王都最高の画家は、どう見ても奇人だった
アトリエの重い扉が開いた瞬間、むっとした油絵具の匂いが押し寄せた。
乾いた木と溶き油の香りが混ざった、濃い空気だ。
中央にはぽつんと一脚の椅子。
その正面、大きなキャンバスの前で、王都最高の画家と名高い男が筆を握りしめていた。
まるで祈りを捧げる信徒のような姿勢だった。
「……お待たせしたわね」
私が椅子に腰を下ろした瞬間、画家の肩がびくりと跳ねた。
私の動作を釘付けに見つめていた彼の瞳は、血走っている。
その目が私を捉えたまま、喉の奥から震える声が漏れた。
「……あぁ……なんという……美しさ」
画家は呆然と呟いた。
「光そのものが、意志を持って歩いて――」
一瞬の沈黙。
「……座った」
その目から、ほろりと涙がこぼれ落ちる。
「……え?」
まだ座っただけなのだけれど。
背後では父が満足げに腕を組み、
隣ではルシアンが冷静な顔で私を観察している。
――正確には。
「リナが最も美しく観測できる角度」を、真剣に測っていた。
本当にやめてほしい。
「始めなさい」
父が命じる。
「リナの睫毛の一本、肌の産毛の一本まで、克明に描き写すんだ」
命令の内容が、すでにだいぶおかしい。
しかも画家の様子も、最初からずっとおかしい。
それでも画家は震えるように頷き、キャンバスへ向き直った。
最初の数分は見事だった。
筆運びに迷いはない。
さすが王都最高の画家――
そう感心しかけた、その時だった。
バキッ。
乾いた音が、アトリエに響いた。
私は瞬きをした。
画家が、自分の筆をへし折っていた。
「……描けない」
震える声が落ちる。
「こんな……こんな平坦な色彩では、この神々しいまでの魔力の揺らぎを表現しきれない……!」
画家の呼吸が荒くなる。
そして突然、パレットを投げ捨てた。
バーン! ガラン、ガラン……。
絵具皿が床を跳ね、赤や青の絵具が無惨に飛び散る。
画家は床に膝をつき、指先で絵具をすくい上げた。
「違う……この色ではない……!」
そのまま顔へ塗りたくる。
頬、額、鼻先。
次の瞬間、画家の顔は赤や青の絵具でぐちゃぐちゃに染まっていた。
絵画というより、事故現場だった。
「光の温度が足りない……!
この世界の色彩では足りないのだ……!」
……嫌な予感しかしない。
次の瞬間、彼はふらりと立ち上がり、私の方へ歩いてきた。
一歩。
また一歩。
ひぃっ。
まるでゾンビが迫ってくる恐怖。
こ、腰が抜けて――
席から立てないっ!
「もっと近くで……もっと近くで拝見しなければ」
うっとりした声だった。
「この肌の透明感、瞳の奥に蠢く甘美な光……。
キャンバスという『箱』に収まるはずがない。
これは、神に対する冒涜だ……!」
「ちょ、ちょっと、画家さん?」
私は思わず身を引いた。
「近いわ。距離が近すぎるわ!」
だが画家は聞いていない。
陶酔した表情のまま、私へ手を伸ばしてくる。
ぞくり、と悪寒が走った。
画家の瞳は、もう私しか見ていなかった。
獲物を見つけた獣みたいに、ぎらぎらと光っている。
嫌な汗が背中を伝う。
「触れたい……。直接触れて、この光の正体を理解しなければ、私の指先は二度と動かない……」
知らないわよそんなの。
「あぁ、リナ様。
どうか、私だけのために……
その光を檻に閉じ込めさせてください」
誘拐宣言。
いや、監禁宣言!?
「嫌よ! こないで!!」
私はとうとう悲鳴を上げた。
「誰か……! た、助けて!」
もう何度目か分からない。
いや、今日の分でいえば、1回目の誘拐未遂である。
なお、まだ昼である。
ついでに言えば、今日は肖像画を描く予定だった。
画家の手が私の首へ触れようとした、その瞬間――
「――不快だ」
低く凍てついた声が落ちた。
「その汚れた指ごと、氷漬けになりたいのか?」
ルシアンの紫の瞳が、冷たい光を帯びる。
彼は一歩だけ前へ出た。
「俺のリナに三歩以上近づくな」
室内の温度が急降下する。
画家の足元から霜が走り、靴が床へと瞬時に凍りついた。
ルシアンの紫の瞳が、殺意を隠そうともせずに光っている。
「ルシアン……!」
「リナ。やはり君の傍には俺が必要だ」
静かな声でそう言うと、ルシアンは視線だけを父へ向けた。
「義父上。これでもまだ、俺の同室案を否定なさるのですか?」
やっぱりそこに繋げるのね!?
父は眉をひそめた。
「ルシアン、それは別の問題だ」
きっぱりと言い切る。
「……おい、護衛を呼べ!
新しく雇った、王都一の規律を持つというあの騎士を!」
混乱の中、アトリエの扉が勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、一人の騎士だった。
背筋は刃のように真っ直ぐ。
鉄のような規律を纏った男だ。
凍りついた室内にも一切動じない。
むしろ――
この異常な光景を、
「当然の状況」とでも言うように静かに見渡していた。
その姿を見た瞬間、私は胸の奥から大きく息を吐いた。
……ようやく。
肩の力が抜ける。
ようやく『まともそうな人』が来た……!
私はその時、心からそう安堵した。




