用心棒
美和子と出会ってから、一週間後。
私は久方ぶりの残業を終えて、トボトボした足取りで帰ろうとしたときです。
「すみません」
会社から出てきたところを突然、スーツを着た背の高い男性に話しかけられました。
……とてもイケメンです。特に眼光が鋭い。私を睨む毒ヘビのような目に、思わず吸い込まれそうになります。
「高柳美和子というものを探しているのですが」
「あぁ、私ですけど」
しまった……
見知らぬ人にいきなり自分の名前を言うなんて、銀行口座の暗証番号をばら撒くに等しい行為です。
条件反射で正解を告げてしまうのが、私の悪癖です。
「あなた?」
男は一転して、高圧的になりました。
「美和のことについて言いたいことがあるんですが」
「……すみません。私には誰のことかさっぱり……」
「はぁ?」
……もしかして、私はヤクザに喧嘩を売られたんでしょうか。
このままいけば私はヤクザの性奴隷となり慰めものとして組長に献上されるのでしょうか。もしくは、極妻となり背中に龍の入れ墨でも彫る羽目になるのでしょうか。
まぁどちらにしても、この人であれば不幸中の幸いかもしれません。
「とぼけてんじゃねぇよ」
「いや、とぼけてるって言われましても、知らないものは知らない――」
「オレの美和についてです!」
「あなたの美和なんて知りませんよ!」
売り言葉に買い言葉です。まったく、この男は礼儀というものを知らないんでしょうか。……まぁ、顔はいいですが。
「同じ大学だった美和ですよ。しかもこの前、抱き着いてきたらしいじゃないですか」
……あぁ!
「みっちゃんのこと!」
すべての合点が合いました。それならそうと言ってくれたらよかったのに。
「それで?」
この男は、いったい何者なんでしょうか。
「あなたは、みっちゃんの上司か何かで?」
「美和の旦那です」
……え?
みっちゃん、結婚してたんだ。
確かに大学時代と比べて垢抜けているなとは思いましたが、それは年月がもたらした社会適合からなる個性の解脱とばかり思っていました。私も大学時代は足が完全に隠れるスカートや、逆に胸のラインをはっきりと見せたピチピチの服を着飾っていましたが、三年たった今ではジャージで充分だと感じているように。
身なりがとても良さそうなので、玉の輿、というものなのでしょうか。みっちゃんがとても羨ましい。
「聞いてました?」
「え、はい。なんですか?」
「はぁ……まったく、噂通りだ」
みっちゃんの旦那さんは、やれやれと言いたげに深いため息をつきました。
……毎度思うのですが、どうして周囲の人は私には何をやってもいいと思い、こうも失礼な態度を平気で取るのでしょうか。少しは礼儀とか、人を思いやる心とかを持ち合わせていただきたいものです。
「金輪際、美和にはかかわらないでいただきたいです」
「え、なぜ?」
「言われないと分からないのですか?」
そりゃ分かるわけないでしょ。バカなんですか? 私をエスパーか何かと勘違いしているのであれば、とんだ大馬鹿です。みっちゃんには別れるように言っておかないと。
「……は、はい。すみません」
だけど私は、心の黒い霧とは裏腹に男性へ頭を下げました。
私だって、社会を意味なく通過してきたわけではありません。正しさや楽しさよりも調和が求められるこの世界で必要なことは、穏便にコトを済ませることです。たとえ自分が百%正しかったとしても、私のような社会的弱者は謝らなければならないのです。
……ストレスは、半端ありませんが。
「もし仮に美和に近づいた際、今後は警察に通報させていただきます」
「警察……ですか?」
「妥当な判断でしょう。ちなみに、これは美和からの伝言ですが、『仮に訴訟になった場合、取り下げるつもりは一切ない』とのことです」
みっちゃんはいったい、私にどれほどの恨みを持っているんですか。大学時代、卒業旅行で一週間沖縄に行った仲なのに、この三年の間でなにが起きたんでしょう。
「かしこまりました」
色々言いたいことはありました。頭の中の単語が文章になっていれば、私は矢継ぎ早に言葉を乱発していたことでしょう。
だけども、それよりも、面倒くさいことに巻き込まれるのは御免です。
「みっちゃんに聞いておいてください。『私のこと、どうして嫌いになったの?』って」
一度軽く会釈をして、私は男性から離れるように走り出しました。スマホの時刻を見ると、もう十一時二十分です。このままでは終電が間に合いません。明日も仕事があるのに。
まったく、話をするのであれば、昼間とかにしていただきたいです。あの人もたいがい、私と同じ常識のない方です。
けど……かっこいい人でした。




