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傷痕

  時刻が午前三時三十分を回る頃。

  事務所の間接照明は相変わらず琥珀色の光を落としていて、バーカウンターの上のグラスには慧のウイスキーが指一本分ほど残っている。タイピングの音はいつの間にか止んでいた。ソフィアはデスクの前で姿勢を正したまま、画面を見つめているのか目を休めているのか判然としない様子で静止している。凪は椅子の上で膝を抱え、ヘッドホンを片耳だけにかけて何かのコードを眺めていた。 遥はソファから身を起こすと、首の後ろを無造作に掻いた。

「帰る」

  宣言というより、独り言に近い声量だ。作業着の肩を叩き、安全靴のつま先を床に打ちつけて踵を収める。ハーネスの金具が微かな音を立てた。

「あい、お疲れ様」

  凪が片手を上げた。画面から目を離さないまま、気の抜けた声だった。ソフィアが顔を上げ、小さく頭を下げた。その碧眼が一瞬だけ遥の頬のガーゼに向いて、またすぐにデスクへ戻った。

  遥がマホガニーの扉へ向かおうとした、その時だった。

「遥、ちょっと待って」

  声が飛んできた。慧はバーカウンターの奥へ回り込み、棚の下段から何かを取り出す。白い箱だ。その蓋の上に、細い金のリボンがかけられている。遥が怪訝そうに眉を動かすと、慧はそれを差し出しながら、眼鏡の奥でわずかに目を細めた。

「小夜ちゃんへ。昨日、うちの孤児院の子どもたちと一緒に作ったんだ」

「……何が入ってる」

「焼き菓子。フィナンシェとサブレ。子どもたちが型を抜いて、僕がオーブンを管理した。……一応、人に渡せる出来にはなっていると思う」

  遥は箱を受け取り、リボンを一度だけ見た。白い箱の表面には、子どもの字で"くろせさよちゃんへ"と書かれた付箋が貼られていた。几帳面ではないが、一生懸命に書いたことだけは伝わる、不格好な文字だった。

「……孤児院の子が書いたのか」

「七歳の女の子だ。小夜ちゃんのことを気に入っていてね。ロゴのデザインを手伝ってもらっただろう、あの時から」

  遥は少しだけ目を伏せた。小夜が不本意そうに、しかし確かに手を動かして描いた孤児院のロゴ。それを七歳の子どもが覚えていて、菓子の箱に名前を書いた。その事実の重さを、遥はすぐには言葉にしなかった。

「……持ってく」

「うん」

  慧は満足そうに頷いた。それからごく自然な流れで、つけ加えた。

「そうだ、遥。明日、表の仕事は入ってないよな」

「ああ」

「だったら、昼過ぎに孤児院へ来ないか。久しぶりだろう、顔を出すのも」

  遥は一瞬だけ黙った。慧の言い方は軽い。しかし"久しぶり"という単語の中に、それとなく、しかし確かな重さが含まれているのを遥は聞き取っていた。子どもたちは遥の顔を知っている。知っている上で、待っている。

「……まぁな」

「是非来てくれ。子どもたちも喜ぶし、何より僕が助かる。先週から雨漏りしている箇所があって、高所作業に適した人間が必要なんだ」

「結局そっちか」

「両方本当のことだよ」

  慧は悪びれる様子もなく、口の端だけで笑った。遥は短く息を吐き、白い箱を脇に抱えた。

「……考える」

「それは来るということだ」

「そうは言ってない」

「わかった、わかった」

  慧が手を一度だけ振った。遥は返事をせず、踵を返した。マホガニーの扉が重い音を立てて開き、深夜の廊下へ続く薄明かりが差し込む。

「遥」

  扉を出る直前、慧の声が最後にかかった。外へ向く足を止めつつも、遥は振り返らなかった。

「頬、お大事に」

  遥はそのまま廊下へ出る。カチャリ、と扉が静かに閉まった。

  夜の路地は冷えていた。街灯の光が濡れたアスファルトに滲んで、橙色の歪んだ楕円を作っている。この時間、都心から外れたこの一帯には人通りがない。遠くで信号機だけが律儀に色を変え続けていた。

  遥は白い箱を脇に抱えたまま、ゆっくりと歩いた。急ぐ理由がないわけではない。しかしこの、昼と夜の境界が溶けかける時間帯の静けさには、歩調を乱しにくい何かがある。頬のガーゼが夜風に触れる度、じんわりとした熱を思い出させた。深くはない。ソフィアの処置は丁寧だった。それでも、皮膚の下に残った鈍い疼きは、歩く間じゅう静かに続いていた。

