間引いた者たち。
魔の森の最奥に沈む邸宅は、夜になるといっそう深い静寂に包まれた。
風の音すら薄い。
外界の喧騒など、最初から存在しなかったかのように遥か遠くだった。
その一角にある執務室。
魔導ランプが放つ仄白い灯りだけが、机に向かう男の輪郭を静かに浮かび上がらせていた。
ルシアンは手元の書類から目を上げない。
紙を捲る指先だけが、かすかな乾いた音を立てて動く。
コンコン。
音は小さかった。
だが、静寂が支配する部屋では、その微かな振動だけで十分だった。
「ルシアン様」
扉の内側に控えていたセバスが、音もなく一歩前へ出る。
その鋭い双眸が、薄い灯りを反射して妖しく光を返した。
「アレク坊っちゃまが外界で接触された少女について、徹底調査が完了いたしました」
差し出された報告書を、ルシアンは視線だけで受け取る。
数枚。
手の中に収まる、ごく薄い紙束だ。
だが、そこに黒いインクで刻まれた内容は、決して薄くはなかった。
「……相違はないか」
低く落とされた声に、セバスは即座に答えた。
「相違ございません」
短い返答。
その響きには、少しの迷いも、澱みもなかった。
「当該個体、名はスゥ。王国の量産施設出身です。その中でも、突出した才覚を理由に『B班』へ分類された生き残りに当たります」
ルシアンの指先が、紙の一点でぴたりと止まった。
量産施設――。
王国が正義の名の下に隠し持つ、歪んだ飼育箱。
聖剣の担い手、勇者の末裔――聞こえだけは美しい。
だが実際は、勇者の血を無理に継がせ、都合のよい兵として使い潰すための濁った場所に過ぎない。
そしてその内部には、もう何年も前からルシアンの指示を受けた精鋭たちが、職員、監視員、監督官として深く潜り込んでいる。
王国は、自分たちの管理下にあると信じ込んでいる。
実際には、その箱そのものが、とうに他人の手の中だとも知らずに。
「B班」
ルシアンが、その記号を小さく反芻する。
「驚異となる個体を、仲間討ちによって効率的に減らすための処理班です」
セバスの声音に揺らぎはない。
あまりに平坦で、それがかえって研ぎ澄まされた冷えた刃のようだった。
「最終試験の名目で互いに殺し合わせる。生き残った者には、王国への怨みだけが残る。……結果は、想定通り上々でした」
机上に広げられた報告書には、別の名が並んでいた。
――レイ。
スゥの親友。
死亡記録。
処理完了。
ルシアンは、その文字列にしばらく視線を置いたまま動かない。
「この娘が、手にかけたのか」
「その通りです。自らの手で」
重苦しい沈黙が、部屋の底へ落ちた。
最も親しい者を、自らの手で殺させる。
その傷を、生涯抜けない呪いの棘にする。
王国への怨嗟ごと、生き残りの魂の奥底へ沈めさせる。
それこそが、B班という地獄に与えられた真の役目だった。
「今もなお、彼女たちは王国の盾として稼働しております」
セバスが淡々と報告を続ける。
「支配権は、六割は超えたところか」
ルシアンの問いは、状況をただ冷徹に測る響きを帯びていた。
「着実に上書きを進行させており、あの首輪の主は、もはや王家ではございません」
セバスの双眸が、妖しく細められる。
「表向きの奴隷契約は担当している精鋭を噛ませておりますが、術式深部のバックドアはすでに書き換えを完了しております。最上位支配権はルシアン様、次いで我ら精鋭。王家はそのさらに下位に位置しております」
王国は、自分たちが絶対の盾に守られていると思っている。
だが、その盾をいつ動かすか決めているのは、自分たちではない。
「王城側は」
「監査、報告、照会を扱う中枢部署にも潜伏済みです。ですので、『リナルシア大商会』をいかに王国側が調べようと、上がる報告は常に同じになります」
「……無関係、か」
「ただの隣国の商会。魔の森とは一切無関係――公的な書類には、そう記録されております」
ルシアンは、喉の奥で低く笑った。
妻と自分の名を合わせた、あまりにも露骨な名前。
それでも決して捕まらない。
王国は、自らの意思で配置した目と耳によって、欺けられ続けているのだ。
セバスはそこで一拍、間を置いた。
わずかに。
本当に、わずかな躊躇いだった。
「ルシアン様」
「言え」
「率直に申し上げて、あの娘は坊っちゃまの伴侶候補としては、あまりに危ういかと存じます」
その言葉に、ルシアンはようやく書類から顔を上げた。
「理由は」
「脆い」
即答だった。
「親友を手にかけた傷を抱えたまま、王国への怨みという細い糸だけでかろうじて立っている個体です。万が一、この世界の真実に辿り着けば、坊っちゃまへの感情は、愛より先に純粋な恐怖へと反転いたしましょう。……もし、坊っちゃまの初恋でなければ、即座に処理を進言しておりました」
その言い方に、ルシアンは小さく目を細める。
責めているのではない。
否定しているのでもない。
むしろ逆だ。
セバスは、主の手際の美しさを誰よりよく知っている。
だからこそ、ここまで静かに積み上げられたものの中へ、あまりにも不安定で壊れやすい娘を置くことを危ぶんでいた。
それは忠誠だった。
畏怖を通り越した、ほとんど信仰に近い敬意がそこにはあった。
ルシアンは、椅子の背にもたれたまま、窓の外の深い闇を見やった。
「……スゥは数日前、一枚の異動願を提出しております」
セバスが別の書類を差し出す。
「検問所への長期異動願。――坊っちゃまを再捕縛するためでしょう」
「通したのか」
「すでに。速やかに受理されるよう、現地の手配は済ませてございます」
静かな灯りの下で、ルシアンの唇の端がゆるく持ち上げられた。
スゥは、自分の意思で近づいているつもりでいる。
自分の頭で考え、自分で動き出したと信じている。
だが、彼女が必死の思いで差し出した願書一枚すら、すでにこちらの検閲を通り、都合よく利用されている。
少女がようやく掴み取ったつもりの一歩は、最初からこちらが敷いていた導線の上に過ぎなかった。
セバスはさらに言葉を継いだ。
「……いかがなさいますか」
その問いには、いくつもの重い意味が沈んでいた。
囲うか。
折るか。
殺すか。
遠ざけるか。
あるいは――坊っちゃまのために、残すか。
執務室の濃密な静寂の中、ルシアンはゆっくりと立ち上がった。
上質な椅子がわずかに軋む。
窓の向こうに広がる魔の森は、夜の底でどこまでも黒く沈んでいた。
「殺す必要はない」
その一言で、室内の空気が明確に変わった。




