11.喧嘩をしました。
思えば、後悔ばかりしている気がする。
例えば、と考えることがある。今更どうしようもないたらればの話だ。あの日の自身がした選択のうち、何か一つでも違う選択を選んでいれば、きっとこんなことにはならなかったんじゃないか、と。けれど所詮それは夢物語で、願ったからと言って失ったものは戻らないし、時間をさかのぼって未来を変える魔法も使えない。結局自身にできることは過去を変えることではなくて、今目の前にあることをどうにかするだけの些末な時間稼ぎだけ。
――あなたも、今更どうしようもないものばかりに縛られて生きる人間なのね。
ふと、あの日少女に告げられた言葉を思い出す。彼女の声色は咎める色も同情をする色もなかった。無感動な瞳でそう言った彼女が酷く腹立たしくて、けれど自分という人間をすべて見透かされたような恐ろしさもあって、何も言えなくなった。彼女はきっと、自身と同じ絶望を知っている人間だった。
思えば、後悔ばかりしている気がする。
生殺しのような乾いた絶望の中で、ずっと、待っているのだ。いつかこの間違った選択を正しく罰してくれる誰かを、ずっと待っている。
第一章 悔悟の鎖
拝啓、婚約者様。
風に舞う花吹雪が目に眩しい今日この頃、あなた様はどのようにお過ごしでしょうか。
私は今、猛烈に後悔しています。
どうしてこんなことになってしまったんだろう? と私は昨日の自分を全力で呪っていた。後悔先に立たずとは言うけれど、昨日に戻れるなら戻りたい。戻って部屋の鍵を閉めて閉じこもりたい。
「アリシアは甘いものが好きだよね」
甘やかな笑顔を浮かべたリールが、私にフォークを差し出してくる。フォークの先端には、一口サイズの甘いケーキがついていた。「俺のも食べていいよ」と、あーんの構えをとってくるリールに、私は自分の頬が引きつるのを感じた。もしここが私とリール二人だけの空間であれば百歩、いや一万歩ぐらい譲って許せたかもしれない。その場合、私がやめろと拒否すればいいだけの話なのだから。けれど今は違う。
麗かな日差しが差し込む城の庭には、綺麗に着飾った女性や男性たちが談笑していた。庭の端に用意されたガーデンテーブルに腰掛けた私の前には、今日の主役であるはずのリールがにこやかに笑って座っている。私は、周囲にいる女性たちの瞳が、好奇心から熱のこもったものに切り替わるのがわかって、ただでさえ狭くなっていた肩身をさらに縮めた。ひそひそと囁かれる話の内容に悪意はないのはわかる。わかるけれど、居心地が悪すぎる。つまんでいたクッキーの味ももうしないレベルである。「アリシア?」とぐっと顔を寄せてこようとするリールに、ついに私は耐えきれなくなって立ち上がった。
「ちょっと、よろしいですか?」
表面上、優雅かつ穏やかに見えるように笑って、リールの名前を呼んだ。掴んだ腕には「これはどういうことだ」という意味を込めて思いっきり力を込めたけれど、リールは嬉しそうに笑うだけだ。むしろ「もちろん、俺もちょうど君と二人きりになりたいと思っていたところだよ」と余計な一言を付け加えて火に油を注いでくる。
キャア、と麗しい女性たちの楽し気な悲鳴から逃げるように、私はリールの手を引いてその場から退却する。ひらひらと彼女たちに手を振るリールを尻目に、ああ、今日は厄日だ、と私は深くため息を吐いた。
事の起こりは昨日、私の部屋にやってきたリールの話から始まる。
「……なるほど、やはりあの誘拐犯たちは誰かに雇われていただけだったんですね」
リールの話してくれた内容に、私はお茶菓子の最後の一かけらを口に放り込んで頷いた。ミアが用意してくれた今日のお茶菓子は、前世の世界でいう「マカロン」のようなものだ。国随一の腕を誇る城の料理長が作った茶菓子は美味しくて、いつもついつい食べすぎてしまう。リールにも勧めたけれど、彼は「甘いものはあまり得意じゃないから」と苦笑して、砂糖が一つも入っていない紅茶を一口飲んだ。
「聖女試験が終わる時間まで、エイミーを逃がさなければ大金がもらえる、という約束だったみたいだね。ただ指示はそれだけで、彼らもその『雇い主』が誰なのかは全くわからないみたいだけれど」
リールは、もう少し調査が必要かな、と肩を竦めた。
