眠る理由。
王宮魔術研究所の最深部は、冷徹な駆動音だけが規則正しく響く、墓所のような空間だった。
青白い魔晶灯の光が磨かれた床を薄く照らし、壁の術式板には淡い文字列が絶え間なく流れていた。
息を吐くたび、白くはならない。
けれど肺の奥へ吸い込まれる空気は、冬の刃みたいに冷たかった。
俺は巨大な魔晶石の前に立っていた。
結晶の奥で、ひとりの女が眠っている。
長い睫毛も、静かに閉じられた唇も、頬にかかる髪も、あの日からほとんど何も変わらない。
眠っているだけに見える。
次の瞬間、ゆっくり目を開けて、いつものように俺の名を呼ぶんじゃないかと、何度見ても錯覚してしまう。
冷たい結晶の表面に手を添える。
返ってくる温度は、ない。
「必ずまた逢える」
声にした瞬間、自分の声が掠れていたことに気づいた。
エリー。
俺の最愛の妻。
俺が、何よりも守りたかった人。
「フレデリック様。そろそろお時間です」
背後から届いた声は、ひどく整っていた。
丁寧で、平坦で、温度がない。
俺は結晶の向こうから目を離せないまま、低く答えた。
「……わかっている」
喉が焼けるみたいに痛かった。
「息子たちを頼む」
「ご安心ください。勇者の血は、必ず後世へ繋ぎます」
勇者の血。
その言葉が、胸のどこかに重く沈んだ。
けれど今は、怒る気力もない。
俺はただ、結晶の奥を見つめる。
「エリー……愛してる」
魔晶石の表面に、術式の光が走った。
青白い光がいっきに膨れ上がり、俺の視界を覆い尽くす。
冷気が足元から這い上がり、指先、喉、瞼、心臓の奥まで少しずつ凍らせていく。
意識が遠のく。
抗うより先に、俺は最も幸せだった日々へ引きずり戻されていた。
眩い光が、俺の視界を埋め尽くした。
次に目を開けた時、そこは色鮮やかな花々が咲き乱れる裏庭だった。
草を撫でる風は柔らかく、陽射しはあたたかく、土と花の匂いが鼻をくすぐる。
「リック! またこんな場所で寝てるの?」
鈴を転がしたみたいな声。
俺は反射みたいにその方を見た。
「……ん、エリーか」
いた。
呆れたように唇を尖らせて、腰に手を当てている。
見慣れた顔。
見慣れた癖。
それだけで、胸の奥がどうしようもなくほどけた。
「お師匠様が呼んでたわよ! また禁術書、勝手に触ったでしょ!!」
「なんでバレたんだよ」
「バレるに決まってるでしょ! 部屋の空気が焦げ臭かったもの!」
怒っているのに、声が可愛い。
それだけで、どうしようもなく顔が緩む。
「リック。危ないことはしないでね?」
本気で心配して、眉をひそめてくる。
それが愛しくて、たまらなかった。
「……応用したら、魔物に怯えずに済む世界が作れるかもしれないだろ?」
「そんなの夢物語よ」
「いや、いける気がするんだって」
「はいはい。先ずは師匠の雷を回避するイメトレでもしたら?」
「……助けてくれるだろ? エリー様」
「こんな時だけ調子が良いんだから!」
ぷっと頬を膨らませる。
仕方ないわね、とため息をつく。
その仕草まで可愛くて、胸が熱くなる。
気づけば、俺はその腕を掴んでいた。
細い。
あたたかい。
生きてる。
その感触があまりに鮮明で、胸の奥が不意に引き攣った。
「あれ……」
喉の奥が震えた。
視界が滲む。
エリーが目を丸くする。
「ど、どうしたの?」
「……え、なんで……」
涙が落ちた。
自分でもわからない。
ただ、今抱き締めなければ二度と触れられなくなる気がした。
「た、助けるわよ!? 私以外に誰がリックを助けられると思ってるのよ!」
慌ててまくしたてるその手を、俺は引いた。
華奢な身体が胸へ飛び込んでくる。
抱き締めた瞬間、やっと息ができた気がした。
「エリー……愛してる」
腕の中で、彼女がぴたりと固まる。
それからみるみる顔が赤くなっていった。
「か、揶揄わないで!」
「揶揄ってない」
「……もう」
小さく震えた声が、俺の胸に落ちた。
「私も……愛してる」
たまらなくなって、唇を重ねる。
柔らかい。
あたたかい。
触れた瞬間、彼女の身体が微かに震えた。
その初々しい反応が可愛くて、愛しくて、俺は思わず笑ってしまう。
――ぴたり。
次の瞬間。
笑顔のままのエリーが、まるで彫像みたいにその場で固まった。
風も止まる。
花も揺れない。
色だけがあるのに、世界から音が消える。
「……は?」
スっと、景色が剥がれた。
気づけば、俺は別の光の中に立っていた。
「あなたにそっくり!」
腕の中に、生まれたばかりの赤子を抱いたエリーが、誇らしげに笑っている。
