逃亡先は魔の森。
「……熱い」
私の口から、熱い吐息とともに掠れた声が漏れた。
すると、私を抱きしめていたルシアンが、低い声で鋭く言った。
「不用意に出されたものを飲み食いしたらダメだろう!?」
あっ!
もしかして、あの部屋にあったお菓子や飲み物に……!?
ポタリ……。
ルシアンの顎から、大粒の汗が私の首筋に落ちた。
「ルシアン、大丈夫……?」
「……俺も、リナと同じ状態だ」
同じ状態?
ルシアンも、飲まされたってこと……?
はぁ……はぁ……。
荒い息を繰り返すルシアンから、むせ返るほど甘くて、くらくらする匂いがした。
「……ルシアン」
私が熱に浮かされた声で呼ぶと、彼はギリッと奥歯を噛み締め、耐えるように目を瞑った。
ガタン。
不意に、荷馬車が人気のない林道で止まった。
「ルシアン様、手筈通りに次のご準備を」
協力者である御者のくぐもった声。それにルシアンは「……リナ、行くぞ」と短く応じ、私を抱き抱えたまま、荷馬車の屋根から音もなく降り立った。
私たちは急いで別の乗り合い馬車の内部へ滑り込み、置かれていた服へ着替える。
ルシアンは羽織っていたガウンをストンと床に落とした。
薄暗い車内でもはっきりと分かる、一糸まとわぬ彼の広い背中や刻まれた傷跡を見て、私の心臓が大きく跳ねた。
「あ、の……ルシアン」
熱で手元がおぼつかず、私は用意された簡素なドレスの腰紐がなかなか結べない。
「手伝うか?」
振り返ったルシアンが、長い指で手際よく私の腰紐を結んでくれる。
「……私を、助けに来てくれてありがとう」
「……まだ、助かってはいない」
あ……。
そうだ、まだ逃げ切れたわけじゃない。
「これから急ぎ王都を出て、『魔の森』を抜ける」
魔の森……?
凶悪な魔物がひしめく、あの絶対の禁足地? 研究所の連中すら恐れて近寄らない場所だ。
「……最悪、抜け切れずに俺たちは死ぬ」
残酷な事実を突きつけられても、すぐそばにいるルシアンの熱と匂いに意識が引っ張られる。
私の身体は、甘く疼いたままだ。
「……っ」
立っているのもやっとで、足が震える。
「俺も耐える。リナ……頑張れるな?」
「……ぅん」
私はたまらず、ルシアンの広い胸にぎゅっと抱きついた。
「私と、一緒に逃げてくれる?」
「当たり前だ。俺たちは『ニコイチ』だからな」
こんな極限状態でも、相変わらず重すぎる発言をブレずに繰り出してくる彼がおかしくて、私は少しだけ笑ってしまった。
「行くぞ」
やがて馬車が動き出し、窓の隙間から王都の巨大な門が見えてきた。
周囲には、物々しい数の騎士たちが集まっている。
ドォーン!!
突然、全く違う方角から凄まじい爆音が鳴り響いた。ルシアンの協力者が気を引いてくれたのだろうか。
「……リナ。足元にある隠し扉に入るんだ。絶対に声は出すなよ?」
馬車の底に作られた、人が一人横になれるだけのわずかなスペース。
私はそこへ身体を滑り込ませながら、彼を見上げた。
「ルシアンは?」
「俺は大丈夫だ」
彼はそう言って、認識阻害の魔導具のネックレスを首にかけた。
隠し扉が閉まる直前。
私は咄嗟にルシアンの服を掴み、彼を引き寄せた。
ちゅっ。
唇に、自分から口付けを落とす。
「……この続き、しなきゃだからね?」
その瞬間、ルシアンの身体がビクンと大きく強張った。
彼は首筋に青筋を立てて荒い息を吐き――そして、ひどく暗くて甘い、今にも獣が飛び出してきそうな笑みを浮かべた。
「ああ、必ず……俺が完全に狂う前に、王都から逃げ切らなきゃな」
ルシアンから、深く、熱い、貪るような口付けが返される。
そのまま乱暴に私を押し込むと、彼を繋ぎ止めていた理性の糸が切れるより早く、隠し扉がバタンと完全に閉まった。
ガタゴト、ガタゴト。
カタン。馬車が検問で止まる音がした。
「こんな状況だが、中を改めさせてもらう」
鋭い警備兵の声に、ルシアンが愛想よく答える。先ほどまでの熱情など微塵も感じさせない、冷ややかな声音だ。
「すごい騒ぎですね。たったひとりの肉親である姉の婚儀へ向かう途中なのですが、足止めを喰らうのは勘弁してほしいものです」
「何やら、大切な『姫君』が逃げたらしい」
「姫君、ですか?」
「ああ。傷付けずに確保しろと厳命が下っている」
「……それは大変ですね。ご苦労さまです」
暗闇の中、私の心臓がバクバクと音を立てる。
「……おい。この馬車、ずいぶんと強い甘い香りがするな」
警備兵の言葉に、息が止まりそうになった。
私とルシアンの身体から漏れ出ている、あの甘い薬の匂いだ。
「ああ、姉のために奮発して買った『魔力香』ですよ。少し匂いが強すぎましたかね」
「なるほど、魔力香か。よし! 行っていいぞ! 姉さんの結婚、おめでとう」
「ありがとうございます」
ガタゴト、ガタゴト。
馬車が再び動き出し、周囲が静かになった。
でも、隠し扉は開かない。
つまり、まだ安全圏ではないということだ。
暗くて狭い空間で、息をひそめて熱に耐える。
薬の効き目が、どんどんキツくなってくる。
だめだ、熱で思考がとろけて、意識がぼんやりしてきた……。
***
――気づけば私は、あたたかな光の差し込む美しい結婚式場で、ルシアンと見つめ合っていた。
優しい顔で、私に微笑みかけるルシアン。
真っ白なドレス。祝福の花びら。
『貴方の夫は誰ですか?』
神官の厳かな問いかけに、私は幸せな気持ちで答える。
「私の夫は、ルシアンです」
『永遠の愛を誓いますか?』
「はい、誓います」
ああ、幸せだ。身体の奥がじんわりと熱くて、甘くて。ずっと、このままで――。
『……な……リナ』
遠くで、声がする。
『リナ!! 起きろ!!』
へ?
ガバッと目を開けた瞬間、結婚式場のあたたかな光はかき消えた。
開け放たれた隠し扉の向こうで、血相を変えたルシアンが私を揺さぶっていた。
「起きろリナ!! 囲まれてる!!」




