19.リールが絶対しないこと。
案内された教会の部屋は、エイミーとレオニーの使う部屋からは少し離れていた。室内は決して広くはなかったが丁寧に掃除されて清潔感がある。部屋の中にはベッドが一つ置いてあるだけの簡素な部屋だった。石の壁で覆われた室内は、日が落ちるとひんやり冷たい空気で満ちている。閉じられていた木製の窓を開けると、すっかり日が暮れた村を見渡すことができた。少し離れたところに松明の明かりも見える。あそこはちょうど騎士たちの野営地があるところだった。
「……それで」
私は窓を開けたまま後ろを振り返った。
「リールはどうしてこの部屋にいるんですか?」
「うん?」
私は当たり前のような顔をして室内のベッドに腰を下ろしているリールを見据えてそう言った。
先ほどまでいなかったくせに、私が部屋を案内されて数分も立たないうちにリールはこの部屋にやってきた。何をしていたのかと聞いても、「ちょっとね」と笑ってはぐらかされている。
リールは、私の問いに何てことないような顔で言った。
「俺、この部屋の隣の部屋を借りてるんだよ」
「だったらそっちに戻られたらどうですか?」
「まだ夜は長いんだし、アリシアとお話したいなあ、と思ったんだけど」
「私は話すことはないです」
ツンツンしてるなあ。リールはおかしそうに笑った。
夜はエイミーのところに行こうと思っていただけに、出鼻をくじかれてしまった。リールがいる前でエイミーのところへ行けば、リールも当然付いてくると言うだろう。リールがこの追試で何を企んでいるかわからない以上、あまりエイミーとの会話を聞かれたくないと思う。
私が逡巡していると、リールは膝に置いた手を組んで立っている私を見上げた。
「ねえ、アリシア。今日見た湖について、アリシアは何も気にならなかった?」
不意に振られた話題に思わずリールを見た。リールは相変わらず胡散臭そうな笑みを浮かべていた。
「……そりゃあ、当然、気になりましたけど」
「だよね。俺も気になって、さっきもう一度一人で湖まで行ってみたんだけど」
「えっ」
「それで気づいたことがあって。知りたい?」
リールはニコニコ笑っている。私は自然と眉間にしわを寄るのがわかった。……その話題はずるい。
「……知りたいです」
「ほら、じゃあこっちにおいで」
リールが自身が座っているベッドの隣をボスボスと叩いた。
「そこで立ったままだと、話すにしたって遠いよ」
私は迷った。彼が言うのはもっともなことだけれど、そうは言われたものの、流石にリールと一緒にベッドに座るというのは抵抗があった。
すぐそばに人がいるときは大丈夫だったけれど、完全に二人きりになると、あのガボゼでの出来事を思い出してしまう。無駄に警戒をしすぎているかもしれないけれど――あのガボゼでのリールの距離感の取り方は十分警戒すべき距離感だった。彼に変な意味はなくて、ただ私を揶揄っているだけであったとしても、婚約者がいる身であまり無警戒なことはできない。考え込んでいる私に気付いて、リールが苦笑した。
「何もしないよ。アリシアが警戒しているようなことはしない。あのガボゼでは急に変なことをしてごめんね」
「えっ」
驚いて目を見開いた。まさかリールからその話を振ってくるとは思っていなかったのだ。
「アリシアのこと、昔から色々とルカスに聞いてたからさ。何だか俺まで妹ができたみたいな気持ちで接してしまってたんだ。君に婚約者がいるのは知ってたのに、不用意に触れてごめんね」
リールが酷く申し訳なさそうな顔をする。眉を下げて項垂れる姿は、本当に落ち込んでいるように見えた。
「ごめんね。君にそんな風に距離を取られて警戒されるのは悲しい。もうしないから、もう一度前みたいに接してくれないかな」
そうしゅん、とされてしまっては、何だか警戒するこちらが申し訳ない気持ちになってしまった。私は少し考えてからて口を開く。
「……私もあの日はちょっとムキになって、あなたに嫌なな態度をとってしまっていました。あなたに悪気がないところで勝手に怒って、嫌な態度をとってしまったことを、謝罪します」
「うん。じゃあ、これで仲直りだね」
リールが仲直りの握手、というように右手を差し出してくる。私は頷いて、彼の手を取った。その時だった。ぐい、と強引に手を引かれると同時に、重力に従って体がベッドに倒れこんだ。視界が反転する。気づいたときには私の背には薄いベッドの感触と、視界には天井とリールの顔が広がっていた。
