良き婚約者の終焉。
チリ、と。
鼓膜を焦がすような音が、薄暗い部屋に響いた。
俺の指先から流し込んだ魔力の炎の中で、かつて彼女に贈った「手首を繋ぐだけの甘い約束」は、無惨に、どろどろと形を失っていく。
銀が赤く熾り、溶け、垂れ、淡く白い光を滲ませながら別のものへ変わっていく。
足りない。
まだ、足りない。
白く発光する銀を見つめながら、俺はずっと考えていた。
もしも、リナが他の誰かの名前を呼んだら。
あの愛らしい唇が、俺以外の男に助けを求めたら。
――その唇を、どうやって塞いであげようか、と。
「……リナ」
名前を舌の上で転がすだけで、胸の奥が狂おしいほど甘く痺れる。
どうしてこんなにも愛しいんだろう。
何万回、愛を囁けばいい。
どれだけ優しく触れても、まだ足りない。
どれだけ時間をかければ、君の心は俺だけで満ちるんだろう。
本当は、良き婚約者でいたかった。
時間をかけて。
優しく。
正しい順序で。
社会的な手順を踏んで。
焦らずに。
壊さずに。
怯えさせずに。
そうやって、誰の目にも正しい形で、俺だけのものにするつもりだった。
けれど。
彼女は俺から逃げるために、あろうことか別の男を盾にした。
あの、薄気味の悪い騎士。
リナの前で跪き、悦びに顔を歪め、踏まれることすら褒美みたいに受け取る醜悪な肉壁。
思い出すだけで、喉の奥が焼ける。
胸の奥に沈めていたものが、どろりと浮き上がる。
嫌いになってもいい。
憎んでもいい。
泣いても、喚いても、怯えてもいい。
ただ、無関心でいられるよりはましだ。
俺を殺したいほど憎んで、四六時中、俺のことだけを考えてくれればいい。
俺の影から、一生逃げられないように。
溶けた銀を、新しい術式を刻んだ鋳型へ流し込む。
手首じゃ駄目だ。
手首は駄目だった。
あそこはまだ、対等なふりができてしまう。
伸ばせる。
届く。
他の誰かの手を取れてしまう。
だから、次は違う。
彼女の歩みを。
自由を。
そのすべてを、俺の腕の中という唯一の居場所に縫い止めるためのもの。
重く、冷たい鎖。
足首を繋ぐためだけに作り直された、銀のアンクレット。
「泣いて縋って、俺の名前を呼んで……」
冷え固まりゆく銀の輪を、指先でそっと撫でる。
美しい。
ようやく、形になる。
明日も。
明後日も。
十年後も。
この部屋で、二人きりで。
死ぬまで、俺が飼い殺してあげるから。
君が泣くのも、笑うのも、眠るのも、震えるのも。
全部、俺だけが知っていればいい。
そうして。
完璧な「檻」が、とうとう完成した、その時だった。
――ふわり。
壁の向こう、応接室のあたりから、吐き気がするほど安っぽくて甘ったるい魔力の波動が伝わってくる。
魅了。
しかも、質が悪い。
薄っぺらく、下品で、まとわりつく、最低の魔力。
それが、俺の、俺だけの美しいリナの魂へ触れようとしている。
「…………あぁ」
声が漏れた。
怒り、ではなかった。
それだけじゃ足りない。
もっと深いところで、何かが決定的に砕ける音がした。
そしてそれは、驚くほど心地よかった。
ああ、そうか。
もう、いいんだ。
良き婚約者。
穏やかで、理性的で、優しく順序を守る男。
そんな仮面、もういらない。
完成したばかりのアンクレットを握りしめる。
指の内側に食い込む銀の冷たさが、ひどく甘かった。
さあ。
二人だけの地獄へ落ちよう。
俺の可愛い、お人形。
――ドォォォォン!!
