私だけに見えた男。
検問所の夜勤が明け、薄暗い自室のベッドに横たわっても、眠気は一向に訪れてくれなかった。
まぶたを閉じれば、あの白昼の光景が、驚くほど鮮烈に脳裏へ焼き付いて離れない。
――あの時、確かに掴んだ少年の腕の、硬い感触。
「……何だったのよ、あれ」
寝返りを打ち、シーツを跳ね上げて天井を見上げる。
あの日。
王国の厳重な検問所を、まるで散歩でもするかのようにスタスタと通り抜けようとした存在。慌てて掴みかかった瞬間の、驚愕に染まったあの顔。
王都の眩しい陽光を弾いた黒髪。
そして、見開かれた紫の瞳。
悔しいけれど、息を呑むほど綺麗だった。
けれど、そんなことはどうでもいい。
(……誰にも、見えていなかった)
私が彼の腕を掴んで叫んだ時、周囲にいた先輩や同僚の門兵たちは、一様に不審な目を私へ向けて、『誰もいない場所に向かって何をやっているんだ』と言い放った。
あの時、私の目の前には、確かにあの少年が立っていた。
人間だとは、とても思えなかった。
何か異質な術でも使っていたとしか思えない。
しかも、私の手を振り払ったあの男は、脱兎の如き凄まじい速度で、あの『魔の森』の鬱蒼とした茂みの中へ一目散に消えていったのだ。
(魔の森へ逃げ込んだ……? まさか、あの日、あの禁足地からひょっこりと歩いて出てきた、あの時の……!?)
背筋に、ぞくりと冷たい悪寒が走る。
あの時は見間違いだと思おうとした。
けれど、二度目は絶対に違う。
あの男は、絶対にこちら側の存在ではない。
ひとたび足を踏み入れれば、生きて帰ることは叶わないはずの、あの絶対の禁足地を、我が物顔で行き来している『王国の脅威』だ。
「……捕らえなければ」
私はベッドの上に勢いよく起き上がり、乾いた喉を鳴らしながら、膝の上で拳を強く握りしめた。
私たちは、魔の森からの脅威に備えるために、あの地獄の施設で鍛え上げられた『王国の盾』だ。
親友のレイをこの手で手にかけた。
心も体も奴隷の鎖で縛り付けられて、それでもここで死ぬまで戦うしかない。
あんな得体の知れない存在を、見過ごしていいはずがない。
王国の兵士なのだと、自分に言い聞かせるように、私は深く息を吐いた。
(……もう一度、現れるはず。あの男は、必ずまたこの門を通る)
そう確信した時にはもう、私は自身の行動を決めていた。
机に向かい、羽ペンを握る。
インクの匂いが鼻を突く中、私は『検問所専門の門兵になりたい』という、異例の長期異動願の書類を書き進めていた。
あの男を捕まえる。
その大義名分があれば、私はあの検問所に、合法的にずっと居座り続けることができる。
あの男を見つけたのは、私だけ。
誰にも見えないあれを、この手で掴めるのは、世界で私だけなのだから。
「……待ってなさいよ」
書類を書き終え、小さく呟いて窓の外の魔の森を見つめる。
あの男に、もう一度会わなければならない。
胸の奥でざわつくこれは、ただの使命感だ。
私は、そう信じて疑わなかった。
数日後。
「……っ」
ふと、薄暗い影の奥から、ねっとりとした視線を感じて、私は勢いよく振り返った。
当然、そこには誰もいない。
窓の鍵も、かかっている。
気のせい――のはずがない。
いや。
検問所で、あの黒髪の少年を捕まえようとしてからだ。
どうしてあれから、街を歩いていても、どこにいても、背中にチクチクと刺さるような、私を見透かすような視線が増えたのだろう。
見えない巨大な網の中へ、じわじわ追い込まれていくような感覚に背筋を冷やしながら、私はただ、迫り来る気配に怯えることしかできなかった。
スゥ視点




