第2話 母国に「さようなら」を
「……アリス、アリス! 聞いているのか?」
父の声が聞こえ、私はうたたねからはっと目覚める。
私の乗った黒い自家用車は、夜の闇を縫うように走っていく。
路上で寝ていた野良猫は見慣れない車が近づいてくると、脇へと走り去っていった。
「申し訳ございませんわ、お父様。つい……」
「構わない、お前も疲れているんだろう。長年連れ添った婚約者を失っただけにとどまらず、祖国をも失おうとしているのだから」
車はゆっくりと減速して、人気のない霊園の前で止まる。
私と父は車から降り、父は運転手からオイルランタンを受け取った。
ランタンがあたりをぼうっと照らし、私たちは霊園の中へと踏み入る。
このような情勢でも手入れの行き届いた霊園を、私たちは静かに歩む。
この霊園は貴族や大商人が眠っており、どの墓石も立派である。
だがその中に一つ、他とは一線を画す豪華さの墓石が置いてあった。
「シャルロッテ、久しぶりだな……しばらく来ることが出来ず申し訳ない」
父はそう言い、墓石の前にひざまずいた。
この墓石の下に眠っているのは、私の実の母だ。
私も用意していた花束を墓石の前に置き、ひざまずく。
ガリア王国の没落公爵家に生まれた母は、父と結婚することで一転裕福な生活を送れるようになった。
しかし幼少期のくせは抜けず、流行り病で亡くなるまで質素な生活を貫き通した。
そんな母にせめて贅沢をさせてあげたいと、父はこれほど大きな墓石を用意したのだ。
墓石の前にひざまづきながら、在りし日の母との会話を思い出す。
忘れもしない「すべての人に愛される人になりなさい」、という母の言葉……。
殿下の婚約者となった時から一貫して言い続けられた、王妃としての、国母としての在り方を母は示し続けてくれていた。
「……お母様、私は貴方の言葉を片時も忘れることはありませんでした。しかし私はお母様の言葉を裏切ってしまいました。私は、お母様が愛したこの国を見捨てなければならなくなってしまったのです」
「すまない、シャルロッテ。私はアリスも、血のつながっていないジュリーも等しく愛するつもりであった。それが君との約束であったから……」
私も父も、墓石に向かって懺悔の言葉を口にする。
だが墓石が口を開くことはなく、ただ冷たい空気が頬をなでるだけであった。
父はやるせない虚しさにさいなまれ、立ち上がって墓石に触れた。
「私は父親だ、だが同時にロートシルド家の当主でもある。私は血のつながっているこの子を優先せざるを得ない……ふがいない父親ですまなかった……」
父はそれだけを言い、墓石に背を向けて母のもとから去ろうとする。
その頬に一筋伝う涙は、オイルランタンの光を反射してキラリと輝いた。
私も最後に墓石に手を触れ、そして別れを告げる。
「……お母様、これが根性の別れとならないことを祈っていますわ。再びガリアの地を踏めるようになったとき、またお会いしましょう」
私は墓石をなでると、父の待つ車へと戻った。
父の頬に涙の後はなく、むしろ険しい表情を浮かべていた。
そのまま車は走りだし、霊園ははるか後ろへと消えていく。
「アリス、お前の亡命先は打ち合わせ通りゲルマニア帝国だ。すでに向こうに協力者は用意してある」
「……本当に、お父様は一緒に亡命なされないのですか?」
「ああ、私はこの国とジュリーの行く末を看取らねばならない、たとえこの国が炎の底に沈もうとも。それが紳士としての務めだ」
父はそう言うと、男物の大きな旅行かばんを私に渡した。
長年父が愛用してきた革製のかばんは、その年月を物語るように艶やかに光り輝いている。
銀行家としての父の象徴ともいえるかばんを受け取った私は、少々驚いた。
「その中にはお前がゲルマニアで生きるうえで必要なものをいれてある。その中には銀行の金庫の鍵も同封している。向こうで金に困ったら使いたまえ」
「ありがとうございます、お父様。大事に使わせていただきますわ」
「……それと、これをやろう。家族の思い出だ」
父はそう言い、私の首にロケットペンダントをかけた。
ペンダントを開いてみると、私、父、母の三人の写真、そして向かい合いように私、父、そしてジュリーの写真が入っていた。
私はそっと閉め、胸の奥深くへと大事にしまい込んだ。
その後――私たちの間で会話が起こることはなかった。
ただ車の揺れに身を預け、流れていくガリアの夜景を目に収めていく。
闇の中に輝くガリアの町は、なぜか普段よりも美しく見えるのであった。
◇
11月10日――それは霧が深く垂れ込むあいにくの天気であった。
私はガリア王国の首都ルテティアにある、ルテティア北駅に立っていた。
その霧を割るように、奥からもうもうと黒煙を吐く蒸気機関車が入線してくる。
『ルテティア発ブランデンブルク行き急行列車』と表示された機関車は、その巨躯を静かに横たえる。
国の技術の発展の正の部分を切り取ったようなその列車は、まさしく夢を運ぶ豪華列車であった。
ガリアの芸術の粋を極めたような車内は、現実と理想の乖離を強く印象付けた。
「おはようございます、マドモアゼル。パレ・ロワイヤルにご乗車いただき誠にありがとうございます。お手荷物をお預かりいたしましょうか?」
「ええ、お願いいたしますわ。このトランクは預け荷物に、こちらの旅行かばんは結構ですわ」
「承知いたしました。……恐れ入りますが、乗車券とパスポートを拝見してもよろしいでしょうか?」
「ええ、こちらですわ」
私は父があらかじめ用意しておいた乗車券を渡す。
そしてパスポートもだが、こちらは身分がバレないようにうまく偽造されたものだ。
よって、今会話している車掌は私の正体を知ることはない。
「……アリス・”フォン・ヒンデンブルク”様。お席は1等寝台車の2番コンパートメントになります。それでは、よき旅を」
車掌はにこやかに笑い、ポーターが私のトランクを預け荷物へと持っていく。
私はその後自室へと通され、用意されていた椅子に深く腰掛けた。
そして偽造された自分の身分証を見て小さく笑った。
「そうか……フォン・ヒンデンブルクか。懐かしい響きだ。ロートシルドの名を捨て、再び自分の名前に戻るのは、運命の皮肉であろうか?」
私は自虐的に笑い、在りし日の11月10日、ベルリンでの今日と同じ日を思い出す。
私が追い出してしまった主君が退去したのも、偶然同じ11月の10日であった。
その時には止めることができなかった祖国の崩壊……今度こそは『やり直し』救うことができるのだろうか?
ポーッ!
汽笛が鳴り響き、列車は駅舎を離れていく。
愛する祖国、愛する家族、愛する故郷に別れを告げて……
列車は止まることを知らず、ガリアから私を引きはがした。




