頭から離れない人。
――あの少女の、驚愕に染まった顔と、素っ頓狂な悲鳴が、どうしても頭から離れない。
王都の陽光を映した、見開かれた宝石のような瞳。
認識阻害を完全に無効化し、世界のすべてを置き去りにして、まっすぐに俺だけをしっかりと捉えて離さなかった、あの強い眼差し。
この世界へ転生して十六年、あんなに胸がドクンと跳ね上がったのは初めてだった。
顔立ちも、纏う雰囲気も、すべてが信じられないくらい、めちゃくちゃ俺のタイプだ。
(……ねぇ。俺の嫁に、なってくれないか?)
手を伸ばした瞬間、彼女は泣きそうな顔をした。
……どうしたんだ? なぜ、泣くんだ?
遠ざかる姿。
……まっ、待ってくれ!
ギャース、ギャース!
チュチュン、チュチュチュン。
コンコン。
「坊っちゃま。鍛錬の時刻ですよ」
ドア越しに響いたノアの冷静な声に、俺はガバッと跳ね起きた。
「……ん、朝か」
そうだった。
俺は帰ってきたんだった。
最奥へ着くなり、俺は両親の元へ走った。
驚く母上に思い切り抱き着いて――泣いた。
理由なんて自分でも分からなかった。
ただ、胸の奥に溜まり続けていた切なさが決壊したのだ。
父上も何も言わず、大きな腕で俺を壊れ物のように強く抱き締めてくれて、俺はさらに泣いた。
ちなみに、その大泣きしている現場にひょっこり顔を出した妹のエミリアは、俺の帰還に伴侶を連れてきたのかと期待していたらしく。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの俺の顔を見るなり、何を勘違いしたのか――
「……まあ。お兄様、次の方を探しましょう? 世の中に女性は星の数ほどいらっしゃいますわ」
ひどく生温かい眼差しを向けてきた。
いや、違うからな?
嫁探しに失敗して、手酷く振られて泣きながら帰ってきた哀れな兄貴じゃないからな?
俺が泣きながら文句を言うと、エミリアは「やれやれ」と小さくため息をつきながらも、優しく俺を抱き締めて頭を撫でてくれたのだった。
……しばらくして、ようやく落ち着いた俺は、じいちゃんから託された三通の手紙を懐から取り出し、父上へと差し出した。
「父上。これ、じいちゃんから……リナルシア大商会主宛てです」
父上は神妙な面持ちでその封を切り、手紙に目を通した。
読み進めるうちに父上の眉間には深い皺が寄り、静かに目を閉じると、痛みを堪えるようにこめかみを押さえた。
「……リナ。これを」
父上から母上へと手渡された、一通の手紙。
「なぁに? 大丈夫? ルシアン」
様子が一変した父上を心配そうに見つめながら、母上はその手紙を受け取り、視線を落とした。
その、次の瞬間だった。
母上は細い指先で自身の口元を強く抑え、ハラハラと大粒の涙を零したのだ。
その止まらない雫が美しい頬を伝うたびに、父上は母上の身体を全霊で優しく抱き締め、その髪に何度も唇を寄せた。
「……愛してる、リナ。大丈夫だ。必ず、また逢える。俺を信じろ」
「ルシアン……ルシアン……私、私……っ」
エミリアと俺は、両親がここまで感情を剥き出しにして泣いている姿を生まれて初めて見たため、どうしていいか分からないまま、ただ手を繋いで立ち尽くすことしか出来なかった。
「アレク。これは、お前宛てだ」
父上が差し出してきた、残りの手紙。
三通のうち、最後の一つは俺とエミリア宛てだった。
じいちゃんが、記憶を消してまで俺に伝えたかった何かが、ここにあるのだろうか。
恐る恐る手紙を開く。
『リナルシア大商会の皆様へ……愛を込めて……』
――名前も顔も知らないはずの相手から俺たちへ向けられた、溢れんばかりの愛情と祝福が、これでもかとたっぷり綴られていた。
ズキン……。
手紙の文字を目で追うたびに、頭の奥がひどく痛む。
(なるほどな……。俺たちが安全にこの最奥へ戻るために、じいちゃんは記憶を消したのか)
「リナルシア大商会はさらに大きくなる。アレク、お前が継ぐ頃には揺らがないほどにしておく。安心しろ」
母上を抱き締める手を緩めないまま、父上が俺とエミリアへ微笑みを向けた。
外祖父母の顔も、姿も、あの場に満ちていた温もりも、何一つ思い出せない。
「……キツいですね、これ」