  煙草を一本取り出して火を点ける。ジッポライターの炎が、夜風の中で二度揺れてから安定した。紫煙を吸い込みながら、遥は白い箱を改めて脇で確かめる。軽い。中身は菓子だ。七歳の子どもが、不格好な文字で名前を書いた。

  小夜がそれを見て、どんな顔をするか——遥には想像がつかない。受け取るかどうかも分からない。ただ、慧がわざわざ用意したことは事実で、孤児院の子どもが書いたことも事実だ。後は彼が持ち帰るだけだった。


  ■


  古いマンションのエレベーターは今夜も動きが遅かった。

  四階で扉が開く。廊下の蛍光灯が一本、点滅を繰り返していた。遥は白い箱を持ち直し、突き当たりの扉の前に立った。鍵を取り出して差し込む。シリンダーが重い音を立てて回った。

  扉を開けた瞬間――今夜は、音がないことに気付く。ギターの響きもない。暗い玄関に、遥は一度だけ目を細めた。

「小夜」

  声をかける。返事がない。しかし気配はある。部屋の奥、リビングの方から、規則的ではない、しかし確かな呼吸の気配がした。遥は安全靴を脱ぎ、白い箱を玄関の棚の上に置いてから、暗いリビングへ入った。

  彼女はソファにいた。いつも通り遥の黒いスウェットをまとい、膝を胸に引き寄せて端に収まっている。塗り直された黒ネイルの指先が、スウェットの袖口を内側からきつく握りしめていた。ギターは脇に立てかけられていて、今夜は弦に触れていないらしい。

  小夜の目が遥を捉えた。暗がりの中でも、その視線の動きはわかる。玄関から入ってきた遥の全体をまず一度だけ確認し、それから――止まった。

  頬のガーゼに、視線が固定された。

  無言だった。

  小夜は何も言わなかった。ただ、その黒い瞳が、遥の頬の上の白いガーゼを、じっと、じっと、見ていた。感情的な揺れがあるわけではない。眉が寄っているわけでもない。ただひたすらに、見ていた。その静けさの中にある温度の低さが、怒りや悲しみよりずっと重かった。

「……仕事中に、少し掠った。浅い」

  遥が先に口を開いた。説明する義務はない。しかし小夜のその視線を前にすると、沈黙を続けることの方が居心地悪かった。

「嬢ちゃんが処置してくれた。もう血も止まってる」

  小夜の視線が、ほんの一瞬だけ動いた。

「……ソフィア」

  繰り返した声は、ひどく平坦だった。感情の色がないのではなく、感情の色を全部内側に閉じ込めた時の、あの平坦さだった。

「ああ。慧のところの」

「……知ってる」

  小夜はそれだけ言うと、ゆっくりソファから立ち上がる。音もなく歩み寄ってきた小夜の手が、遥の手首を掴んだ。細い指だった。しかし、その握り方には抗いにくい何かがある。引力というより呪力に近い、逃げ場のなさだった。

「小夜――」

「こっち」

  遥が何かを言い切る前に、小夜は手首を引いた。遥の身体が一歩、引き寄せられる。それからもう一歩。膝の裏がソファの縁に当たった瞬間、小夜は引いていた手を押す動作に切り替え——遥の大きな身体が、音を立ててソファに沈んだ。

  押し倒した――というより、重力を利用して引き込んだ、というべき動作だった。小夜はその勢いのまま遥の上に覆い被さり、スウェットの袖から覗く華奢な両腕を遥の胸の両脇につけた。

「おい……小夜」

「うるさい」

  一言で遮られた。

  小夜の顔が、遥の頬へと近づいてくる。暗がりの中で、黒髪の内側に仕込まれた血のようなピンクのインナーカラーが、街灯の光を受けて僅かに光った。両耳のシルバーピアスが、重力に引かれて静かに揺れた。

  細い指が、ガーゼの縁に触れた。

「……小夜、そのままで――」

「剥がす」

「傷に触れるな」

「触れたい」

  有無を言わせない圧力だった。小夜の指先は遥の制止を聞かず、医療用テープの端をごく慎重に、しかし確実に剥がし始めた。四辺を留めていたテープが、一枚ずつ、皮膚から離されていく。