しわくちゃで、小さくて、声もまともに出せないのに、たまらなく可愛い。
俺たちの子だ。
「ありがとうエリー! 俺は幸せだ!」
言葉にした瞬間、胸がいっぱいになった。
笑っているはずなのに、また涙が落ちる。
絶対に守る。
この子も、エリーも。
何があっても。
「私、とっても幸せ!」
赤子を抱いて笑う彼女が、眩しくて、綺麗で、見ているだけで胸が苦しいくらい満たされる。
――ぴたり。
エリーの笑顔も。
赤子の小さな指も。
俺の伸ばしかけた手も。
幸福だけが、その形のまま取り残された。
白く凍った光景が、音もなく崩れ落ちる。
次の瞬間、俺の耳に飛び込んできたのは、低く、重い声だった。
「フレデリック……諦めろ」
師匠だ。
白髪交じりの髪。
深く刻まれた皺。
けれど今のその顔は、俺が知るどんな時よりも苦しげだった。
「嫌だ!!」
叫んでいた。
考えるより先に。
「魔物共を喚ぶ前に魔の森へ捨てるか……あるいは、その手で屠れ」
「エリーは死なせない!!」
喉が裂けそうだった。
「あれは魔に魅入られている!! お前がやらないなら……」
「……っ!」
耳鳴りがする。
世界が歪む。
視界の端が暗く滲む。
「考えさせて下さい!!」
絞り出すのがやっとだった。
その言葉のあと、また景色が激しく揺れた。
「エリー! 急いで逃げるぞ!!」
夜の荒野だった。
風が冷たい。
土埃が喉に張りつく。
俺は幼い長男を背負い、エリーは赤子を抱いている。
彼女の足取りはひどく危うい。
「リックと過ごせた日々で、私は十分に幸せだったわ」
「だめだ」
即答だった。
「それだけはだめだ!」
彼女の肩を抱く腕に力が入る。
息が苦しい。
でも足を止められない。
「このままでは、リック達を危険にさらしてしま……っ」
言葉の途中で、エリーの呼吸が乱れる。
肩が震え、肌の下で魔力が軋む音が聞こえるような気がした。
「大丈夫だ。俺が必ずなんとかしてやるから」
言い聞かせる。
彼女に。
自分に。
きっと方法はある。
絶対にある。
そうでなければ、俺は何のために学んできた。
けれど現実は、祈りより先に牙を剥いた。
暗闇の向こうに、無数の眼が灯る。
赤。
黄。
青白いもの。
ぬめるように光る視線。
魔物だ。
完全に囲まれている。
「……リック! 子ども達を連れて逃げて!!」
囮になろうとする彼女を、俺は叱りつけた。
「馬鹿を言うな!!」
だが、その瞬間。
エリーの身体から、制御を失った魔力がぶわりと膨れ上がった。
濃く、甘く、狂った蜜みたいな魔力。
魔物たちの視線が、一斉に彼女へ吸い寄せられる。
「こっちだ! 俺を見ろ! 食うなら俺にしろ!!」
叫ぶ。
喉が裂けるほど叫ぶ。
けれど、見向きもしない。
魔物たちはただ、エリーへ向かって牙を剥く。
赤い飛沫が舞った。
爪が肉を裂く。
悲鳴が夜を裂く。
「やめろ!!」
脚がもつれる。
それでも手を伸ばす。
「やめてくれ!!!」
足りない。
何もかも足りない。
魔力も。
時間も。
俺の力も。
その瞬間、師匠の部屋で盗み見た禁術書の頁が脳裏に焼き付いた。
結界だ。
神の力の一端を顕現させる、あの術式。
通常の魔力では足りない。
なら――喰わせるのは、俺の魂だ。
「神よ!! 我らに加護を!!!」
術式が弾ける。
幾重にも重なった巨大な魔術陣が夜空を埋め、その中心で、俺の身体を突き破るように、魂の形をした剣が生えた。
「ぐあああああ!!」
熱い。
冷たい。
痛い。
全部いっぺんに襲ってくる。
次の瞬間、眩い衝撃波が走った。
魔物たちが次々に吹き飛び、砕け、夜の闇の向こうへ散っていく。
エリー。
ボロボロの手を伸ばす。
視界の端で、子ども達が泣いていた。
地面には、倒れたエリーの身体。
「エ……リー……」
――ぴたり。
その凄惨な光景が、また白く凍りついた。
次に放り出されたのは、眩しいほど煌びやかな謁見の間だった。
大理石。
金。
赤い絨毯。
磨き上げられた装飾のひとつひとつが、ひどく遠い。
「……この者、フレデリックの結界により、魔物たちは退き平和が訪れました」
師匠の声だ。
王の前で、あくまで整った声で報告している。
玉座の上の王が、深く頷いた。
「そなたの働き、まことに見事であった。よって勇者の称号を与える。ひとつ願いを叶えてやろう」
俺は床に額を擦り付けた。
「……妻を助けて下さい」
間髪入れず、宰相が切り捨てる。
「魔に魅入られた者を救う術など、この世にはない」
「……では、旅に出ることをお許し下さい。方法を探します」
