第29話 海波統べよ
ブリタニアに滞在し始めてから、ひと月ほどが経過した。
本来はもう帰国しているはずであったが、療養のためまだ帰る気配はなかった。
しかし私が滞在している理由はそれだけではなく、ヴィルヘルムもまた帰国することが出来ないからでもあった。
ヴィルヘルムが父、皇太子フリードリヒが病に侵されること数週間。
最善の治療もむなしく、彼の容態は一向に回復へと向かっていなかった。
そのため、ヴィルヘルムが代理として様々な式典に顔を出す必要があったのだ。
そして私が受けた命は、ヴィルヘルムのお目付け役。
彼が帰国の途につかない以上は私も帰国することが叶わない。
様々な要因が重なっての滞在の延期であったが、その生活を私は案外満喫していた。
オッドボーズ・ハウスに居を構えている私の元には、日々様々な人が訪ねてきていた。
その多くはつながりを求める政治家や貴族であるが、今日は少し違った。
今日この別荘を訪ねてきているのは、件のヴィルヘルム本人であった。
「……して、けがの調子はどうだ?」
「順調に治っております、陛下。この前は贈られた拳銃で射撃も行いました」
「射撃? ジェームズが良く許したな」
「調子に乗っていたらかなり怒られました。流石はヴィクトリア女王陛下が主治医に選ばれるだけの男です」
私はヴィルヘルムと連れ立って、ワイズ島の周囲を散歩していた。
この島は小さなアリビオン島と呼ばれるほど変化に富んだ地形が有名だ。
高台に建った自然あふれるオッドボーズ・ハウスから少し歩くと、石灰岩の断崖絶壁がそびえ立つ海岸線がすぐに姿を現す。
海岸線を歩きながらふと目を海に向けると、航行する艦艇が煙を上げているのが見える。
遠目でも見えるその艦影は、ブリタニアが世界に誇る海軍の艦艇であった。
ヴィルヘルムは歩く足を止め、首から下げていた双眼鏡で艦影を眺める。
「陛下は、今世でも海軍に魅力を感じられますか?」
「無論だ。海を制する国は世界を制する国。強大な海軍を保有する国は世界を制する国だからな」
「……たとえ、その海軍に裏切られたとしても?」
「あれは余の海軍が裏切ったのではない。国内の共産主義者など非国民が、彼らをけしかけたのだ」
苦々しい顔でそう言い、ヴィルヘルムは双眼鏡を下ろす。
その眉間にはしわが寄っており、心の中では忌々しく思っていることは丸わかりであった。
彼は海に背を向けて、歩きながら話す。
「もうすぐで、ジュビリー記念の観艦式がある。知っていたか? ヒンデンブルクよ」
「……ええ、存じ上げております、陛下。私もこの度バッカンドに乗艦して参加することになりましたので」
「バッカンドに乗艦? どのような経緯で?」
ヴィルヘルムは驚いた表情でこちらを見て、足を止める。
私がジョージに誘われたことを彼は知らないことを思い出したので、この際に伝えておこうと思う。
しかしことの経緯を知った彼は、少し嫌そうな顔をした。
「そうか……しかもブリタニアの新鋭戦艦に。まあ一度見てくると言い」
「……乗艦しない方がよろしいですか?」
「いや、海軍のことを知る良い機会になるだろう。それも世界最高峰の海軍を、だ。余は簡素なゲルマニアの戦艦で我慢するとしよう。もはや大洋艦隊はないからな」
「大洋艦隊……ですか。組織自体は我が家の資産を使えば可能でしょうが」
その言葉を聞いたヴィルヘルムは、目の色が変わった。
「本当か!」
「ええ。……艦隊を維持するにはまず建造するだけの造船所、停泊することのできる港湾、補給することが出来る供給路の確保……などなどほかに必要なものもありますが、おおむねこのようなところです。これらは金をかければ作ることはできますし、むしろ港湾の整備や造船所の整備は、海外への進出を官民共に促し、帝国に多大な利益をもたらすでしょう。資材の確保も、艦隊によるシーレーンの維持が出来れば比較的容易かと」
「それで大洋艦隊を整備できれば、ブリタニアにも対抗できる覇権国へと成り上がれるではないか! ヒンデンブルク、ぜひ……」
「しかし陛下、私が金で用意できるのはあくまでもガワだけです。ガワがあっても中身が伴っていなければ意味はありません。中身を育てるのはティルピッツやシェーアなどの優秀な海軍将校であり、この世界には彼らはいません。そしてブリタニアとの対立も引き起こしますし、そもそも資材を確保するために必要とされる植民地も、既にブリタニアとガリアが独占しておりそこに介入するのは難しいです。南洋諸島を確保したところで、遠すぎますし」
あーだこーだと理屈を並べていると、ヴィルヘルムはやはり嫌そうな顔をする。
しかし前世でそんなことは痛いほど経験しているので、反論することもできなかった。
仕方なく、機嫌取りのためにも少し甘いことを言っておこう。
「折角ブリタニア海軍の上官と話すことが出来る貴重な機会をいただいたので、その際にそれとなく話を振ってみようと思います。もしかすると、あちらの造船技術や軍の教練に関する情報を得られるかもしれません」
「そんな軍事機密を簡単に渡すとは思わないが……」
「だから一応です。期待しないでほしいですが……資金提供の見返りにであればあるいは……とだけでも」
その後、私はヴィルヘルムが本島に帰還するのに合わせてオッドボーズ・ハウスを離れた。
ただ、ロンディニウムによることはなくそのまま観艦式が行われる港町へと移動する。
そこでヴィルヘルムとは別れ、私はブリタニア海軍の艦艇が停泊している岸壁に向かう。
雄大な艦影をたたえるブリタニア海軍の艦艇たちの中に、ひときわ輝く大きな艦艇がある。
ブリタニアが誇る新鋭戦艦、バッカンドの姿がそこにはあった。
その甲板上には、ジョージが手を振って立っているのであった。




