やるときは徹底的にやれって幼い頃から母に教えられてきたので
後日、事務所にて。わたしは与えられた雑務をこなしたり、朝比奈さんが休憩時間のときに一緒に外に買い物に行ったりなどして過ごしていた。
リアリティショーの撮影がない日でも朝比奈さんはレッスンを欠かさなかった。予定されている撮影最終日が終わってもそこから数週間後にはライブがあるのだから当然だ。
そんな朝比奈さんは個人トレーニング中だったから、わたしはその間にスポーツドリンクを買いにパシリから戻ってきていたところだった。まさにマネージャーの仕事らしい雑用である。
そんなときだった、最悪な状況に遭遇してしまったのは。
「あの子すげーお堅い感じでさぁ、結局手すら繋いだことないんだよね。いい加減僕も面倒になっちゃって」
「ああ、付き合ってる彼女の話?」
朝比奈さんがレッスンしてるフロアへの移動中、空き部屋で男女数人で雑談しているところにでくわした。目立つのはそのなかでも一際目立つ容姿の男の子。
あれって朝比奈さんの彼氏さん? 誰のこと話してるんだろう。
「本人から聞いたんだけど、父親が蒸発してるんだよね。家庭環境も崩壊してて母親とも険悪みたい。デートのときその話されてめっちゃ気まずかったわ」
「マジ? 重っ」
…………何それ。もしかして朝比奈さんの陰口言ってるの?
朝比奈さんの彼氏から語られる噂話を聞いてわたしはその場にフリーズしてしまった。そんなこと今まで本人から一度も聞いたことがなかったから、朝比奈さん本人の口から聞くまでは絶対に信じないけど。かといって当然、こんなデリケートな話題を興味本位でわたしから聞くつもりもない。
「アイドルやってるのに箱入り娘すぎてつまらないんだよね。片親のくせにさぁ」
「片親パンとか食べてそう」
ぎゃはははと耳障りな笑い声が聞こえてきた。片親パンっていうのは、料理をする時間のない親が子供に買い与えていそうなパンのことらしい。噂話程度ではなく、陰口であからさまに朝比奈さんを馬鹿にしているのがわかった。
そのときわたしの頭の中で糸がぷつんとキレるような音が聞こえた気がした。陰口自体好きではないのだけど、学校で自分が言われたときとは比べ物にならないくらい遥かに不快感が込み上げてきた。
気がつくとわたしは考えるよりも先に身体を動かしていた。後で振り返ると、我ながら本当に馬鹿だと思う。
「あなた、朝比奈さんの彼氏ですよね?」
「一応ね。あー思い出した、キミはこの間の。紅羽のマネージャーなんだっけ?」
「えーっ、さっきの話聞かれてたらまずいんじゃね?」
その場にいる連中の薄ら笑いが心底不快だった。
「……あなた達の言ってたことが本当かどうかはわたしにはわからない。だけど片親だからってそれがなんだっていうんですか。そうやって人を馬鹿にして面白いですか?」
「やっぱり聞いてた? 別に紅羽のこと悪く言うつもりはなかったんだけどさ。事実を言っただけで」
こんな最悪な話を朝比奈さんに聞かれてなくてよかった。わたしは息を深く吐いて心を落ち着かせる。
「芸能界が腐ってるって話、本当だったんですね。どれだけ外見が良くても中身が腐ってる、あなた達みたいなクズが集まる吹き溜まりなんだから」
大好きなくれはちゃんが一生懸命頑張ってる業界を侮辱する発言をして、わたしって本当に最低だと自己嫌悪する。でも、それぐらいこの人達が許せなかった。
「オメーなんだよさっきから、あァ?」
頭に血がのぼりやすい人なのか、わたしの胸ぐらを掴んで大ぶりのパンチをお見舞いしてきた。相手は180センチ台後半ぐらいの長身でわたしとはだいぶ体格差があったけど、この程度ならたとえ寝起きでも瞬殺できるだろう。
片手で右ストレートを受け止めたあと軽く手首を捻ってやると、男は呻き声を上げた。そっか、頭に血がのぼってるのはわたしも同じなのか。
「これ以上怪我したくないならどいてください」
「な、なんだこの女……」
地べたに這いつくばる芋虫みたいな男を一瞥する。わたしが話したいのはあなたじゃない。その奥の、外面だけ整ってるゲス野郎のほうだ。
さっきのやり取りを見たからか、他の人は誰もわたしに手を出してこなかった。跪いている男を無視して歩みを進めると、ゲス野郎は顔を歪めた。
「ひっ……」
わたしが手を壁に叩きつけて、ゲス野郎を逃げられなくした。壁ドンの体勢になってしまったけど、無論女の子の誰もが憧れる甘々なシチュエーションなんかではない。わたしがぶち壊したその場の空気はもっと殺伐としたものだった。
「朝比奈さんに謝ってください」
「な、なんで僕が……」
男の薄ら笑いが想像以上に不快だったので、わたしは腕で首元に圧力をかけた。
「謝って」
男が額に汗を浮かべた。メリメリメリと音がする。わたしの骨の音ではないけど。
「わ、わかったから……わかったから離してくれ」
腕を放してやると、男はその場に尻餅をついて放心状態になった。周りを見渡すと芸能人の男女達がわたしを見てドン引きしている。
「言いたいことがあるなら朝比奈さんじゃなくわたしに言ってください。いつでもどこでも誰とでも、何人でも相手になるので」
ニコリと微笑むとその場の全員の顔が引き攣ったのがわかった。しんと静まり返ったその場にわたしのスニーカーの足音だけがこだまする。こんな不快な場所からはとっとと離れようと思い、すぐにその場を後にした。
朝比奈さんいるフロアに戻っても彼女がいなかったんだけど、数分待ってると彼女が現れた。
「あれ、朝比奈さんどこにいってたんですか」
「休憩がてらお手洗いに行ってただけ」
あんなことがあった後だから正直気まずかった。『あんな最低な男とは別れた方がいいですよ』なんてわたしから他人の恋愛にとやかく言えないし、さっき起こったことは言わないでおくことにした。
「ごめんなさい、わたしちょっと道に迷っちゃって。買ってくるの遅れて温くなっちゃったかも。……もう1回買ってきますね!」
「ううん、いいの。いつもありがとう」
その後見た朝比奈さんの目は普段より赤く見えた気がした。
「ねぇ、百合嶋さん。休憩時間に考えたんだけどね、もっと根本的な改善策が必要だと思うの」
「はぁ。と言いますと?」
「それはね……」
朝比奈さんのその後の発言にわたしは驚愕して思わず叫んでしまった。
「はいィ!?」




