第2話:魔狼襲来!? 逃げ込んだ鳥人少女とボロアパートの防衛戦
極限の飢えと渇きがもたらす眩暈に耐えかね、俺は壁伝いに這うようにして立ち上がった。限界を訴える胃袋の痙攣を無理やり無視し、視界がチカチカと点滅する中、黄ばんだ古いレースカーテンへ歩み寄ると、縋りつくように引き開けた。
「……っ!?」
窓の外に広がっていたのは、地球の常識をまるごと超えた光景。
天を突くほど巨大で、青白く発光する見慣れない樹木。鮮やかな異国の植物群と、空を横切る、翼を持つ獣の影。鬱蒼とした森の空気が、窓の隙間から流れ込んでくる。
……本当に、異世界なのか。
見渡す限りの大自然。頼れる人間も、知った街並みもどこにもない。絶望感で膝の力が抜け落ちそうになった――その瞬間。
――ズズズズズッ!
「うおっ!?」
足元から地響きのような揺れが襲った。老朽化した壁紙がパラパラと剥がれ、天井の裸電球が激しく揺れる。同時に、生臭い土と獣の匂いが、一気に室内へ流れ込んできた。
「な、なんだ!? 地震か!?」
這うようにして101号室のドアを開け、共有廊下へ飛び出したところで息を呑んだ。
いつもなら廊下の先にあるはずのアパートの正面玄関。そのボロい木の扉が押し破られたように半開きになり、その先が完全に剥き出しの森の草むらへと直接繋がっている。
「なんでアパートの玄関と森が繋がってんだよ……」
混乱する頭に、考える猶予すら与えられない。
露出した玄関の向こう、生い茂る藪を暴力的に引き裂いて、何かが転がり込んできた。
――ガウゥゥゥッ!
大地を叩くような咆哮。跳び出してきたのは、馬ほどの体躯を持つ巨大な黒狼だった。全身の毛を逆立て、真っ赤な眼光を放ちながら、何かを追い詰めている。
目に飛び込んできた圧倒的な殺意。あれに襲われたら終わる――本能がそう告げていた。だが、狼が追い詰めていたのは勿論、俺ではない。
魔狼の前を必死に這いずっていたのは、背中に鳥のような大きな羽を生やした――昔ゲームで見た『ハーピー』そっくりの少女。
泥まみれになって這いずる華奢な肩が、恐怖で小刻みに震えている。背中の白い羽は関節を痛めているのか力なく垂れ下がり、泥と擦り傷から痛々しく血が滲んでいた。
「た、たすけ……人……間……!?」
俺を認めるや否や、少女の顔から血の気がサーッと引いていく。
背後には迫りくる巨大な魔狼。目の前には、見知らぬ人間の男。
完全に退路を断たれた少女の瞳から、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「嫌……嫌ぁっ……!」
死を待つように目を固く閉じる少女を前に、頭の奥で冷めた自分がなおも警鐘を鳴らし続ける。
――逃げろ。関わるな。
見知らぬ異世界の、化け物同士の殺し合いだ。首を突っ込む義理など、どこにもない。今すぐ背を向けて101号室に飛び込み、鍵をかければ、自分だけは助かるかもしれない。
......俺は正義のヒーローなんかじゃない。すべてを奪われ、狭い部屋で震えていたあの日と同じ、ただの敗北者なんだから――。
だが、そんな思いと連動するように、脳裏に忌々しい記憶がフラッシュバックする。親戚たちに住処も遺産も奪われ、誰にも助けを求められないまま、路地裏で身を縮めて死んでいった自分自身の姿が。
絶望に濡れた少女の瞳と視線が交差した、その刹那――。
アドレナリンが脳を焼き切り、極限の飢餓すらも吹き飛んだ。
理屈じゃない。気づけば、勝手に足が床を蹴っていた。
自暴自棄のまま玄関先へ身を乗り出し、泥だらけの少女へ向かって全力で手を伸ばす。突き出された俺の手を見て、少女の瞳が一瞬、恐怖に揺れた。
「クソッ……おいッ! なにやってんだバカ、こっちだ入れッッ!!」
俺の叫び声を聞いた少女の耳が、ピクリと小さく跳ねる。
なぜか驚愕に目を見開いたが、その理由を考えている暇はない。背後からは魔狼の牙が迫っている。
少女は何かを確かめるように、泥まみれの手を俺の掌へと必死に突き出してきた。
「来いッ!!」
その細い手首を力任せにひっつかみ、華奢な身体ごと廊下の奥へ一気に引きずり倒す。
「うおおおおっ!!」
倒れ込みざまに伸ばした手で、木製の玄関扉を叩きつけるように閉め、鍵を捻り込む。
直後――。
――ドォォォォンッッ!!!!
「ヒッ……!」
「くっ……!」
腐りかけた木の扉が悲鳴を上げ、蝶番がひしゃげる。
中央に走った太い亀裂――そこから覗くのは、狂気に血走った魔狼の真っ赤な眼球と、鼻を突く生臭い息だ。
――もたない。
体当たりのたびにネジが吹き飛びそうだ。あと一撃、いや半撃すら耐えられない。
せっかく救い出した命。前世の惨めな自分と重ね合わせた、目の前の少女。腹の底から、ずっと押し殺してきた何かが、ドス黒い熱を帯びて湧き上がってくる。
またか。また目の前で、奪われて踏みにじられるのを見ているだけなのか。
前世では、自分の部屋すら守れず、奪われるのを黙って見ていることしかできなかった。
だが今度こそ――この場所を踏みにじられてたまるか。どれだけボロくても、情けなくても、ここは俺の場所だ。
「俺のアパート(家)だ……勝手に壊してんじゃねぇぞ……っ!!」
魂の底からの咆哮と同調するように、視界が青い光に染まっていった。




