やっぱり護衛騎士はこうでなくては!……えっ?
凍てついたアトリエの空気の中、狂乱した画家は床に縫いつけられたまま、みじめに震えていた。
ルシアンの放った氷結魔術は、絶望的なまでに無慈悲で、一寸の逃げ道すら残していない。
その時だった。
重厚な扉が、音もなく静かに開かれた。
現れたのは、夜の闇をそのまま纏ったかのような黒い外套の騎士。
鋼のように伸びた背筋。
気配を殺した足運び。
氷に覆われた床も、醜く叫ぶ画家の姿も、その鉄仮面のような表情を揺らすことはない。
彼は一瞬で状況を観測した。
そして、瞬きする暇さえ与えぬ速さで――
乾いた音が、一つ。
騎士の鋭い手刀が画家の首筋に落ちた瞬間、糸の切れた人形のようにその身体が崩れ落ちる。
あまりにも鮮やかで、あまりにも無駄のない排除だった。
「……連行します」
騎士は淡々と告げると、氷に固定されていたはずの画家を片手で軽々と引きずり出した。
まるで、庭に散らかったゴミを片づけるような、徹底した事務作業だった。
数秒後には、あれほどの騒ぎが嘘のように消え去り、アトリエには凛とした静寂だけが戻っていた。
私は呆然と立ち尽くす。
「……すごい」
思わず、感嘆の声が漏れた。
あの執念深い画家を、まるで雑草でも抜くように処理してしまったのだ。
救いを求めるように、私はその騎士へ歩み寄った。
「素晴らしいわ。あなた、本当に頼りになるのね」
彼が、ゆっくりとこちらを振り向く。
整った彫刻のような顔立ち。
そこに感情の揺らぎは見えない。
けれど彼は、数秒のあいだ、無言で私を見つめていた。
そして、唐突に。
彼はその場に膝をついた。
「……え?」
思わず一歩、後ずさる。
騎士は深く頭を垂れたまま、低く、地響きのように落ち着いた声で口を開いた。
「恐れながら、リナ様。身に余るお言葉を賜り、恐悦至極に存じます」
「い、いえ……そこまで畏まらなくても……」
「しかしながら、もしお許しいただけるのであれば――」
そこで言葉が切れた。
騎士はなお頭を垂れたまま、じっと沈黙している。
……嫌な間だ。
背筋を、冷たい蛇が這い上がってくるような感覚。
本能が、これ以上先を聞くなと激しく警鐘を鳴らしている。
なのに。
「……なに?」
――聞いちゃった。
口が勝手に聞いちゃったよ!
騎士は、ようやく顔を上げた。
感情は薄いはずなのに、
その奥底で、暗い星のような光が異様に明滅している。
そして一切の迷いなく言い放った。
「どうか。その高貴なお足で、
私を――踏んでいただけませんか」
世界が、死んだように静まり返った。
「…………は?」
思考が真っ白に染まる。
踏む?
私が?
王都一の規律を誇る、この男を?
「ご安心ください」
騎士は、公務の報告でもするかのような真面目な顔で続けた。
「強くなくて構いません。ただ、あなた様の重みを感じたいのです」
「強くなくても嫌よ!!」
私は喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
「なんで私があなたを踏まなきゃいけないのよ! どんな状況よ、それ!」
「それが私の望みであり、騎士としての救いだからです」
即答だった。
あまりにも純粋なその狂気に当てられ、私の背後でルシアンの魔力が黒く膨れ上がる。
「……リナ」
奈落の底から響くような声だった。
振り返れば、ルシアンが絶対零度の瞳で騎士を見下ろしている。
「君にそんな要求を突きつけるとは。随分と、命の使い道に困っている男のようだな」
父もまた、腕を組んだまま、氷の礫のような視線を投げかけた。
「……護衛騎士。貴様、採用面接ではそんな『嗜好』について一言も申告しなかったな?」
「職務とは無関係ですので。個人的な真理です」
「十分関係あるわよ!!」
叫んだ瞬間、こめかみがずきりと痛んだ。
私は頭を抱え、その場にうずくまりたくなった。
喉の奥がひりつく。
胃のあたりが、じわじわ冷えていく。
どうして。
どうしてこうなるの。
この屋敷には。
私の周囲には。
まともそうな顔をした人間まで、どうして中身がこれなの。
私は深く息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
胸の奥がつかえて、薄い呼吸だけが何度も往復する。
肺の内側に、冷たい綿でも詰め込まれたみたいだった。
そしてようやく、残酷な真理を理解したのだ。
この騎士も、まともそうに見えたのは
皮――規律――が分厚かっただけ。
その中身は、他の連中と何ひとつ変わらない。
指先から力が抜けていく。
笑う気力も、怒鳴る気力も、床へぽろぽろ落ちていく気がした。
……もう、嫌。
本当に、誰か。
私を「踏む道具」や「蒐集品」としてではなく。
一人の人間として見てくれる、普通の人を連れてきて。
――その瞬間。
ひとつの閃きが、頭の中に落ちてきた。
そうだ。
そうよ……!
あの手があるじゃないの!!
絶望の底に沈みかけていたはずなのに、
胸の奥でぱっと火が灯る。
私は、にやりと笑った。




