私が病気だと知った日
これは大人になって判明したことですが、敷地外で見つけた猫の亡骸はセンターに連絡すれば、職員が無料で回収してくれるそうです。あと、猫の死骸には感染症や寄生虫が潜伏している可能性があるため、素手で触ることはいけないようです。
話を戻します。私は倒れていた猫をじっと見つめ、そしてすぐに悟りました。
猫が死んでいる。と。
不思議と悲しい気持ちや怖い思いはありませんでした。一度も見たことがない野良猫だからなのか、私に心がなかったからなのかはわかりません。だけど、目の前に確かとしてある亡骸をみつめ、真っ先に思ったのは先生の顔でした。
「すごいわ美和子ちゃん! 死んだ猫なんて先生初めて見ちゃった。ありがとう! こんな珍しいものを持ってきてくれて」
私の頭の中では、猫の亡骸を見て驚いた先生が私に抱き着いてくれていました。そして、感極まった先生の満面の笑み。これは、必死になって先生を喜ばそうとしていた私にくれた、神様からのプレゼントだ。きっと、そうに違いない。
玄関に飾ってある幼稚園のカバンを持ってきて、猫の亡骸をカバンの中にしまいました。
その日は朝から、幼稚園が待ち遠しくて堪りませんでした。
発表会は帰りの会で行われます。その日が早く来てほしいと、私は心の底から楽しみだったのです。
そして、事件は起きました。帰りの会で意気揚々と「みんなに見せたいものがある」と言い、私は自分のカバンを持ってきました。
ざわざわしている同級生に、朗らかな笑みを浮かべている先生。みんながきっと驚いて、きっと喜んでくれる。
淡い幻想を浮かべて、カバンの中に放置していた猫の亡骸を「じゃーん」と言いながら見せびらかしました。
その時の様子は、これぞ阿鼻叫喚という状態でした。逃げまどい、泣き叫び、顔を床に突っ伏す同級生。
猫を見て「可愛い」と言ってくれた人は、誰もいませんでした。私の中で、何もかもが崩れていく音がしました。バラバラと頭の中の絵空事がヒビを立てて崩れていき、白色のクレヨンが真っ黒な頭の中を殴り書きされていきます。
いわゆる、パニック状態でした。パニックになっている児童を目の前に、私は何をすればいいのかわかりません。それ以上に、これから起きることに私は恐怖し、目を背けたかったのかもしれません。
先生は私の右頬を力強くビンタすると、素早い速度で猫の亡骸を新聞紙に包みこんで飛び出していきま
した。
同級生たちはまだ泣いています。叫んでいます。そして、私を睨んでいました。
ーーー
「なんでこんなことをしたの?」
延長室に連れていかれた私に、先生が静かなトーンで答えました。いつもの温和な笑顔からは見受けられなかった、冷たくて邪悪が入った表情。
「えっと……」
私は迷いました。素直に言うと、先生をもっとがっかりさせてしまうかもしれない。それ以上に、もっと怒らせてしまうと感じたからです。
先生が喜んでくれると思って死んだ猫を持ってきましたなんて言ったら、また右頬を殴られる。
「い、家の前で、猫が死んでたから、珍しかったから、皆に見せたら、驚くかもって」
できるだけ、先生の顔を見ないように、そして泣かないように心がけました。
「美和子ちゃん。先生が死んだ猫を持ってきたら、美和子ちゃんは喜ぶ?」
優しい口調でしたが、先生は私のことを非難していました。『喜ばないよね、怖いよね。悲しいよね。じゃあみんなもそんな風になるって思わない?』
でも私は、先生が持ってきたのであれば、きっと喜んでいたんだと思います。だって先生は、皆のことが大好きだから。
「ううん」
首を横に振って、場に即した答えを捻りました。
ガラガラ。
「あの~」
後ろから扉が開く音と、聞きなじみのある声が聞こえたので振り返ると、そこにはお母さんが一人立っていました。
「美和子ちゃんのお母さん。お待ちしておりました」
隣で腰かけていた園長先生がそそくさと立ち上がり、お母さんに座るように促します。お母さんは丁重に断りました。
「本当にご迷惑をかけて、申し訳ございません」
開口一番、母は先生たちに頭を下げました。
「お母さんには、電話で話した通りです」
園長先生が、事情を説明しました。お母さんはずっと「ハイ」「すみません」「分かっています」とばかり言っていました。いつも高圧的でダメダメばっかり言ってるモンスターが、ペコペコと頭を下げていることがショックでした。
「後でキツく叱っておきます」
えぇ……
さっきは先生から、先生に問い詰められる前も園長先生に言われたのに、お母さんも参戦するなんて……しかもお母さんははっきり言ってしんどいタイプです。ガーガー最初は怪獣のように怒鳴り散らし、あとからネチネチ心をズサズサ刺しにくる。私はこの後に続く最悪な展開に、心が辟易していました。
「お母さん」
先生がお母さんと向かい合っていました。さっきまでとは違って、とても深刻そうな表情でした。
その瞬間、先生はお母さんに頭を下げました。
「とっさのこととはいえ美和子ちゃんを殴ってしまって、申し訳ありません」
「いいえ、いいんですよ。これくらいしないとこの娘は聞かないですし。また何かあったら次も遠慮なくシバいてください」
このころはまだ、教育的虐待がグレーゾーンの時代でした。今はゲンコツはおろか叱ることさえ抑制される時代と聞きます。羨ましくて仕方がありません。
大人同士がハハハと笑いあう空間がとても居心地悪く、私は消えたかったです。
「ありがとうございました。失礼します」
「せんせい、さようなら」
いつもより小さい声でしたが、決して忘れませんでした。
お母さんが自転車にまたがり、ヘルメットを装着します。ベビーシートに座っていた私は、もうやっと帰れるんだと安心しました。
「では、色々ありがとうございました」
軽く会釈して、自転車はいつもより遅い速度でかけていきました。
……
何も話すことはありませんでした。いつもは幼稚園で起きたこととか、好きな絵本の話とか話します。私が話さないときはお母さんが話を振ってくれます。
だけど、今日はタイヤが地面を蹴る音しか聞こえませんでした。とても気まずく、それにお母さんが怒っていると感じた私は、黙っているしかありませんでした。
「……お、お母さん」
いや、それだとだめです。少しでもお母さんと話したい。お母さんに、ごめんなさいって言いたい。
「ご、ごめ……」
「どうして……」
……え?
「どうしてこんな風に育っちゃったのかしら」
私のほうを一瞥して、母は呟きました。
「何かの病気かしらね。そうでないと、説明がつかないわね」
病気。
ばいきんまんみたいな、人を苦しめたり迷惑をかけたりする。アレ?
私は、病気?
私は、病気なの?
私は、病気なの?
私は、病気なの?
「こんなの普通じゃないわ。あ~あ、厄介なものね」
普通じゃない。厄介。そして病気。
お母さん。私のこと、そんな風に思っているんだ……
私は結局、ごめんなさいを言うことはできませんでした。謝っても、謝っても、私の病気は治らないのですから。そしてなにより、私は自分自身が病気であることを、その日初めて知ったのです。
人に迷惑をかける病気。人を怒らせる病気。人を苦しめる病気。
そしてその病気は、今でも私の脳と心を蝕んでいます。たくさんの言葉、視線と共に。