ポツリと溢れた俺の言葉に、手紙を覗き込んでいたエミリアが首を傾げた。
手紙には、ただのお祝いや茶会の誘い、新しい商品を心待ちにしていること、どれだけ感動したか、どれほど大切に想っているかという気持ちが、痛いほど綴られていた。
「……これ、俺とエミリアへ宛てた、最高の祝福なんですね」
「ああ。お前たちは、間違いなく愛されている」
父上の重みのある言葉に、俺は深く頷いた。
「光栄です」
「ねぇ? さっきからなに? 誰からの手紙なの?」
ひとりだけ事情の分からないエミリアが、不満そうに頬を膨らませる。
俺は妹の柔らかい髪を優しく撫でまわした。
「……いつか、お前も連れて行ってやるよ」
「ふーん? お客様の家に?」
「そうだぞ! 胸を張って訪ねて行けるように頑張ろうな!」
「……え? 将来攻め落とす予定の国よね?」
「ばっ!! お前、大声で物騒なこと言うな! ダメだ、俺は平和主義だっていつも言ってるだろ!?」
焦る俺を見て、父上が低く愉しげに喉を鳴らした。
「ククク。そうだな、アレクの言う通りだ。平和的に、綺麗に収めてこそだな。……それがアレクの望みならばな」
「……もう! ふたりとも、物騒なことはしちゃダメよ?」
目を真っ赤に腫らした母上が、ようやくクスリと笑ってくれた。
父上はその愛しい笑顔を見つめ、熱い視線を母上へと注ぐ。
「リナ。俺が、お前たちを必ず世界一幸せにする」
「ルシアン……」
「リナ……」
(あーーー!! これ、完全に始まるやつだ!!)
察知した俺とエミリアは、無言で見つめ合うと、即座に静かに執務室を退散した。
廊下に出ると、完璧な姿勢で控えていたセバスが、静かに目を細めて俺たちを迎えた。
「外界は、随分と楽しまれたようですね、坊っちゃま」
「……楽しんだっていうか、色々と重すぎた」
「それは結構でございます」
相変わらず実家の重さを妙な角度で肯定するセバスに、俺はふと思い出して、検問所での出来事を口にした。
「……あ、あとさ。俺がつけてた最新型の認識阻害を、完璧に看破して腕を掴んできた奴がいたんだ」
その瞬間、セバスの動きがピタリと止まった。
エミリアも、信じられないといった様子で目を見開く。
「嘘でしょう、お兄様!? この最奥にいる精鋭たちですら、最新型の認識阻害は気配すら掴めないというのに!?」
「……それは由々しき事態ですね。我が主の計画に触れかねない、極めて危険な存在です。――即座に、処理しておきます」
セバスの口から、「処理」というあまりにも物騒な単語が平然と出た。
(処理って、お前、あいつを殺す気か!?)
脳裏に、あの陽光の中で煌めいた、宝石のような瞳が鮮烈に蘇る。
あの光を、この世界の闇に消されてたまるか。
「まて!!! 絶対にダメだ!! あいつは、俺の女だ!!!」
「…………へ?」
叫んだ瞬間、応接廊下に凍りついたような静寂が落ちた。
セバスとエミリアは、まるで未知の魔物でも見るかのような目で俺を見つめ、言葉を失っていた。
「……いや、違、え? あ、俺、今なんて言った……? あ、いや……でも、失いたくないんだ」
あまりの恥ずかしさに顔がボッと赤くなるが、言葉は取り消せない。
沈黙の後、エミリアが極めて冷ややかな、けれど憐れむような目で俺を見上げてきた。
「……お兄様。初対面の女性に腕を掴まれただけで『俺の女』は、さすがに重すぎますわ。もし現地で振られているのであれば……潔く諦めなければ、ただの変質者になりますわよ?」
「変質者って言うな! 振られてない、まだ何も始まってないから!」
すると、セバスがゆっくりと目を細め、その双眸を妖しく光らせた。
「なるほど……。ならば、その御令嬢の徹底調査が必要ですね」
「え?」
「お兄様のために、アプローチ方法も含めて探って差し上げて」
「はっ。至急、その対象の全てを調べ上げましょう」
「いや、ちょっと待てセバス! 調査の方向性がなんか不穏なんだけど!?」
そう言いながらも、俺のためにと動いてくれる家族に、呆れながらも笑ってしまった。
あの瞬間、誰も掴むことができないはずの俺をとらえた手も、あの瞳も、どうしても頭から離れてくれなかった。
「……まずはプロポーズの練習だよな」
エミリアのため息が、ひどく冷たく落ちた。