  そして、ついにガーゼが外された。

  小夜の黒い瞳が、露わになった傷を見た。

  ペインの弾丸が掠った跡——頬骨の下を斜めに走る、細い切り傷。ソフィアの処置で清潔に保たれ、血は固まっている。決して深くはない。けれどそれは紛れもなく、今夜誰かが遥のすぐ隣に死を置いた、という痕跡だった。

  小夜の表情は変わらない。ただ、スウェットの袖口を握りしめていた指先が、白くなるほど力を込めている。それから――彼女は身を屈めた。最初に触れたのは、傷の端。

  小夜の唇が、ごくゆっくりと、傷の始まりの一点に触れた。体温がある。遥の皮膚の上に小夜の息がかかる。冷たい夜の中で長い時間を過ごしていたはずなのに、その呼気だけは温かかった。

「……小夜」

  遥の声から制止の色が薄れていた。小夜は答えなかった。答える代わりに、傷の線に沿って、ゆっくりと舌先を這わせた。その瞬間、遥の頬に微かな違和感が触れた。舌の動きに混じる、小さくて硬い感触。金属だ——小夜の舌の中央に据えられた、銀色のピアスのボールが、傷口の縁をごく静かに辿っていく。傷口の塩気と、鉄の味がする。それを確かめるように、丁寧に、もう一度。微かに溶剤の匂いが残る黒ネイルの指先が、遥の顎の輪郭をそっと支える。逃がさないためではなく——まるで壊れ物を固定するような、静かな力加減だった。

  遥は目を閉じた。

  抵抗する気が、もうなかった。正確には——行為を止める言葉を、今の遥は持っていなかった。小夜がこうする時、そこには小夜にしか分からない論理がある。遥が今夜どれだけ血の匂いを纏って帰ってきても、どれだけ傷を"大したことない"と言っても、小夜はその傷を自分の目で確かめ、自分の感覚で測り、自分の体で癒さなければ納得しない。それがこの少女の、歪んで、しかし真摯な、唯一の安堵の取り方だった。

  リビングに音はなかった。街灯の光がカーテンの隙間から細く差し込み、二つの輪郭を曖昧に照らしている。古いソファの革が、二人分の体重を受けてゆっくりと軋んだ。小夜の黒髪が遥の頬の傍に広がった。血のようなピンクが、暗がりの中で静かに滲んでいる。

  傷を舐めていた小夜の動きが、やがて止まった。彼女は遥の頬に額を寄せるようにして、静かに動かなくなる。その呼吸は、さっきより少しだけ深くなっていた。

  どれくらいの時間が経ったのか、遥には分からない。

  時計を見る考えに至らなかった、というのが実際のところだ。ソファの上で小夜の重さを受けたまま、天井の染みを眺めていた。古い建物の天井には、雨漏りの跡がうっすらと残っている。いつからあるのか、遥が此処に越してきた時にはすでにあった。小夜がそこに何かの形を見出して、名前をつけていたのを思い出した。確か、クジラだと言っていた。どこがクジラなのか、遥には最後まで分からなかった。

  胸の中の小夜は眠っているのか、眠っていないのか。その境界が曖昧なのはいつものことだ。遥は右腕をゆっくりと動かし、小夜の肩の辺りに回した。小夜は身じろぎひとつしなかった。されるがままに、遥の上で重力に従いながら沈んでいる。

  頬の傷は、もう痛まなかった。全くないわけではない。ただ、小夜の体温が頬に触れていた時間のせいで、その輪郭がぼやけてしまっていたのだ。

「……小夜?」

  低く呼んだ。相変わらず返事はない。しかし、遥の胸の上でわずかに、小夜の呼吸の深さが変わった。起きている。

「今日、学校どうだった」

  沈黙があった。天井のクジラが、街灯の角度が変わるにつれ、少しだけ形を変えた気がした。

「……課題の講評があった」

  やがて小夜の声がした。低く掠れている。眠りの縁にいる人間の声だ。

「テキスタイルのやつ。先生が、また訳わかんないこと言ってた」

「訳わかんないこと、か」

「"このパターンには既存のどんなデザイン史にも分類できない文法がある"って」

  遥は僅かに眉を動かした。

「……褒められてんじゃないのか?」

「さあ」

  小夜は興味なさそうに言った。本当に興味がないのか、照れているのかは、遥にも判別がつかない。ただ小夜が自分のデザインについて人から言われたことを、こうして遥に話す時は――たいていその言葉が、彼女の中の何かに触れている時だ。

