彼に身を委ねて
朝も早くから、念入りな身支度を終えさせられた。
「準備ができましたので、移動してください」
「……はい」
今の私は、白くて布地の少ない薄着の上に、頼りないガウンを一枚羽織らされているだけだった。
あまりにも無防備な格好に、情けなさと恐怖で勝手に目が潤んでくる。
「リナ嬢、大人気ですからねー! 席の取り合いが大変だったんですよ!」
私を先導する研究員が、まるでコンサートのチケットの話でもするみたいに明るく言った。
「争奪戦……?」
「ええ! 普段は、よく見える位置は金を出せば買えたんですけど、今回は全然空きがなくて……。私もギリギリ、立ち見に滑り込めたんです」
彼はドヤ顔で私に笑顔を向けてくる。
いったい、どんな部屋で……。
足が震えて、自然と歩く速度が落ちた。
「どうしました? 震えてますよ? あっ、薄着だから寒いですよね。お部屋は暖かいですから、急ぎましょう」
違う。そうじゃない。
でも、恐怖で声は出なかった。
部屋に入った瞬間、私は拍子抜けした。
「あれ……? とても綺麗ですね」
争奪戦などと聞いていたから、ベッドの周りを大勢の人たちに囲まれているのかと戦々恐々としていた。
しかし、広い室内には誰もいない。
「当たり前じゃないですか。アハハ!」
研究員が、軽く声を立てて笑う。
「み、みなさんは……?」
「こちらからはただの壁に見えますが、あちらからは透けているんですよ」
うわっ! なにそれ……!
言われなきゃ、普通に豪華で綺麗な部屋にしか見えない!
何十人、あるいは何百人という人間が、壁の向こうから息を潜めて私を見つめているということ?
「リナ嬢は貴族出身ですからね、環境には配慮しないと」
もし、貴族じゃなかったら……。
想像するだけで恐ろしくて、私は薄着の身体を自分で抱きしめた。
「じゃあ、お相手が来るまで適当に過ごしていてくださいねー!」
パタン、と。無情にもドアが閉まる。
「あっ、まだ聞きたいことが……!」
慌ててノブを回す。がちゃがちゃと音が鳴るばかりで、ドアはびくともしない。
叫んだり暴れたりすれば、どんなペナルティを与えられるか分からない。
この行動すらも見世物にされているはず……
落ち着かなきゃ。ルシアンが来るなら、その時まで。
私は再度、部屋を見渡した。
ゆっくりとソファへ腰掛けると、テーブルの上には彩り豊かなお菓子や飲み物が並べられている。
朝食をとる暇もなかったため、極度の緊張も相まって、身体が水分と糖分を求めていた。
まだ来ないし……少し食べて待っていようかな……。
パクリ。
あ、このお菓子、美味しい。
ゴクリ。
この飲み物も、甘くてすごく好きな味だ。
ふぅ、と息をつき、次のお菓子に手を伸ばそうとした瞬間だった。
コンコン。
ビクッと肩が大きく跳ねた。
私は慌てて手を引っ込め、ドアを見つめて立ち上がる。
カチャ。
「……リナ。久しぶり」
開いたドアの向こうに立っていたのは。
「ルシアン……!」
私は一目散に駆け出し、彼の胸に思い切り飛び込んだ。
「ルシアン、ルシアン、ルシアン……っ! ごめんなさい。私、私が……っ!」
「……リナ。逢いたかった」
バカみたいに何度も名を呼ぶ私を、彼は力強い腕でぎゅっと抱きしめ、優しく受け止めてくれた。
そのまま、ルシアンは私の耳元へ熱い吐息とともに声を落とす。
「このまま部屋を出るぞ。いいな?」
「で、でも、ドアには鍵が……あれ?」
顔を上げると、ルシアンはドアと枠の間に足を差し込み、閉まらないように固定していた。
……もしかして、強行突破?
「リナ。愛してる」
クイッと顎をすくい上げられ、そっと短い口付けが落ちた瞬間。
私の腰に回された腕に、ギリッと強い力が込められた。
ヒョイッ。
羽毛でも扱うみたいな軽さで、私は彼に背負われた。
「舌を噛まないように、しっかりしがみついていてくれ」
タタタタタッ!
ルシアンは恐ろしい速度で研究所の廊下を駆け抜け始めた。
たまにすれ違う研究員たちが、ポカンとした顔でこちらを見送る。
あれ? 私たち今、堂々と逃亡中!?
目の前のドアを通り抜けようとした研究員が開けた、その一瞬の隙。
ルシアンは一陣の風みたいにそこをすり抜けた。
ふわっと、草木の香りが鼻を撫でる。
外だ。久しぶりの、外の空気だ……!
ビービービーッ!!!
遅れて、研究所全体に耳障りな警報音が鳴り響いた。
心臓がぎゅっと縮み上がる。
しかしルシアンは迷うことなく私を背負ったまま走り続け、やがて軽やかに宙へと跳躍した。
トスッ。
着地したのは、研究所の裏手に停まっていた荷馬車の屋根の上だった。
ルシアンは素早く私を背から降ろすと、自分の唇に人差し指を当てた。
静かに。
そう促され、私はコクンと頷く。
ルシアンの指が下を向き、屋根に伏せるよう指示を出す。
言われるがままに寝そべると、彼が私の上から覆いかぶさり、その大きな身体で私を完全に隠すように抱きしめた。
ガタゴト、ガタゴト。
キィー、ガチャン。
馬車が動き出し、研究所の門を抜けていく。
ドクン、ドクン、ドクン……。
恐怖と安堵、それにルシアンとの密着で、心臓がうるさいくらい跳ねていた。
首筋に、ルシアンの熱い息がかかる。
スンスン。私の匂いを深く嗅ぐような音がした。
ちゅ。
柔らかくて生温かい感触が、首筋に落ちる。
カプリ。
「……っ」
不意に、小さな痛みが走った。
何してるの!?
今、動いたり声を出したりしちゃダメだよね!?
ふっ……、はぅっ……。
執拗に口付けが落ちて、柔らかな舌が首筋を這う。
声にならない声を飲み込み、痺れるような熱に震えながら耐える。
……っ、ぁ……。
やがて、首筋からゆっくりと顔を離したルシアンが、私の耳元で極上に甘い声で囁いた。
「……リナ。俺の妻になって?」
「……この状況で?」
ツッコミを入れながら、滲んだ視界のまま彼の顔を見上げた。
――私は息を呑んだ。
ルシアンの美しい顔は、ぞっとするほど無表情だった。
ゾクリ。
ルシアン、どうしたの……?