エイミー誘拐事件があった日から数日、私は謹慎も解けて、いつも通りの穏やかな日常が戻ってきていた。あの事件以降から、特に変わったことは起きていない。乙女ゲームのイベントらしきものもまるで起きていないし、相変わらず攻略対象とエイミーの絡みは一切ないけれど、もうそれを過剰に気にすることはなかった。エイミーとはあれから普通にお話ができるレベルにまで仲良くなったし、力を合わせれば、何か別の方法を見つけられるのではないかと思っている。
けれど、楽観視できるものばかりでもなかった。リールの言っている通り、誘拐事件は一応の解決を迎えたとはいえ、「真犯人」の特定までには至っていない。私が感じていた「違和感」の通り、やはり館で退治した誘拐犯を裏で操っていた人物がいるようだった。サクレに入り込み、エイミーに接触し、連れ出せるだけの誰か。何よりもあの精度の結界を張れるだけの、人物だ。
「……そういえば、あの場所に騎士が来るように通報した男の正体はわかったんですか?」
「それもまだ調査中。騎士の話では、通報してきた人物の顔がなぜか思い出せないらしいから、認識疎外の魔法を上手く使ったんだろうね」
「なるほど……」
もう一つ気になっていたのは、リールがあの館で遭遇した騎士たちの存在だった。彼らは通報を受けて館に来たと言っていたが、その通報の内容がどうにも怪しいのである。あんな人気のない洋館、城の人間も滅多に近づかないはずなのに、「物音がした」とわかって通報した人物がいる。しかも今リールが言った通り、通報をうけたはずの騎士たちは軒並みその人物の顔をまるで思い出せないらしいのだ。事件にとても無関係とは思えない。ただ、仮にその通報した人間が誘拐犯側の人間だったとして、わざわざ騎士団にそれを通報する理由がまるでわからないのだけれど。私は甘ったるくなった口で、砂糖を一つ沈めていた紅茶を飲み込む。
ゲームでは、どうだっただろうかと考えてみたけれど、私は結局この事件がどういう結末を迎えたのか知らなかった。私がやったのは、ルカスお兄様がエイミーを救出するところまでだ。全部見ていたアニメでは、そもそもエイミーの誘拐事件なんてなかったから参考にはならない。私の唯一の武器である前世の記憶は、どうにもあてにならなかった。
「ゲームになかった」と言えば、「追試」のことも今気になっているもののうちの一つだ。異例中の異例としてエイミーに追試のチャンスが与えられた事実は、すでにルカスお兄様と試験総監督より公表されている。公表された当時は城中がざわついたけれど、エイミーの様子を見る感じそのことで何か嫌な思いをしているとかはなさそうだった。あれから追試についてエイミーの方にも特に音沙汰はないみたいで、試験内容を告げられるまで待機の状態らしいのだけれど。
「ところで、アリシア?」
「はい?」
考え込んでいた私に、リールが不意に声をかけてきた。リールの持っていたティーカップは空になって、ソーサーに戻されている。リールは首を傾げて言った。
「今の情報の見返りは、何をくれるのかな?」
私は目を瞬かせた。
「み、見返り?」
「そう、見返り。俺は今、こうして大事な友人のルカスを裏切ってまで、君に情報を提供したわけだけれど、まさか何も用意してないなんて言わないよね?」
キラキラと輝かんばかりの笑顔を浮かべてくるリールに、私はウッと言葉に詰まった。
実は今回の話、ルカスお兄様は私に事件の詳細を教えてはくれないので、リールに頼んでこっそり教えてもらっているのだ。ばれたら絶対に怒られる。
「対価がいるなんて言ってなかったじゃないですか……!」
「ああ、何だか今になって急に罪悪感が湧いてきたな。アリシアに頼まれて事件の情報を話しちゃったこと、ルカスに報告してこようかな」
「あー!! 待って、待ってください! します、何でもしますから! お礼!」
リールのあまりの所業に、思わず勢いでそう答えると、リールは「そっか」と百点満点の完璧な笑顔を浮かべて言った。
「それじゃあぜひアリシアに、付き合ってもらいたいところがあるんだけど」
そうして翌日、リールに連れていかれたのが、先ほどの「お茶会」だった。隣国から来たばかりのリールのためにルカスお兄様が開催した交流目的のお茶会だったらしい。お茶会用のお腹が苦しくなるドレスを着て、髪も結い上げてもらって、久々に王女らしい格好をして参加したお茶会は、まあ、一言でいうと帰りたかった。
ただでさえ王女らしさを求められる場はいまだに苦手なのに、リールがやけに私にかまうせいでお茶会に参加していた女性たちの関心を集めてしまったのである。