「どんな柄だった」

「……螺旋みたいなの。何重にも重なってて、中心に向かうほど細くなる。でも消えない。消えそうで消えないやつ」

「お前が描いたのか」

「うん。描いてたら、そうなってた」

  小夜はよくこういう言い方をする。"描いた"ではなく、"自然とそうなっていた"。自分の手が動いた結果として、気がつけば形になっていた――そういう感覚で作っている、ということを遥は知っていた。

「見せてもらえるか、今度」

「……どうせ意味わかんないと思う」

「それでもいい」

  小夜はまた黙った。否定もしなかった。それは小夜なりの承諾だと、遥は受け取った。

  お互いにしばらく何も言わなかった。遥が指先を動かし、小夜の黒髪を無造作に梳いた。小夜は動かなかった。ただ遥の上で、自分の呼吸の速度だけをごく僅かに変えた。

「他は」

「他?」

「学校。何かあったか」

「……ソフィアみたいな子が転入してきた」

  遥の手が、一瞬だけ止まった。

「……ソフィアって名前の子が?」

「違う。ソフィアみたいな、って言ったの」

「どう似てんだ」

「髪が長くて、背伸びしてる感じ」

  遥は何も言わなかった。小夜もそれ以上続けなかった。ただその三秒ほどの間に、小夜の声の温度が僅かに下がったことは、遥の耳には届いていた。

「……その子と話したか」

「してない」

「そうか」

「する気もない」

「まあ、お前はそうだな」

「何。するべきだった?」

「そうは言ってない」

  小夜が鼻から短く息を吐いた。遥の胸の上で、スウェットの生地をわずかに引いた。抗議とも、甘えとも取れる仕草だった。

「……遥は、知らない人間と話すのが好きなの」

「別に好きでも嫌いでもない」

「あたしは嫌い」

「知ってる」

「でも遥は、仕事でいろんな奴と話す」

「仕事だからな」

「仕事じゃなかったら?」

  遥は少しだけ考えた。

「……たぶん、話さない」

  小夜の指先がスウェットから離れた。それだけで、彼女の中の何かが少し落ち着いたことがわかった。単純な話だった。遥が自分と同じ側にいることを、時々こうして確認しないと、小夜は不安になる。言葉にはしないが、遥にはわかる。

  また沈黙がその場を支配した。今度は長かった。街灯の橙色が窓の外でじっと瞬いていて、廊下の方からは古い配管が冷気で収縮する、低い音が断続的に届いてくる。小夜の呼吸は、眠りのそれに近くなっていた。

  遥は天井のクジラを見ながら、白い箱のことを思い出した。玄関の棚に置いてきた、慧の孤児院の菓子。七歳の子どもが書いた、不格好な文字。

「小夜」

「……ん」

「玄関に、箱置いてきた」

  小夜の反応はなかった。眠っているのかと思ったが、数秒して"知ってる"と短く返ってきた。気配で察していたのだろう。

「慧からだ。孤児院の子どもたちが作ったって」

「……お菓子?」

「ああ。フィナンシェとサブレ」

  小夜は何も言わなかった。しかし遥の胸の上で、体重の掛かり方がほんの少しだけ変わった。孤児院という言葉が彼女の何かに触れ、微かな変化をもたらした証拠だった。

「食わないのか」

「……後で」

「そうか」

  また間があった。

「あの子が作ったの」

  小夜が言った。質問ではなく、確認だった。

「慧がそう言ってた。お前のこと、気に入ってるらしい」

「……ふうん」

  小夜の声は平坦だったが、遥の胸の上で、スウェットを握っていた指先の力が、ほんの少しだけ緩んだ。強張りが解けた、とも言えたし、別の何かに取って代わられた、とも言えた。

「名前、何だっけ」

「……ひなた」

  即座に返ってきた。遥は少しだけ目を細めた。小夜が人の名前をすぐに出すことは珍しい。

「そう。日葵だ」

「あの子、ロゴを描く時ずっとそばにいた。あたしが線を引くたびに、いちいち覗き込んでくる」

「うるさかったか」

「……うるさかった」

  少し間があった。

「でも、まあ」

  小夜はそれだけ言って、続けなかった。遥も続きを求めない。"まあ"先に何があるのか、問わなくても分かっていた。小夜が人間を拒絶しない時、それはたいてい、相手が何かを持っているからだ。ひなたという子どもが何を持っているのかを、遥は正確には知らない。ただ小夜がこうして名前を覚えていることが、その答えに近かった。

