濡れ場を期待されても、わたし絶対にやらないですからね?
いつも1人でいるこの家も、今夜は朝比奈さんと2人きり。
朝比奈さんが先にお風呂に入っている間、わたしは布団やパジャマを準備していた。こういうときはしろちゃんが泊まりに来た時用の布団の出番だ。
朝比奈さんが出た後にわたしがさっと入浴した。お風呂から上がると、わたしのパジャマを着た朝比奈さんはベッドで横になってスマホをいじっていた。朝比奈さんに似合うと思って選んだ赤のパジャマはまさに采配的中だった。
「わたしが布団で寝るので朝比奈さんはベッドを使ってください」
「家主がベッドで寝てよ」
「ゲストを床に寝かせるのはちょっと。しかも大切な推しですし」
「いいから」
やけにしつこく食い下がられたので、しぶしぶいつものベッドに潜り込む。
「それじゃあ電気消しますよ。おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
自分以外の気配や吐息を感じたからだろうか。暗闇の中、しばらく天井を見上げていたけどなかなか眠れない。そんなとき朝比奈さんが小声で話しかけてきた。
「さくらちゃん、まだ起きてる?」
「起きてますよ」
「私やっぱりベッドで寝たい」
「いいですよ。じゃあ交代で……」
わたしが布団から出ようとしたら、朝比奈さんがするりとわたしの横に身体を入れてきた。
「あの、朝比奈さん?」
「独りにしないでって言ったでしょ。一緒に寝て」
あれってそういう意味だったのか。やれやれ。
「いいんですか? わたしは女の子が好きなんだから、間違いが起こらないとか思わないんですか」
「さくらちゃんは絶対そんなことしないでしょ」
朝比奈さんの言う通り、やるわけがないしできるはずがない。大好きな推しにそう信頼してもらえてるのが嬉しかった。
「……わかりましたよ」
壁際に詰めて横になっていると、ちょうど背中同士をお互いにくっつけあって寝る形になった。
背中から朝比奈さんの体温を感じる。わたしの家なのだから当然、ボディソープもシャンプーもリンスもパジャマも全部同じものを使っている。だけど、背中に感じるこの体温は同じじゃない。耳をすませば聞こえてくる朝比奈さんの息遣いも、心臓の鼓動も。
わたしの部屋に自分以外の女の子がいる。しろちゃんとは長い時間を過ごしてきたからそういう感覚にはならないけど、わずかな高揚感と緊張感を伴った、なんだか不思議な感じ。朝比奈さんが動かした足先がちょんとわたしの脚に当たった。
「昼間も言ったけど、今日のことは忘れてね」
「イヤです、忘れません。朝比奈さんがどうしてトップアイドルを目指してるのか、どんな想いでこれまで頑張ってきたのか」
「そう言われるとちょっと照れるんだけど」
「わたしがアイドルに思ってた邪な感情も。なかったことにはできません」
「相変わらず律儀だなぁ」
「それをなかったことにしたら、わたしの今日の成長がなくなっちゃうので」
朝比奈さんはぷっと吹き出した。
「……ほんとにもう。そういうとこだよ〜〜」
「それに朝比奈さんのおかげで、わたしも一つ大切なことを思い出せました」
「なに?」
「思い出は永遠に色褪せることはないってことです」
その瞬間朝比奈さんが目を大きくすると、そこにキラリと星が瞬いた気がした。
「蒼依とのキラキラした宝石箱みたいな思い出も、絶対に消えたりなんかしない。それって、朝比奈さんのお父さんのことと同じなんじゃないかなって」
昼間のときよりもしなやかに、朝比奈さんはわたしの腰を目一杯思いっきり抱きしめた。
「ちょっ、どさくさに紛れてパジャマの中に手を入れるのやめてもらっていいですか?」
「なんでよー。くすぐったい?」
ニヤニヤ笑いながらわたしのおへそあたりを朝比奈さんの指で撫でられる。
「しろちゃんみたいなことやめてくださいよ」
そう言った瞬間、しまったと無意識に口を手で覆う。もろに失言だこれは。
「えっ、有栖さんってこんなことするの? もしかしてあなた達、いつもこんなことしてるの? せっかくだし私にもしてもらおうかなぁ」
「してませんし、やらないですってそんなこと!」
「ねぇ、じゃあえっちなのじゃなくていいから〜。ハグしてよ〜〜」
闇の中でだんだん目が慣れてきたからか、朝比奈さんの大きな瞳がわたしをじっと見つめているのがわかった。それと、胸元に妖艶に垂れる汗も。
「えーっ、暑くなりません?」
朝比奈さんは無言で両手を広げて、いつでもウェルカムって感じでわたしのハグを待っていた。