リールの手を引いてお茶会の会場を後にした後、中庭を突っ切って人のいないガゼボまでリールを連れ出した。リールの腕から手を離して、はあ、とまた深くため息を吐く。
耐えきれず途中退場はしたが、リールの情報に対する対価分ぐらいには仕事をしたつもりだった。流石にもう戻らなくていいだろう。戻りたくない。明日からの社交界の噂については考えたくもない。
「お礼の内容があれだって知っていれば、もっと別の方法でのお礼を考えたのに……」
「ごめんね」
恨みがましくそう言うと、リールは悪びれる様子もなく笑った。「ここ良いところだね」と言いながらあたりを見渡すリールを思わず睨みつければ、リールは「本当に悪かったと思ってるよ」とわざとらしい仕草で困ったように肩を竦めた。
「ちょっと勝手をやりすぎたからルカスに仕返しとして面倒な茶会を用意されてしまってね。ただ参加するだけなのもつまらないし、アリシアが一緒だと心強いなと思って誘ったんだ。実際に君がいてくれて楽しいお茶会になったよ」
付き合ってくれてありがとうアリシア、というリールの言葉には、どこか揶揄うような色が含まれていた。
リールのことは胡散臭いけれど、「良い人」だという認識を持っている。あの誘拐事件でもしリールに助けてもらっていなければ、現状は大きく変わっていた筈だった。だから感謝はしている。けれど、出会ってからの少ない時間の中でも、リールは事あるごとに私を揶揄ってくるというか、遊ばれている気がして、そこだけはどうにも気に食わなかった。
思わず眉間にしわが寄った私に、リールはふふ、と楽しそうに笑った。徐に伸ばされた彼の手が、私の頬に触れる。リールは警戒して身構える私の頬に触れながら「それにしても」と声を潜めて言った。
「君が社交界用におめかししているところを見られたのは僥倖だったな」
あ、と思ったときには、リールの顔が間近に合った。私の警戒など関係ないというようにいとも簡単に腰に手を回されて引き寄せられる。リールからはこの国の花ではない、甘い香りがした。長い指先が、頬にかかるお茶会用にくるくる巻かれた私の横の髪に触れる。
「いつもの君も綺麗だけれど、綺麗なドレスを身に纏った君は、このままどこかに攫ってしまいたくなるほどに綺麗だね」
ゾッとするほどに甘やかな色を宿したリールの茶色い瞳が、不思議と違う色に見えた。蠱惑的な視線を間近で受けて、息を呑む。「アリシア」と優しく名前を呼ばれたところで、私はハッと我に返って、リールを突き飛ばした。
しまった、またリールにいいように遊ばれるところだった。
腰に回っていた手を外して、私は慌ててリールから距離をとる。
「……リール」
私は動揺を隠すように、努めて真面目な顔を取り繕った。
「こういう揶揄い方はやめてください。ご存じないのかもしれないので、言っておきますけど、私はもう、婚約者がいる身です。不用意に距離を縮められるのは、婚約者に失礼なので、やめてください」
リールは揶揄うことで私の反応を試して楽しんでいる節がある。他の方法でならまだ許す余地はあるけれど、こういうスキンシップじみた揶揄い方は看過できなかった。
私の言葉にリールは目をぱちぱちと瞬かせた。次いで笑う。珍しくどこか冷めたような笑顔だった。
「君に婚約者がいるのは知っていたけれど、随分義理堅いんだね?」
「義理堅いって」
「聞いたところじゃ、直接見たことも会ったこともないんでしょう? そんな相手にだったら、別にちょっとぐらい羽目を外してもばれないと思うけど」
リールの表情は笑顔のまま変わらなかった。
きっと、リールには悪気はないんだろう。けれど、リールに言われた言葉に、私の胸は確かにざわついた。酷く馬鹿にされたような気がしてしまって。私が大事にしてきた大切な場所を、無遠慮に踏み荒らされたような気がして。
仕方ないのだ。この人は知らないのだから。会ったことはないし声も知らない婚約者様と私が、これまで積み重ねてきた時間の何一つを、知らないのだ。
だからここで彼に怒るのも筋違いだ。私は自分を落ち着かせるように息を吐いた。
「……もう、戻ります」
このままここにいては何か嫌な言葉を言ってしまうような気がして、私はリールから視線を外した。彼とこういうことで問題にはなりたくなかった。
「連れ出しておいてなんですが、あなたもお茶会に戻られた方がいいと思います」
「アリシ、」
何か言いかけたリールの言葉を遮ぎるように、私は彼に背を向けて走り出した。




