盛り上がってる。ただし私を除いて……
森の空気はまだ、刺すように冷たい。
砕け散った氷の破片がダイヤモンドダストのように足元で煌めき、木々の枝には白磁のような霜が張り付いている。
さっきまで狂乱した鳥の羽毛で埋め尽くされていた空間は、今は不気味なほどに静まり返っていた。
その極限の静寂を、騎士の絶叫が切り裂く。
「リナっ! なぜ……!?」
「動くな」
ルシアンの声が、氷の刃となって森を裂いた。
「一歩でも動けば、その心の臓を氷の棘で貫く」
空気が一気に、物理的な重圧を伴って張り詰める。
二人の間に立ち込める魔力の奔流に、周囲の草木がビリビリと震えた。
凍てついた枝が耐えかねたように、パキリと小さな悲鳴を上げて砕け落ちる。
「貴方様方は、リナを不幸に陥れるつもりだ!」
騎士の叫びは、悲壮なまでの真実味を帯びていた。
「お前のような不届き者に、何ができる」
ルシアンが一歩、前へ踏み出す。
靴の下で氷が鋭く砕け、乾いた音が響いた。
「彼女を連れ去り、こんな不自由な場所に閉じ込めることが“幸せ”だとでも?」
「禁術など施せば、恐ろしい代償が……っ!」
「すべて、俺が受ける」
ルシアンの声が、地底に沈むような低音で響く。
「彼女の苦痛も、運命も、すべて俺が引き受けると言っているんだ」
空気が、完全に凍りついた。
その言葉は岩のように重く、そして――救いようがないほどに狂っていた。
けれど、騎士も引かない。
「自分は、リナと将来を誓っている!!」
その瞬間。
ルシアンの動きが、ぴたりと止まった。
ゆっくりと、地獄の蓋が開くような緩慢な動作で彼が振り返る。
背後にいた私へ、昏い紫の瞳がまっすぐ突き刺さった。
「……へ?」
視線が二つ。
騎士とルシアン、二人の煮え滾る瞳が同時に私を射抜いた。
――いや、ちょっと待って。
「誓った覚えなんて、微塵もないです」
二人の熱視線のど真ん中で、私は凛として、淡々と言い放った。
「それにルシアン。あなたとも誓ってないわよ?
禁術でどうのっていう話も、私、そんなのこれっぽっちも望んでいないんだけど」
――しん。
さっきまで森を震わせていた殺気が、一瞬で、実に見事に霧散した。
……あれ?
なんだろう、この温度差。
世界を滅ぼさんばかりの勢いだった大決戦が、私の一言で「終了のお知らせ」を迎えてしまった。
するとその直後。
なぜか、信じられないことに――
「騎士くんと婚約者による、支離滅裂なアピール合戦」
が、幕を開けたのだ。
「代々お仕えしてきた我が家は、リナを守るため過酷な訓練を積み、この命を……!」
「王立学園を首席で卒業し、最高峰の魔術師の家系であり、高位貴族である俺を差し置いて、リナを完璧に管理し守り通せる者が他にいるはずがないだろう」
……なんで張り合ってるのよ、この人たちは。
私は呆れ果て、天を仰いで大きな溜め息をついた。
「あの……というか」
見苦しい自慢話の応酬に、私は無理やり割って入った。
「私の婚約者はルシアンよね? そしてあなたは、私の護衛」
私は騎士を指差した。
「気持ちはありがたいのだけど……結婚はできません!」
「ガーン!」
本当にそんな効果音が聞こえそうなくらい、騎士は胸を貫かれたような顔で、見る影もなく肩を落とした。
一方のルシアンは腕を組み、いかにも「当然の結果だ」という勝者の顔を隠そうともしない。
「自分は……自分は絶対に、リナ…様から離れません……!」
騎士が、泣きそうな顔で必死に食い下がる。
「でもあなた、私を誘拐してるからね?」
私はさらっと、現実を突きつけた。
「立派な犯罪よ?」
ぐうの音も出ない正論だった。
その時だ。
遠くから、規則正しい馬の蹄の音が聞こえてきた。
林を抜けて現れたのは、我が家の騎士団。そして――
「リナ! 無事か!?」
「お父様!」
私は反射的に駆け出した。
髪にも肩にも、まだ鳥の羽がふわふわと残っている。服にいたっては羽毛布団の成れの果てのようだ。
たぶん今、私は最高に間抜けな姿をしている。
でも、そんなことはどうでもいい。
お父様の腕に飛び込んだ瞬間、張り詰めていた体の力が一気に抜けた。
ああ。
ここだ。こここそが、世界で唯一の、本当の安全圏だ。
背後では、騎士とルシアンがまだ未練がましく睨み合っている。
お父様はその光景を一度だけ一瞥し、深く、深く眉間を押さえた。
「……事情は、おおよそ察している」
枯れた、疲労の色が濃い声だった。
「だが、今は邸へ戻るぞ」
そしてお父様は、跪いた騎士を冷徹に見据えた。
「そなたの忠誠心が、リナのためとはいえ行き過ぎた。護衛から外し、追って沙汰を言い渡す」
騎士はゆっくりと、力なく頭を垂れた。
「……承知、いたしました」
私はその姿を見ないようにして、お父様にしがみついた。
――その時。
背後から、我慢の限界といった叫び声が飛んできた。
「そこは、俺の腕の中じゃないのか!?」
振り返ると、ルシアンが本気で、心底から納得いかないという顔をして立っている。
「両親の腕の中が、世界でいちばんに決まってるでしょ!?」
「……チッ。納得いかないな」
あからさまな舌打ち。
本当にこの人は、どこまでいっても――。
うざくて、重くて、面倒で、執念深くて。
でも。
私は一度だけ、振り返った。
「ルシアン」
「……なんだよ」
「来てくれてありがとう!」
私は満面の笑みを浮かべた。
「大好きだよ!」
その瞬間、ルシアンの顔がパアァッと春の陽だまりのように輝いた。
「……っ! リナ!!」
彼は歓喜に震え、大きな腕をこれでもかと広げる。
完全に、私を受け止める気満々のポーズだ。
私はその姿を見つめ、最高に愛らしく、そして極上の笑顔をもう一度だけプレゼントした。
そして。
そのまま――。
ルシアンの腕を鮮やかにスルーして、お父様の馬にひらりと飛び乗った。
「えっ……!?」
広げられた腕は、そのまま空を切った。
呆然と固まるルシアンを見下ろしながら、私は馬の上で大きく息を吐く。
高原の風が髪を揺らし、鳥の羽をさらっていった。
ようやく、肺いっぱいに自由の空気を吸い込む。
「帰るわよ!」
「自由」への帰路につく私の背後で、いまだに時が止まったままの婚約者の絶叫が聞こえた気がしたが、私は一度も振り返らなかった。
誤字を修正しましたm(_ _)m