「……リ、リール?」
手はリールの片手で頭の上でひとまとまりにされて動かせなかった。押し倒されている、と認識するのに時間がかかった。
「え、あ、リール、なんで」
「アリシア、君たち兄妹って本当に人がいいよね」
どこか揶揄うように笑っているリールに、私はそこで漸く理解する。
「だ、だましましたね!?」
「騙したなんて人聞きが悪いなあ。アリシアが変に俺を警戒するのが寂しくて、仲直りしたかったのは本当だよ」
「嘘!」
「嘘じゃない。まあ、君のことを妹みたいに思ってるっていうのは嘘だけど」
甘ったるい笑顔を浮かべたリールが、空いている方の手で私の頬を撫でた。彼の指先が私の頬を滑って、唇に触れて、耳たぶをなぞる。彼の指の皮は彼の細い見た目に反して固い。剣を持つ人の手だった。くすぐったさに身をよじれば、リールは楽しそうに目を細めた。
「アリシアは正しく俺を警戒できるくせに、肝心なところで俺に気を許す。これはもう君の性格というか、一度懐に入れてしまった人を完全に突き放すことができないんだろうな」
顔を近づけたリールがうっそりと笑った。
「それは間違いなく君の美点だろうけど――そういう甘さを見つけてしまうと、俺みたいな悪い男は際限なくそれを利用したくなってしまうんだよ」
リールの顔が、近い。あと少し近づけば、唇が触れてしまいそうだ。私の思ったことに気付いたのか、「キス、してみようか?」とリールが笑ったまま告げる。
「やめてください、流石にそれはシャレにならないです……!」
「別に婚約者がいようがいまいが、キスぐらい大丈夫だと思うけど。何も君の純潔を奪おうってわけじゃないんだから」
まあ、それはそれでやってみたいけど、とリールが嘯く。
さらに近づく距離にぐっと目を閉じたくなるけれど、ここで閉じては彼の思うつぼだと思った。彼の目から逸らさず、見据える。リールの瞳が楽し気に揺れた。
「リール、揶揄うのなら、これ以上はやめてください」
「揶揄ってないって言ったら? それに君、今の状況わかってる? 俺の意志ひとつで君のことどうとでもしちゃえるわけだけど」
彼の手が顔から首筋をたどって肩に触れて、そのまま太もも近くをなぞった。
「君が何て言おうが――君は今、俺の自由にできる」
これ以上はダメだった。私はリールの茶色の瞳から目をそらさずに言った。
「あなたはしない、と思う」
「どうして?」
「だって、これ以上は、本当に私が嫌だから」
リールの手の動きが止まった。
「……君の意志関係なく、俺は君を好きにできるって言ったけど?」
「そうだけど、でもあなたは、私が本当に嫌がることは、するつもりがないから」
そこでリールが不意をつかれたような表情をした。リールのこの表情を見るのは初めてだった。
「あなたは私が本気で嫌がることは、しないと思う。あなたがいつも私に向けてくる視線は、私を、守ろうとするものだから。どうしてかは知らないけれど、初めて会ったときからリールは私を守ろうとしてくれてる」
エイミーを助けるために城の森で出会ったときからずっと。どうしてかはさっぱりわからないけれど、リールはずっと私にとって「良い人」であろうとしていた。私のことを揶揄ったり馬鹿にしたりはしても、本当に嫌がることは彼はきっとしない。
「リール。これ以上は、私は本気で、嫌だから。だから、手を離して」
リールは暫く私の顔をジッと見つめた。そして、どさっと私の体に倒れこんでくる。肩口に顔を埋めたリールは、はあ、と深いため息を吐いた。
「狡い子だなあ。それを言われると、俺は何もできない」
そして、リールが私の腕をつかんでいた手を離して、体を起こした。私も体を起こすと、乱れていた髪や服ををリールが直してくれる。リールからはさっきの妙な雰囲気は霧散していた。
よかった、と私はホッと息を吐いた。ああは言ったものの、本気でこれでリールが引いてくれるかは正直賭けだった。リールは私の顔を覗き込むと、また私の瞳をジッと見つめた。
「リール?」
「……ううん、なんでも。ところで、さっきの、」
と、リールが何か言いかけたところで、不意にコンコンとドアをノックする音が部屋に響いた。




