逃げ込むさきは「絶対領域」
「ルシアン、いい加減にして。その、砂糖粒を数えるみたいな目で私を見るのをやめてちょうだい」
「失礼な。俺は君の糖分摂取に伴う魔力脈動の変位を
観測して――」
「はいはい、お疲れ様。おやすみなさい!」
私はティーカップを置くや否や、追いすがろうとする婚約者の指先を鮮やかにかわし、脱兎のごとく廊下を駆け抜けた。
向かう先は、この屋敷の最奥。
いかなる高位魔術師といえど、
家主の許可なくしては踏み込めない
「絶対聖域」
――両親の寝室だ。
バタン! と勢いよくドアを開け、
私は両親の元へ飛び込んだ。
「お父様、お母様! お願い、今夜はここで寝かせて!」
「おやおや、リナ。そんなに慌ててどうしたんだい?」
父が穏やかに振り向く。
その背後には、案の定、氷の微粒子をまとったルシアンが音もなく追いついてきていた。
「義父上。リナの安全のため、
今夜は俺が傍で――」
「ルシアン」
父の声が、廊下の温度を数度下げるほど低く響いた。
父は一歩前に出ると、ルシアンの肩にがっしりと手を置く。
「君の心配はもっともだ。だが、ここは私の屋敷であり、リナは私の愛しい娘だ。婚約中とはいえ、未婚の男女が同室など、我が家の規律が許さない」
「……ですが」
「ルシアン。今日は自分の家へ帰りなさい。
……いいな?」
その一言には、有無を言わせぬ威厳があった。
さすがのルシアンも、わずかに唇を歪めるだけで押し黙る。
やがて小さく舌打ちし、不承不承といった様子で肩をすくめた。
「……わかりました」
そう言いながらも、去り際に私へ視線を向ける。
「リナ。明日の朝食にはまた来るからね。君の脈拍を測るまで、俺の朝は始まらない」
不穏な捨て台詞を残し、ようやくルシアンの気配が廊下の奥へ遠ざかっていった。
やった。勝った。
私の「自由(睡眠)」が守られた!
「ありがとう、お父様!
やっぱりお父様が一番頼りになるわ」
安堵のまま、私は父の腕に抱きついた。
……けれど、その瞬間だった。
「ああ、リナ。……本当に、可愛いリナ」
父の腕が、私の背中を抱き寄せる。
その力が、ほんの少し――いや、かなり強い。
「……そうね。誰にも渡さないわね。絶対に」
背後で、お母様が低く、震えるような吐息を漏らした。
見上げると、父の瞳が以前よりも明らかに濃い色を帯びていた。
「もうどこへも行かせないよ。あんな野蛮な騎士や、執着の激しい魔術師には、指一本触れさせたくない……」
「……え、お父様?」
父の視線が、私の髪、頬、そして指先へと、ゆっくりと這う。
その瞳の奥に宿っているのは、
保護者としての慈愛というより――
もっと粘ついた、
コレクターが至宝を眺める時のような「熱」
「ねえ、あなた。リナを真ん中に寝かせましょう?」
母が、夢遊病者のような微笑みで私の手を取った。
「私たちの手の届くところから、一寸たりとも離れないように」
扉の外では、ルシアンが「念のためだ」と言いながら、廊下全体に逃走防止の結界を張り始めている気配がした。
そして、この部屋の中には――
以前よりも、はるかに重くなった「愛」をたたえた両親。
(……あれ?)
胸の奥に、じわりと冷たいものが広がる。
(もしかして私……避難場所、間違えた……?)
聖域のはずの寝室に、逃げ場を塞ぐような甘ったるい芳香と、じっとり湿った熱気が静かに満ちていく。




