相手のことを何も知らないのはお互い様なのであって
「さくらちゃん、さくらちゃん」
2回目の撮影が終わって数日経ったある日の放課後、朝比奈さんの自主レッスンが終わって一息ついていた時間。窓の外の雨を眺めていると、隣に座っている朝比奈さんからツンツンと肩を叩かれた。
「あ、ごめんなさい。何か言いました?」
「大丈夫? なんか考え事してるみたいだったけど」
「色々思い出してました。もう全部済んだ話なんですけどね」
事務所の休憩所で2人きり。わたしはぼうっとしながら蒼依と付き合っていた日々を追憶していた。あのウソみたいにキラキラしてた時間は、今あるわたしの日常にはもう戻ってこないのに。
「これ見て。今日は台本を用意してきたの」
朝比奈さんが鞄の中から紙束を取り出した。
「突然なんですか一体」
「私が書いてきた脚本に沿って練習しようと思うんだけど、どうかな?」
「いいですよ」
今日の事務仕事は一通り終わらせていたから、暇を持て余していたところだった。推しの仕事の役に立つならと思って台本を読み進めてみると、妙な既視感が。
「私の後に続いて読んでみて。『ごめんね、さくら。こんな終わり方で本当にごめん』」
「『く、紅羽は悪くないよ〜』」
「ちょっと! 語尾を伸ばす感じだと冗談っぽく聞こえるでしょう? ここは上手くいってたはずの主人公が、ある日別れを切り出されるシリアスな場面なんだけど」
「はぁ……失恋じゃなくてまずは付き合うまでの演技を練習した方が良くないですかね?」
これ、まんまわたしと蒼依のことみたいじゃん。まるで当事者が描いたかのような再現度の高さに、なぜだか声に出して読んでると涙が……。わたしの推しはエスパーだったのか?
もしかしてしろちゃんから聞いたのかな。でも蒼依と付き合ってたときも2人で何をしたとか詳細な話は一切してないし。だけどあの幼馴染だったら篁さんを使って盗撮してたとか十分やりかねない。
「『それでも、ごめん。さくら』」
「『だから紅羽が謝ることなんか……』」
しばらく沈黙の時間が流れた。
「ちょっと、次のセリフ読んでよ。恥ずかしがらずに」
このアイドル、もしかしてわたしのことを試してるのか? しろちゃんから横流しされた蒼依との恥ずかしいやり取りの数々をわたしに音読させることで尊厳破壊を……? あまりにもタチが悪すぎない?
「すぅーはーっ。……いきます! 『「ねぇ、最後に1個だけお願いしてもいい? ……キ、キ、キ……キスしたい」』」
「…………」
朝比奈さんは真剣な表情で台本とわたしの顔を交互に見て黙り込んでいる。わたしの演技、なにかお気に召さなかったですかね? そう思っていたら突然パンっと手を叩いて立ち上がった。
「そうだ、いいこと思いついた! わたしが森薗さん役やるからさ、キスの練習するのはどうかな?」
「はいィ!?」
「ごめんね。脚本なんて初めて書いたからへたっぴだし、さくらちゃん達のときとシチュエーション全然違うと思うけど」
あなたが作ってきた台本とわたしが経験したことはほぼ同じなんですけど!? わざとじゃないならもはや天才脚本家だろ、わたしの推し。
朝比奈さんはジリジリとわたしを本棚のある壁際に追い詰める。
「さくらちゃん、ジッとしててね……あっ」
朝比奈さんの指先がわたしの指に触れる。瞬間、お互いに顔を見合わせた。朝比奈さんは頬を赤くしていた。
「えっと……ご、ごめん」
「朝比奈さんって結構ウブですよね」
「は、はぁ!?」
この感じだと本当に彼氏とは手も繋いだことすらないんだろうな。あまりにも反応が初心すぎて小学生みたいだ。あ、今のは決してディスってるわけじゃないからね。
「そんなふうに言われたら私だって本気を見せざるをえないんだけど」
「ちょっ、やめ……ひゃっ」