「何を言うのだ! 勇者たるもの王都を守ることこそが務め! そなたが離れれば、その結界はどうなる!!」
責める声。
怒号。
ざわめき。
その中で、王が片手を上げた。
「よかろう」
顔を上げる。
「……っ!?」
「優先的に、その娘を救うための研究を進めさせようではないか」
宰相が焦ったように食い下がる。
「しかし王よ、今まで魔力過多から救われた者はおりません!」
「……救えるよう励めばよい」
王の視線が、俺を見下ろす。
「フレデリックよ。しばし待てるな?」
その言葉だけで、膝から力が抜けそうになった。
「有り難き幸せにございます!! ……生涯の忠誠を捧げます」
王は頷き、さらに言った。
「妻子は離宮へ住まわせよ。安全は保証する」
その時の俺は、疑いもしなかった。
王はエリーを救い、家族を守ってくれるのだと。
離宮へ戻った俺は、息を弾ませたままエリーに伝えた。
「研究を進めてくださるそうだ! 住む場所も用意された! もう逃げなくていい!」
エリーの顔が、ぱっと花が咲いたみたいに明るくなる。
「まあ! 本当に? リック、ありがとう!!」
幼い息子が俺の裾を引っ張った。
「にげなくていいの?」
「ああ!」
しゃがみ込んで、俺はその小さな頭を撫でた。
「これからは王都で、みんなで幸せに過ごせるんだぞ!」
エリーが、これ以上ないほど綺麗な笑顔で俺を見た。
その瞬間。
――ぴたり。
また、止まる。
エリーの笑顔も。
息子の丸い目も。
俺の伸ばしかけた手も。
次に見えたのは、数年後の王宮魔術研究所だった。
「……失敗です」
研究所長が、重い声で言う。
机には砕けた魔力石。
黒く焦げた術式紙。
疲れ切った研究員たちの顔。
「なぜだ?」
喉が焼ける。
「時間がないんだ……急がなくては、エリーが」
項垂れた研究所長が、ゆっくり顔を上げた。
「今の技術では……正直、間に合わない。奥方の命があるうちには」
足元が崩れるような感覚がした。
「なんとか、なりませんか……?」
「……苦肉の策だが、魔力石で奥方の時間を封じるしかない」
時間を、封じる。
眠らせるということか。
救える技術が生まれる、その時まで。
それはいつだ。
何年後だ。
何十年先だ。
その時まで、俺は生きているのか。
目覚めたエリーの前に、立っていられるのか。
背後で、師匠が静かに告げた。
「それだけではないぞ、フレデリック。エリーを眠らせるということは、不老不死の檻に入れるということだ」
胸が潰れそうになる。
「エリーが目覚めた時、俺がいないと……」
声が途切れる。
だが現実は、俺の絶望を待たない。
「聖剣は継承できぬのか!!」
次の瞬間には、また謁見の間だった。
宰相が声を荒げている。
「勇者フレデリックよ。聖剣を次の者へ継承させる方法は未だ分からぬのか?」
継承もなにもない。
この聖剣は、エリーを守るために俺の魂を削って生まれたものだ。
俺の命そのものだ。
「神が指名したこの身以外、聖剣の継承はできぬと……」
虚ろな声が、やけに遠く聞こえた。
その時、研究所長が静かに手を挙げた。
「王よ。勇者の子孫であれば、いつか適応者が現れないとは言い切れません。血を、繋げさせるのです」
血を、繋げる。
その言葉が胸の奥に引っかかった。
『勇者フレデリック様。どうか魔物から我らをお救い下さい!』
遠い外界から、祈りの声が響く。
魔物。
その二文字が、眠りの底に沈んだ俺を叩き起こす。
エリーに魔物を近づけさせるわけにはいかない。
『おお! 聖剣が輝き、応えてくださった! これで王都も安泰だ』
安泰。
誰の。
エリーは。
エリーは無事なのか。
エリーに逢いたい。
いつになれば、俺は――。
俺の名は、フレデリック。
王宮魔術師の師に拾われ、育てられた。
学び、鍛えられ、王宮で働けるようになったその場所で、俺はエリーに一目惚れした。
必死に口説いて、伴侶になってもらって、子どもも生まれて。
幸せだった。
あまりにも、幸せだった。
愛しい妻があの病を発症するまでは。
魔力過多。
身体が魔力に耐えられず、このままでは暴走し、魔物を引き寄せ、最後には絶命するという奇病。
俺の力では、どうすることもできなかった。
だから俺は、待っている。
エリーを救える技術が生まれる、その時まで。
この暗闇の底で、ずっと。
時間の感覚はもう曖昧だ。
今日がいつかも、どれだけ眠ったかも、何度祈りの声で叩き起こされたのかも、もうわからない。
それでも。
エリー。
必ず君を救うから。
どうか、まだ。
まだ、そこで待っていてほしい。
勇者フレデリック視点




