魂を繋ぐアンクレット
魅了の甘い霧は、まだ完全には晴れていなかった。
けれど、それを塗り潰すみたいに、ルシアンの放つ熱と殺気が、応接室の空気そのものを支配していく。
さっきまで桃色に濁っていた視界が、今は別の意味で揺れていた。
粉砕された扉の残骸。
床に散った木片。
壁際に立ちのぼる冷気。
そして、悲鳴すら途中で凍りつかせた氷塊。
さっきまで人だったものが、部屋の片隅で無言のまま鈍く光を返している。
窓の外は、よく晴れていたはずなのに。
差し込む午後の光さえ、この部屋だけどこか薄青く、冷たく見えた。
なのに。
私の腰を抱き寄せるルシアンの腕だけが、ひどく熱い。
重たい。
苦しい。
逃げ場がない。
その腕の強さひとつで、この場を握っているのが誰なのか、嫌でもわかってしまう。
「ルシアン殿。契約に基づき、リナ様へのこれ以上の接触は私が――」
壁際で体勢を立て直した肉壁騎士が、なおも真面目な声で割って入ろうとする。
その瞬間。
「……失せろ」
低く落ちた一言と同時に、ルシアンの魔力が弾けた。
目に見えない一撃が空気を裂き、巨体の騎士を容赦なく壁際まで吹き飛ばす。
鈍い衝突音。
揺れる額縁。
ぱらりと落ちる細かな漆喰。
いつもなら、ああっ、私の有能な盾が、とか、そういうことを考える余裕くらいあったはずなのに。
今は、息をするだけで精一杯だった。
「る、しあん……っ、息が……」
掠れた声でそう言うと、ルシアンの腕がほんのわずかに緩む。
けれど、それは解放じゃない。
壊さないように持ち直しただけの、優しい調整だ。
「ごめんね、リナ。でも、君が悪いんだよ」
耳元で落ちる声は、甘い。
甘いのに、まるで逃げ道を塞ぐために磨かれた刃みたいだった。
「俺の目を盗んで、こんなゴミに絆されそうになるから」
違う、と言いたい。
あれは魅了だった。
私の意思じゃない。
ちゃんと説明すれば、ルシアンだってわかるはずだ。
でも。
その理屈が通る相手なら、そもそも扉を吹き飛ばして入って来たりしない。
そう気づいた瞬間、背筋を冷たいものが這った。
ふわり、と視界が傾く。
次の瞬間には、私はルシアンの腕に横抱きにされていた。
抱え上げる動きに迷いがない。
知らないはずなのに、
身体だけが、その腕の強さを知っているみたいでぞっとした。
今の腕は優しいだけじゃない。
壊さないように支えながら、
同時に、絶対に逃がさないという拘束を含んでいる。
逃がさない。
放さない。
どこにも行かせない。
そんな意思が、抱き上げられた身体のあちこちにじかに伝わってくる。
応接室を出る。
廊下は静まり返っていた。
使用人たちの気配もない。
父や母の異様な気配すら、この近くにはない。
磨き上げられた床の上に、ルシアンの足音だけが規則正しく響く。
窓から差し込む光が長く伸び、彼の影を黒く引きのばしていた。
その影の中に私まで丸ごと呑み込まれているみたいで、妙に息苦しい。
「降ろして……お父様たちが、来るわよ……」
やっとのことで絞り出した声に、ルシアンは歩みを止めないまま答える。
「来ないよ」
静かだった。
怒鳴りもしない。
荒げもしない。
だからこそ、余計に怖い。
「俺の部屋の周りには、もう誰も近づけないように結界を張ったから」
俺の部屋。
客間でしょうが、と反射で言い返したかった。
でも、その言葉は喉の奥で潰れた。
廊下の空気が変わる。
一歩、また一歩と進むたび、空気が重くなる。
目に見えない膜を何枚もくぐっていくみたいに、肌がぴりついた。
結界だ。
強固で、粘り気のある、ひどくルシアンらしい魔力の壁。
客間の前まで来た瞬間、私は小さく息を呑んだ。
扉は閉ざされているのに、隙間から銀色の光がにじんでいる。
床には淡く魔法陣の線が走り、壁や天井にまで見知らぬ術式の影が絡みついていた。
こんなの、もう客間じゃない。
ルシアンの巣だ。
そう思った瞬間、ぞくりとした。
扉が開く。
中へ運び込まれる。
室内は、静かすぎるほど静かだった。
分厚いカーテンが半ば閉じられ、昼の光は薄く削られている。
その代わり、床に描かれた魔法陣や壁に埋め込まれた術式が、銀色の微光を脈打つみたいに明滅していた。
美しい、と思った。
けれどそれは、絶対に近づいてはいけない類の美しさだった。
整いすぎていて、逃げ道が見えない。
長椅子へ、私はゆっくりと下ろされる。
いや、下ろされた、というより。