ひんやりとした朝比奈さんの指がわたしの首や腰、おへその近くに触れる。
「もしかしてさくらちゃん悦んでる?」
「悦んでなんかないです!」
わたしはキレ気味に反論した。
「でもさっきからえっちな声出してるじゃん。そんな声聞かされると……なんかこっちまでヤラシイ気分になってきたんだけど」
朝比奈さんがわたしの手や腕にキスしだした。
「あの、いくらなんでも段階飛ばしすぎ……んっ」
朝比奈さんはどんどん役にのめり込んでいくタイプみたいだった。キスする対象はやがて首やほっぺにまで及んだ。
「こんなふうに森薗さんに触られたの?」
だんだん台本とは無関係のセリフが朝比奈さんの唇から飛び出してくる始末。
「ちょっと、ほんとにこれ以上はやめ……」
わたしだけじゃなく、朝比奈さんの心臓の鼓動もはっきりと聞こえる。
「あんな女のことなんか忘れて。ねぇ、私と……」
とうとう唇と唇が触れそうになって、わたしも恍惚としてしまっていた。
「ねぇ、女同士ってこうやってやると気持ちいいの?」
ああ、何もかも『もういいや』と思えたそのとき。蒼依の笑顔が頭のなかで強くフラッシュバックした。
「ダメっ……」
わたしは反射的に朝比奈さんに触られるのを拒絶した。
「何もそんなに嫌がらなくても……」
「こんなこと友達とは普通しません。今日の朝比奈さん、どうかしてますよ」
それまで穏やかだった朝比奈さんが一転、キッとした表情に変わった。
「たかが恋愛になんでそんなに熱くなってるの? アホらし、ばっかみたい」
「たかがってなんですか、たかがって」
「恋なんてろくなものじゃないわ。恋が絡んで楽しかった思い出なんて私にはないもの」
「それは朝比奈さんの意見でしょ。わたしはそうは思いません、恋愛は打算でやるものじゃない!」
わたしもムキになってたから気づかなかったけど、結局わたしの主張だってわたしの個人的な意見でしかなかった。だんだんお互いの気持ちがヒートアップしていく。
「打算で何が悪いの? 何度も言ってるじゃない、これは仕事でわたしが成功するための手段なの!」
「さっきから何をそんなにムキになってるんですか?」
「ムキになってるのはそっちのほうでしょ。たかが恋愛なんかで……」
「そうじゃなくて、なんで恋愛にいちいちピリッて反応するのかなって。朝比奈さん、最近ちょっとヘンですよ」
「だって恋愛なんて、どうせ別れたら全部意味なくなるじゃん! なんのために時間かけて付き合うの!? 私にはわかんない!」
「わたしが彼女と別れたって知ったうえでそれを言うんですか? わたしがどんな想いで蒼依と別れたのか知らないくせに!」
朝比奈さんが震えて無言になったところに、わたしはすかさず次々と言葉の刃を浴びせてしまう。
「朝比奈さんにはわからないでしょうね! 生まれたときからそれだけ容姿が良くて、よりどりみどりな朝比奈さんには!」
パシーンと静かな部屋に平手打ちの音がした。
「えっ……」
「あなたに何がわかるの? 私のこと何も知らないくせに、知ったふうなこと言わないで」
それは朝比奈さんだって同じでしょ! って言い返したかったけど。推しが本気で目に涙を浮かべているのを見てそんなことを言う気になれるわけもなく。
「……ごめんなさい、ちょっと外行って頭冷やしてきますね」
「あっ……待ってさくらちゃん!」
わたしはその場から逃げるように駆け出した。最低だ、わたし。推しから絶交されてもおかしくないぐらいの、我ながら本当に最悪な発言だったと思う。
事務所の外に出ると雨はさらに強くなっていたけどわたしは構わず走った。向かい風が吹いて雨が叩きつけるようにわたしの身体を襲う。だけど、どれだけ走っても蒼依の笑顔がいつまで経っても消えない。なんで、どうしてあのタイミングで思い出したの?
