ただ、そのためだけに。
その一言で、室内の空気が明確に変わった。
セバスは静かに目を伏せる。
否やはない。
だが、続きを待っている。
「アレクが生まれて初めて、自ら執着を示した相手だ。それに――リナが救いたいと願った側の娘でもある」
セバスの睫毛が、わずかに揺れた。
愛しい妻。
その存在が関わるだけで、この一族のあらゆる判断基準は塗り変わる。
優先順位も、損得も、他人の運命の重ささえも。
ルシアンは卓上の別の資料を引き寄せた。
紙の上に、細かな術式線と補助式が幾重にも走っている。
忌み子たちの暴走を抑え、魔力の濁流を内側から整え、その身が壊れる前に繋ぎ止めるための魔導具。
愛しい妻が「忌み子を助けたい」と願ったからこそ、何度も何度も改良を重ねてきたものだった。
最奥だけではない。
浅い森の養成所でも、他の保護区でも、すでに何十、何百という忌み子たちに使ってきた術だ。
ルシアンの指先が、その線のひとつを静かに撫でる。
その眼差しだけが、わずかにやわらいだ。
「作るか」
低い声に、セバスが顔を上げた。
「……最新型を、でございますか」
「ああ」
ルシアンは設計図から目を離さない。
だが、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
「忌み子を繋ぎ止める術なら、もうこちらに積み上がっている」
紙の上を滑っていた指先が止まる。
「浅い森でも、最奥でも、何度も使ってきた」
セバスは黙って聞いている。
主の声音が、説明ではなく、確信そのものへ沈んでいくのを感じていた。
「王国最大の切り札が、初代勇者の伴侶――救われぬまま保管されている初代魔王なら、答えは簡単だ」
ルシアンが、ゆっくりと目を上げる。
「救えばいい」
執務室の空気が、そこでわずかに張りつめた。
セバスの喉が小さく鳴る。
当然すぎるほど当然で、だからこそ途方もない結論だった。
王国は、勇者の願いを叶えると言いながら、何百年も初代魔王を救わず、ただ保管し、利用し続けてきた。
救済を餌に縛り、忠誠を言い訳に眠らせ、血だけを掠め取って兵へ変えた。
だが、ルシアンはそこに別の答えを見ている。
初代魔王は忌み子だ。
ならば救える。
救えば、初代勇者は必ずこちらへ傾く。
「初代魔王を救えば、初代勇者は仲間になる」
静かな断定だった。
だがその一言には、王国の喉元へ刃を当てるよりも、もっと深く、もっと後戻りのできない響きがあった。
セバスの胸の奥で、熱に似たものがゆっくりと広がる。
主は、ただ壊すだけの男ではない。
すべてを内側から食い潰し、王国の喉笛へ指をかけながら、それでも家族のため、妻のためなら、救うための術すら組み上げてみせる。
どこまでも冷酷で、どこまでも家族に甘い。
だからこそ、セバスの敬意は深くなるばかりだった。
「……坊っちゃまのために」
ようやく絞り出すようにそう言うと、ルシアンは小さく笑った。
「愛しい妻が、忌み子を助けたいと願った」
「アレクは平和主義を口にした」
その声音は、どこまでも静かだった。
そこでルシアンは椅子の背に深くもたれ、窓の外の闇を眺めた。
夜の底に沈んだ魔の森は、何も答えない。
「なら、静かに攻め落とせばいい」
真正面からぶつかる必要などない。
王国が自分で並べた盾を、王国の喉元へ向ければいい。
救えるものは救い、拾えるものは拾う。
その果てに残る国を、静かに呑み込めばいい。
アレクの言う平和主義とは、そういう形でも叶えられる。
セバスは、今度こそ深く頭を垂れた。
その双眸の奥に灯るものは、もはや単なる忠誠ではない。
世界を完璧に掌握しながら、なお家族の願いひとつで行き着く先まで変えてしまう主への、深く黒い敬愛だった。
「では、包囲は維持したまま」
「囲え」
ルシアンが言う。
「真実は知らせるな。知れば怯え、逃げ、壊れるだけだ」
机上の紙へ落ちた灯りが、わずかに揺れる。
「あの娘の周囲を、我が手の者だけで塗り潰せ。逃げ場のない網の中で、しばらく泳がせておけ」
セバスは静かに頷いた。
「アレクがどう手を伸ばすのか、見てみたい」
その言葉に、セバスの唇の端がほんのわずかに持ち上がる。
「……魔王軍、か」
ルシアンが、ふっと笑った。
息子が遊びのように口にした呼び名。
だが今やそれは、冗談では済まない響きを帯び始めていた。
勇者の末裔。
忌み子側の次代。
救うために手を伸ばし、呑み込むために囲う。
遊びのままでは、もう終わらない。
その笑みを見上げたセバスの双眸にも、わずかな愉悦が灯る。
主がこうして笑った後で、何も起きなかったことはない。
「承知いたしました」
一礼は深く、動作に一切の無駄はない。
そのままセバスは、影に溶けるように執務室を退いた。
扉が静かに閉まる。
部屋には再び、濃密な静寂が戻ってきた。
ルシアンは卓上の紙へ視線を落とす。
初代勇者。
初代魔王。
何百年も停滞した救われぬ願い。
その横に、アレクの名。
スゥの名。
新しく動き始めた小さな歯車。
「初代勇者も、俺と同族だな」
誰に聞かせるでもなく落ちた独白は、静寂の底へ沈んでいく。
愛した相手を生かしたい。
ただ、そのためだけに。
それだけで、男は眠り続ける。
それだけで、男は国を侵す。
それだけで十分だった。
ルシアンの指先が、紙の端を静かに押さえた。
そのための新たな魔導具は、すでに静かに組み上がり始めていた。