柔らかく押し倒された。
背中が沈む。
肘が沈む。
その柔らかさは少しも安心に繋がらない。
逃げ場のない力で、きっちりと体勢を固定されたからだ。
見上げた先に、ルシアンがいた。
紫の瞳が、静かに揺れている。
怒りに燃えている、というより。
ずっと奥の、もっと底なしの場所で、昏い悦びと執着が混ざり合っている。
ああ。
だめだ。
この目は、もうだめだ。
「……ずっと、考えていたんだ」
低い声でそう言って、ルシアンが私の前に膝をつく。
その仕草だけ見れば、まるで忠誠でも誓うみたいなのに。
この男が今からすることは、たぶん正反対だ。
そっと、私の靴が脱がされる。
片方。
それから、もう片方。
丁寧すぎる手つきが、かえって怖い。
素足に触れた空気が少し冷たい。
その直後、細い足首を大きな手が包み込んだ。
ひやりとした指先。
その奥にある、火傷しそうなほどの体温。
冷たさと熱さが同時に触れてきて、息が詰まる。
ぴたりと押さえられた場所が悪かった。
アキレス腱のあたりを的確に掴まれた足は、力を入れようとしてもびくとも動かない。
逃げたいのに、逃げられない。
たった片手で、それを思い知らされる。
「だめ、ルシアン、それは……っ」
声が震えた。
何に対する拒絶なのか、自分でもよくわからない。
目の前の銀色のそれに対してか。
足首を掴む手に対してか。
それとも、この部屋の空気そのものに対してか。
ルシアンは私の言葉を遮らない。
ただ、足首を包んだまま、静かに答える。
「手首じゃダメだ」
その声音には、理屈を積み上げるルシアンらしさが、ほんの少しだけ残っていた。
けれど、結論はまるでだめだ。
「手首だと、君はまた別の男の手を引いてしまうかもしれない」
ぞっとした。
ぞっとしたのに、同時に、ルシアンの中ではこの結論が本気で筋の通ったものなのだとわかってしまって、余計に寒気がした。
彼の手の中で、重厚な銀のアンクレットが鈍く光る。
初めて見るもののはずだった。
なのに、あれが私を飾るためのものではなく、逃がさないためだけに作られたものだということだけは、ひどくはっきりわかった。
冷たい銀の輪のかたちをしていても、その実体は呪いだ。
優しい顔の奥に隠れていた独占欲が、もう剥き出しになっていた。
「でも、ここなら」
ルシアンの親指が、足首の骨を確かめるみたいになぞる。
びく、と身体が跳ねた。
「俺がここを掴んでいれば、君はもう、どこへも逃げられない」
銀が、肌に触れる。
冷たい。
なのに、銀の内側からは、ルシアン自身の体温みたいな魔力がじわじわ滲んでくる。
「……俺の腕の中以外、君の居場所なんて残さない」
ルシアンの睫毛が伏せられる。
足首を包む手はひどく熱くて、逃がさないくせに、触れ方だけはどこまでも丁寧だった。
「……リナ。狂おしいほど、愛してる」
揺れる意識のなかで、鼓動が強く跳ねた。
かちゃり。
小さな金属音が、やけに鮮明に響いた。
その一音だけで、何かが決定的に閉じた気がした。
私の右足首に、銀のアンクレットが完璧なサイズで噛み合っている。
外せない、と直感した。
鍵の問題じゃない。
力の問題でもない。
これは、最初から私を逃がさないために作られたものだ。
次の瞬間。
アンクレットから、粘り気のある魔力が流れ込んできた。
ひ、と喉が鳴る。
冷たいはずの銀が、内側から熱を持ったみたいに脈打つ。
それが足首からふくらはぎへ、膝へ、腿へ、腹へ、胸へとじわじわ這い上がってくる感覚に、背筋が粟立った。
ただ着けられた、というだけじゃない。
これは刻まれている。
彼のものだと。
逃がさないと。
どこへ行ってもわかるように。
全身の隅々まで、そんな意思を流し込まれている。
物理的な重さ以上の圧があった。
魂そのものを、冷たく、けれど確実に縫い止められるような支配。
「リナ。俺と繋がろう?」
ルシアンの声は、ひどく甘かった。
優しい告白みたいな響きなのに。
耳に触れた瞬間、鍵をかける音みたいに、逃げ場がなくなった。
「ほら、君の脈動が、俺の指先にこんなに愛しく響いてる……」
足首に、熱が落ちる。
ひどく甘くて、ひどく濃い感触に、全身が強張った。
視界の端で、銀が静かに光っている。
もうだめだ、と、ぼんやり思った。
「良き婚約者」という仮面を捨てた最凶の魔術師に。
私はついに、
永遠の施錠をされてしまったのだと、魂が震えて理解した。