「明日、慧に呼ばれた」

「孤児院に?」

「ああ。雨漏りがどうとか言ってたが……子どもたちの顔も、久しぶりに見ておきたい」

  小夜は黙っているのを見て、遥は続ける。

「表の仕事も明日は休みだ。昼過ぎに顔を出すつもり」

「……そう」

「お前も来るか」

  言ってから、遥は結果を期待しすぎなかった。ただ聞いた。小夜が外へ出ることを、知らない場所へ向かうことを、自分から望むことはまずない。一度訪れたことがあるとはいえ、子どもたちが十数人いる場所だ。小夜にとって、そこは決して居心地のいい空間ではないはずだった。

  だから次の言葉は、それでも少しだけ、意外ではなかった。

「日葵は来てる?」

「たぶん来てる」

「……あの子、あたしのこと覚えてるかな」

「箱に名前書いてたぞ」

  小夜は何も言わなかった。遥の胸の上で僅かに身をよじる。顔を少しだけ、白い箱のある玄関の方へ向けたような気がした。

「……あの子たちって」

  ゆっくりと言葉を選ぶように小夜が言った。

「みんな、同じような事情なの」

「ああ」

  遥は短く答えた。それ以上の説明はしなかった。する必要がなかった。小夜はすでに知っている――慧の孤児院に集まっている子どもたちが、どういう経緯でそこへ来たのかを。親を奪われた子どもたち。理由も、経緯も、関わった人間の顔も、それぞれ違う。しかし根っこにあるものは、遥と小夜が十年以上前に経験したことと、同じ形をしている。

「……そう」

  小夜が言う。それだけだった。感想も、言葉の続きも無かった。ただ遥の胸の上で、小夜の呼吸が再び深くなった。意識してのことではないと思う。そういう息の仕方だ。自分の内側に沈んでいくような、静かで重い、吐息。

  小夜のスウェットの袖から覗く指先が、遥の胸の上にある自分の手の甲を、ゆっくりと確かめるように動いた。艶やかな黒ネイルの縁が、自分の皮膚の感触を辿っている。それは日葵という子どものことを考えているのか、それとも別の何かを考えているのか、遥には果たしてわからなかった。

「……行ってもいい」

  やがて小夜が言った。声のトーンはいつもと変わらない。ただ、さっきまで遥のスウェットを引いていた指先が、今は遥の胸の上でただ静かに、力なく開かれていた。

「そうか」

  遥はそれだけ言った。

「うるさい子がいても、知らない」

「まあ、孤児院だからな」

「あたしはすぐ帰るかもしれない」

「構わない」

「それから」

「ん」

「……ソフィアって人は来ない?」

  遥は少しだけ間を置いた。

「来ない。孤児院は慧の話だ」

「そう」

  小夜の声から、測るような緊張がほんの少しだけ抜けた。それ以上は何も言わなかった。遥も何も言わなかった。

  リビングに静寂が戻ってくる。古いソファが二人分の重さを受けて、低く、長く、息をするように軋んだ。小夜の呼吸が、またゆっくりと深くなっていく。今度は本当に、眠りの方へ向かっているようだった。

  遥は右腕を小夜の肩に回したまま、目を閉じた。

  電気はつけていない。カーテンの隙間から差し込む街灯の光だけが、二人の輪郭を曖昧に照らし出す。玄関の棚の上には、白い箱が静かに置かれている。七歳の子どもが書いた不格好な文字が、暗がりの中に沈んでいた。

「……遥」

  小夜がぽつりと名を呼んだ。いつもと同じ、抑揚のない声。しかしこの深夜の底で、二人だけの暗がりの中で発されたその声は、いつもよりずっと小さくて、いつもよりずっと近かった。遥は目を閉じたまま、短く応えた。

「ん」

  それだけだった。それだけで十分だった。

  窓の外で、夜がまだ続いていた。夜明けはまだ遠く、街灯だけが黙って瞬いている。二人分の体温が重なり合う古いソファの上で、修羅の夜の残滓と、歪んだ愛着の形が、静かに、静かに溶け合っていった。

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