二人で庭へ出ると、子どもたちが一斉にこちらを見た。

  年齢はばらばらだった。小学校に上がったばかりくらいの子から、中学生らしき子まで。何人かは遥の顔を覚えていて、"くろせさん"と呼んだ。遥は短く手を上げてそれに応える。小夜は庭の入口で、少しだけ立ち止まっていた。

  その時。

「さよちゃん!」

  声がして、何かが小夜に向かって駆け寄ってきた。

  日葵だった。

  七歳。栗色がかった柔らかい髪を二つに結んで、膝に泥をつけたまま、まっすぐに小夜へと向かってくる。ためらいがない。計算がない。ただ会いたかった人間のところへ走る、という感じの速度だった。

  小夜は一歩だけ後退りかけた。しかし日葵は構わず、小夜の腰へ嬉しそうに両腕を回す。

「来てくれると思ってた! お菓子、作ったの。さよちゃんに食べてほしくて」

「……食べた」

「ほんとに!? おいしかった?」

「……まあ」

「まあって何! もっと言って!」

  小夜の表情は変わらなかった。しかし遥は見ていた。小夜の手が、少しだけ迷ってから、日葵の頭の上にそっと置かれたのを。撫でるわけでも、払うわけでもない。ただ、置いた。それだけだった。満足したのか、日葵は小夜の腰に顔を埋めたまま、しばらく動かなかった。

  遥が二階の雨漏りを確認している間、小夜は庭の隅のベンチに座っていた。子どもたちは彼女と適度な距離を保っていた。日葵だけが時々小夜の隣に来ては、何かを話しかけて、また走っていく。その繰り返しだった。小夜は相槌を打つでも追い払うでもなく、ただそこにいた。

  遥は二階の窓から、その様子をちらりと見やった。特に何も思わない。ただ、小夜が庭から帰ると言い出していないことは、確認した。

  慧が事務所へ戻る準備を始めたのは、二時半過ぎのことだ。コートを羽織りながら玄関へ向かう慧に、遥は廊下で声をかけた。

「雨漏りの件――北側の窓枠の防水シートが劣化してた。応急処置はしたが、業者を呼んだ方がいい」

「ありがとう。業者の手配はソフィアに頼む」

「あいつに頼むのか、そういうことも」

「有能な助手というのは、そういうものだよ」

  慧は眼鏡の位置を直しながら、玄関の引き戸に手をかけた。それから振り返り、庭の方へ一度だけ目をやった。

「小夜ちゃん、思ったより長くいてくれてるね」

「日葵が離さないんだろ」

「それもあるけど。小夜ちゃん自身が、嫌じゃないんだと思うよ」

  遥は何も言わなかった。

「じゃあ、後は頼む。戸締まりだけよろしく」

  慧が出ていった。引き戸の閉まる音が、静かな廊下に響く。午後の陽光が庭に斜めに差し込んでいた。

  他の子どもたちは室内へ戻り始めていて、庭には小夜と日葵だけが残っていた。遥はリビングの窓際に背をもたせかけ、煙草を一本取り出しかけ――ここが孤児院の中だと思い出し、すっと懐に戻した。

  ベンチの上で、日葵が小夜の隣に座り直した。先程までの騒がしさが嘘のように、急に静かな顔をしている。膝の上で両手を握ったり開いたりしながら、何かを言いかけて、やめて、また言いかけている。小夜はそれを横目で見ていた。

「……何」

  小夜が先に言った。

「あのね」

  日葵が、少しだけ声を落とした。

「わたし……好きなひとできたの」

  小夜は何も言わない。構わず日葵は続けた。膝の上の手が、もじもじと動いている。

「おなじクラスの男の子でね。給食のとき、わたしが嫌いなにんじん、黙って食べてくれるの。いつも。一回もいやな顔しないで」

「……それだけ?」

「それだけって何! すごいことじゃん!」

「まあ」

「まあって言わないでよ、さよちゃんはいつもまあって言う」

  日葵が頬を膨らませた。小夜の口元が、ほんの少しだけ動いた気がした。遥の角度からは確認できなかった。日葵はしばらくにんじんの話を続けてから、ふと、小夜を見上げた。

「ねえ、さよちゃんは」

「ん」

「好きなひと、いるの?」

  庭に、風が通った。プランターの枯れかけた花が、細い茎ごと揺れる。小夜の黒髪が、血のようなピンクのインナーカラーごと、ゆっくりと流れた。

  小夜は少しの間、庭の端を見ていた。

  それから、ぽつりと言った。

「……いる」

  日葵の目が丸くなった。

「ほんとに?! どんなひと?」

「……口数が少ない」

「うん」

「煙草くさい」

「うん」

「いつも眠たそうにしてる」

「……それ、いいひとなの?」

  小夜は日葵を見た。

「いいひと、かどうかは関係ない」

  それだけ言って、また庭の端へ視線を戻した。

  日葵は首を傾げたまま、しかし何かを感じ取ったのか、それ以上は聞かなかった。代わりに小夜の隣で膝を抱え、同じ方向を向いて座る。二人分の沈黙が、穏やかな午後の陽光の中に溶けていた。

  遥は窓際でそれを聞いていた。煙草を取り出しかけ、また戻す。今度は別の理由で。頬のガーゼが冬の日差しに温められ、じんわりと熱かった。

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