橋の上に差し掛かったところで、あの笑顔が呪縛みたいにわたしの歩みを止めた。生温かさの残る春の雨が服にベッタリとついて不快だった。水たまりを見ると街から出たさまざまな色のライトが反射している。
「お願い、さくらちゃん。話を聞いて」
朝比奈さんがわたしに追いついて後ろから抱きついた。
「……放してください。そんなに恋愛ごっこがしたいならどうぞ他の人とやってください。そもそも朝比奈さんには彼氏が」
「彼氏とはもう別れたの……!!」
その瞬間わたしは振り向いた。
「お互いこれ以上付き合っててもいいことないから、別れようって」
だから2回目の撮影もガタガタだったのかな。わたしは今頃になってようやくその関連性に気づいた。
「彼氏さん、最後になんて言ってましたか?」
「悪かったって言ってたよ」
一応謝ったのか。だからといって彼を許すつもりはないけど。
空を見上げると、ふと昔のことを思い出した。ああ、そういえば蒼依が野良猫を助けたときもこんな日だったっけ。
大雨の日に野良猫が川で流されていたとき、運動神経のいい蒼依はそのまま泳いで1人で助けてしまった。わたしはラインをもらって後から駆けつけたんだけど、そのとき抱きしめた猫に話しかけていた蒼依が可愛かった。ああ見えて蒼依は動物好きなんだと今更になって思い出す。
「私焦ってた。結果が出ないからって、強引なやり方であなたを傷つけて……本当にごめんなさい」
朝比奈さんは俯いて申し訳なさそうにしている。元から演技に入りやすい気質なのもあるだろうけど、焦っていたゆえの行動ならしょうがないと許せる気もする。
彼女もわたしと同じなんだ。疲れて傷ついて、雨の中びしょ濡れになって立ち止まっている。
わたしも朝比奈さんも恋愛で傷ついている、お互い似たもの同士だったということ。
「奇遇ですねわたし達。同じ時期に2人とも恋人と別れるなんて」
鉛色の空から落ちてくる雨粒がネガティヴな感情を洗い流してくれたのだろう。わたしもようやく笑って返せるぐらいには気分も落ち着いていた。
「わたしのほうこそ謝るべきなんです。朝比奈さんのこと何も知らないのに、あんな酷いこと言って。ごめんなさい」
「それはお互い様でしょう」
雨はまだわたし達を無慈悲に貫いていく。
「ねぇ。またさくらちゃんを傷つけるかもしれないけど、私にはわからないから聞いていい?」
「……なんですか?」
「どうしてそんなに必死なの? なんでそんなに恋にこだわるの? 別れた今でも、森薗さんはあなたを苦しめて傷つけてるのに」
「しょうがないじゃないですか、だって好きになっちゃったんだもん!」
雨とわたしの涙がぐちゃぐちゃに混ざって、もうどっちがどっちかわからなくなっていた。
「わたしだってこんなに辛くて苦しいなら忘れたい! だけど、それでも! 蒼依のことが本気で好きだったから……!!」
朝比奈さんの抱きしめる力が弱まった。わたしの慟哭を聞いて引いてしまったのだろうか。言葉を慎重に選ぶように、朝比奈さんはポツポツと喋り出した。
「私と全然違うね。私は彼氏と付き合ったのだって、断ったら恨まれたり仕返しされるんじゃないかって思ったからなのに」
「そう……だったんですか」
「幻滅した? さくらちゃんが大事にしてた恋をこんなふうに杜撰に扱う私のこと」
そんなわけない。朝比奈さんが優しいのは分かってるんだから。そっか、何かそうさせた理由だあるんだ。わたしと同じで。
白でも黒でもない、どちらともはっきりしない天を見上げてそう感じた。だったら今のわたしにできることはせいぜい、と思いつつ深呼吸する。
「朝比奈さん。わたしと蒼依の話聞きたいですか?」
「えっ……?」
わたしは力無く微笑んだ。
「お互いのこともっと話しませんか? わたし達、思ってた以上にお互いのこと何にも知らなかったんだなぁって思ったので」
こうして、今更ながらわたし達は向き合って対話することにした。まず初めに語るのはわたしからだ。