「はぁ、わかりましたよ」
布団のなかで朝比奈さんにぎゅっとハグをした。華奢な身体を強く抱きしめすぎて壊してしまわないように。繊細に柔らかいタッチで、そっと。
「ふふっ、なんかくすぐったいな。さくらちゃんの身体、温かい」
わたしの胸に顔を埋めた朝比奈さんの声がこもって聞こえる。
これだけ身体を密着させればわかる。どれだけわたしの家の装飾品で匂いを整えても、生身の身体から放たれる香りを打ち消すことなどできなかった。女の子特有の甘い香り、それは人それぞれ特有のもの。少し汗ばんだ胸元の谷間、唇、それから髪の毛。それらからは紛れもなく朝比奈さんのいい匂いがした。
「やっぱりさくらちゃん体温高いんじゃない?」
「お風呂上がりだからじゃないですか? そういえば、しろちゃんと蒼依にもよく言われた気がするけど……」
「やっぱりその2人にもハグしてるんだ」
「それ以上そのネタを擦るようでしたらやめさせてもらいます」
「ごめんって。……ねぇ、もう1個だけお願いしていい?」
「さっきから注文ばっかりですね。なんですか?」
「敬語、いい加減やめて」
「はい」
「私もさくらって呼んでいい?」
「いいですけど」
「ほら、まだ敬語残ってる」
「ごめんなさい、まだ慣れてなくて」
「有栖さんとか森薗さんと喋るときと同じ感じで喋ればいいじゃん」
「そっか、そうだよね……」
いつまでこのハグを続ければいいんだと思っていると、朝比奈さんがわたしの胸元から顔を出した。
「私のこと名前で呼んで。朝比奈さんじゃなくて、紅羽って呼んで」
「お願い、1個じゃなかったの?」
「いいから。今呼んで」
「……紅羽」
それを聞いた紅羽は満足そうに微笑んだ。
「私、あの日ビルから落ちてよかった。さくらと出会えたから」
ビルから落ちたらダメだろうと思いつつ、その気持ちはわたしも同じだった。
「わたしも紅羽に出会えて良かった。大好きな推しのこともっと知れたし、なにより紅羽と友達になれた」
「うん」
ほんのちょっと前は手が届かないどころか、住む世界そのものが分断されているような相手だった紅羽。それが今では、手が届くどころか密着してハグしてるだなんて。わたしはそれが未だに信じられなくて、夢の中にいるのではないかとさえ思ってしまう。
「ねぇ、さくらの初恋っていつなの? やっぱり森薗さん?」
「中学生の修学旅行のテンションみたいなんだけど。いい加減寝ない? 明日も朝早いんだし」
「私のこと一番好きって言ってたでしょ? どっちが早かったの?」
「無視ですかそうですか……。それはアイドルとして『片想いラプソディ』のメンバーの中でってことで。それ以外のアイドル全部の中でも一番好きだけど……」
「そうだよね。さくらの好きは推しに対しての好きだよね」
「それ以外に何があるの? 今日の紅羽、いつもよりヘンだよ。普段もヘンだけど」
「ふふっ、そうかも。誰かさんのせいでね」
無邪気な子供みたいに笑う紅羽。事務所にいるときみたいに強張ってない、リラックスしていて自然体な紅羽。
「そろそろ眠くなってきたかも。ねぇ、最後に1つお願い言っていい?」
「どうぞ」
紅羽は暗闇の中でわたしの手をぎゅっと握った。それからにっこりと微笑んで、最後の言葉を口にした。
「私のこと、ちゃんと護ってよね。絶対、片時も離しちゃダメだからね」
「もちろん。それがわたしの役目だから」
わたしも間髪を容れずに答えた。その後、紅羽は満足したのかそのまま寝てしまった。薄暗い部屋の中、紅羽の寝顔をじっと見つめる。
いつも喜怒哀楽に溢れている彼女の寝顔は、どこまでも澄み切っていて純粋無垢なものだった。
お母さんにも言われた通り、最初は断れないからってしぶしぶ引き受けた依頼だった。だけど今は違う。わたしがこの依頼を全うしたい、他でもないこの人のために。
紅羽の髪がわたしの顔に垂れてきて、くすぐったい。紅羽を起こしてしまわないように、紅羽に気づかれないように。綺麗なその髪先に、そっと指で触れる。まるでゆびきりげんまんをするように、紅羽の髪をわたしの指に絡ませた。
「残りの期間、わたしがあなたを護ります。ずっとそばにいます。絶対に、何があっても」
わたしは誓いの言葉を独り静かに口にする。誰に約束するでもなく、わたしは1人だけの儀式を済ませた。
「おやすみ、紅羽。最後の撮影、がんばろうね」
他の誰でもない、わたしがこの人を護るんだ。その日は珍しく、朝になってもしろちゃんは不法侵入してこなかった。そして月日が流れ、わたし達は最後の撮影の日を迎えた。