俺は一切の躊躇なく、応接室の重厚な扉を魔力で粉砕した。
その瞬間。
視界に飛び込んできた光景に、
俺の奥底で、何かが決定的に冷え切った。
リナの瞳が、薄っぺらい桃色の靄に覆われている。
魅了。
俺の宝物に。
俺がこれほどまでに傷つけないよう、
大切に、慎重に触れてきた魂に。
あのゴミが、汚い術をかけたのだ。
「ルシアン殿。契約に基づき――」
目障りな肉壁が口を開くより早く、俺は魔力を叩きつけた。
加減などしない。
壁に叩きつけられる鈍い音が響いたが、そんなものはどうでもよかった。
視界の端で震えている魔術師を一瞥する。
俺の愛しい人に術をかけた、あの唇。
あの喉。
二度と使えないように、凍らせてやった。
これで、まともに邪魔できる者はいない。
「る、しあん……っ、息が……」
腕の中の、たったひとつの光。
俺はリナの腰を抱き寄せた。
熱い。
魅了のせいで、彼女の体温は不自然に上がっている。
俺以外の魔力に触れさせられた。
その事実だけで、どす黒い殺意が喉の奥まで込み上げてきた。
「ごめんね、リナ。でも、君が悪いんだよ」
口を突いて出た声は、自分でも驚くほど甘かった。
怒りじゃない。
これでようやく、正しい形にできる。
その安堵が、俺の理性を完全に溶かしていた。
「俺の目を盗んで、こんなゴミに絆されそうになるから」
魅了のせいだと分かっている。
リナ自身の意思じゃないことくらい、俺が一番よく知っている。
でも、関係ない。
彼女を抱き上げる。
驚くほど軽く、柔らかい身体が、俺の腕の中にすっぽりと収まった。
暴れない。
俺の首に回された腕が、ほんの少しだけ震えている。
廊下を歩く。
俺の拠点へと彼女を運ぶあいだ、彼女は微かに抵抗の言葉を紡いだ。
けれど、それはひどく弱々しかった。
「降ろして……お父様たちが、来るわよ……」
来ない。
来させない。
この先は、俺とリナだけの世界だ。
結界を抜け、俺が作り上げた「巣」へと彼女を運び入れる。
長椅子へ、ゆっくりと下ろす。
――いや、逃げられないように押し倒す。
見下ろした彼女の瞳には、怯えがあった。
俺の狂気に気づき、息を呑んでいるのがわかる。
「……ずっと、考えていたんだ」
俺は彼女の前に膝をつく。
靴を脱がせ、その素足に触れる。
細い。
折れてしまいそうなくらい、華奢な足首。
ここだ。
「手首じゃダメだ」
言葉にしながら、俺は確信する。
手首を繋いだところで、彼女の心は縛れない。
「手首だと、君はまた別の男の手を引いてしまうかもしれない」
俺の指先が、彼女の肌に触れる。
完成したばかりの、銀のアンクレット。
冷たい銀の輪を、彼女の足首にそっと添わせた。
「でも、ここなら」
「俺がここを掴んでいれば、君はもう、どこへも逃げられない」
あぁ、なんて美しいんだろう。
俺の魔力を練り込んだ鎖が、彼女の白い肌に、これ以上ないほど似合っている。
「……リナ。狂おしいほど、愛してる」
かちゃり。
施錠の音が、部屋に響いた。
その瞬間、俺の魔力が銀を伝い、彼女の魂の奥底まで流れ込んでいく。
あの安っぽい魅了の靄を暴力的に食い破り、
俺の熱で、
俺の意思で、
彼女の隅々までを塗り潰す。
ひ、とリナの喉が鳴った。
彼女の身体が、びく、と跳ねる。
俺の魔力が這い上がる感覚に、彼女の魂が震えているのが手に取るようにわかった。
もう、一生逃げられないのだと。
どんなに足掻いても、彼女の歩みは俺の掌の上でしか許されないのだと。
そう理解し始めているのが、わかった。
俺は、じっと彼女の顔を見つめた。
絶望するだろうか。
俺を罵るだろうか。
泣いて、俺を拒絶するだろうか。
――けれど。
彼女は、ただ荒い息を吐きながら、俺を見つめ返していた。
魅了の余韻で、瞳が潤んでいる。
俺の重すぎる魔力に当てられて、頬が赤く染まっている。
逃げない。
俺を、突き飛ばさない。
それが、魅了で抵抗する気力を奪われているからだという理屈は、とっくに頭から消え去っていた。
俺が鎖を繋いでも。
俺がこれほどまでに重い愛を流し込んでも。
リナは、俺を受け入れている。
俺の愛を、拒んでいない。
「……あぁ」
胸の奥底から、どうしようもない甘い痺れが込み上げてきた。
足りなかったものが、今、完全に満たされた。
彼女のすべてが、俺のものになった。
俺はたまらず、彼女の足首に顔を埋め
――声を出さずに、深く、深く笑った。




