ルシアン、お前もか。
一睡もできなかった。
正確に言うなら、眠ろうとするたびに両親の「愛の囁き」が降ってきて、脳が危険信号を鳴らし続けたせいだ。
その結果、私はうっすらと隈を作ったまま朝食の席に着くことになった。
テーブルの向こうでは、昨夜の不気味な凝視などなかったかのように、両親が爽やかな笑顔を浮かべている。
そして――当然のように席についているルシアン。
「おはよう、リナ。顔色が悪いな。やはり俺が添い寝して、君の睡眠時のバイタルを管理すべきだった」
「ルシアン、朝からうざい……」
私がそう言った瞬間だった。
ルシアンの唇の端が、ふっと持ち上がる。
まるで宝石でも渡されたかのように、心底満足そうな顔だ。
……いや、待って。
なんで今、そんな嬉しそうなの?
「……ふふ」
ルシアンが小さく笑った。
「やっといつもの君だ」
「は?」
「昨日はずっと怯えていただろう。だから心配していたんだ」
彼は紅茶のカップを持ち上げながら、満足そうに続ける。
「俺に『うざい』と言えるなら、もう大丈夫だ」
まるで褒め言葉でももらったかのような顔で言うのが、余計に腹立たしい。
「……ルシアン」
その時、父の声が落ちた。
低く、冷えた声だった。
「リナにあまり構うな」
父はゆっくりと視線を向ける。
「朝の時間は家族の……いや」
ほんのわずかに間を置き、
「リナを愛でるための神聖な時間だ」
ルシアンの表情が、わずかに驚きに染まる。
父とルシアンの視線が絡み合う。
……やっぱり、おかしいよね?
次の瞬間。
「……チッ」
ルシアンが隠す気もなく舌打ちをした。
それでも優雅な仕草で紅茶を口に運ぶあたりが、余計に腹立たしい。
「……それで、お父様」
私はフォークを置いた。
「さっきから廊下に使用人たちが集まっているけれど、何かあるの?」
その瞬間、父の瞳がぱっと輝いた。
まるで、この質問を待っていたかのように。
「ああ、リナ。昨日、お前を失いかけて私は確信したのだ」
父はゆっくりと言った。
「形あるものは、いつか損なわれる」
嫌な予感がした。
「ならば――今この瞬間の、この上なく美しいお前を、永遠に固定しておく必要がある」
「……固定?」
言葉の響きが、妙に重い。
ルシアンの言う「物理的な固定」とはまた違う、不穏な気配。
「肖像画を描かせようと思う」
父は静かに続ける。
「一枚や二枚ではない。王都中の高名な画家をすべて呼び集めた」
嫌な予感が、確信へと変わった。
「お前の微笑み、物憂げな瞳、食事をする仕草、眠る姿……すべてを記録する」
「何枚でも描かせましょう」
母がうっとりと頬に手を当てる。
「お父様と相談したの。屋敷の廊下を、全部リナの絵で埋め尽くすのよ」
「右を向いてもリナ、左を向いてもリナ」
父が続けた。
「階段を上がれば、お前の成長がキャンバスで語られる。……素晴らしいと思わないか?」
「待って!? そんなに必要ないよね!?」
私は思わず椅子から立ち上がった。
だが、両親の耳には届いていない。
二人の瞳はすでに、
「娘の成長を残したい親」のそれではなかった。
至宝を蒐集することに取り憑かれた、狂信者の目だ。
「……義父上。その案には、賛成です」
横から、静かな声が入る。
ルシアンだった。
「俺の研究室の壁も、リナの肖像画で埋め尽くしたい。データとしてのスケッチではなく、色彩を伴ったリナを二十四時間観測できるのは合理的だ」
……ルシアン、お前もか。
思わず、そんな言葉が浮かんだ。
「ルシアン」
父の冷えた声が落ちた。
「お前に分ける画など一枚もない。これは我が家の、私だけの宝だ」
「……ケチですね」
「うるさい」
父はぴしゃりと言い放つ。
「リナ、すぐ準備をしなさい。第一陣の画家が、もうアトリエで震えて待っている」
ルシアンまで賛成に回った時点で、逃げ場は完全に消えた。
私は半ば引きずられるようにして、
肖像画制作という名の――
全方位監視イベントへと連行される。
なんで誰も「やりすぎ」って言ってくれないのよ、この家。
アトリエの重い扉が開く。
その向こうには、
両親の狂気に当てられた熱気をまとい、
パレットを握りしめて震える
王都最高の画家が待ち構えていた。




