第3話 絶縁宣言
1
僧正ヶ谷を降りたあと、再び鞍馬寺へと帰った。
「遮那王、本当に遮那王なのか!?」
牛若を育てていた老僧は、突如失踪した少年が大きくなって帰ってきたので、腰を抜かした。
「ああ」
「心配したぞ!! あのときは僧侶たちを集めて手分けして探したが見つからなくてな、みんな『神隠しに会ったのだ』と大騒ぎしておった」
安堵の表情を浮かべ、立ち上がった老僧は、牛若の肩をぽんぽんと叩いた。
「まあ、そうだな。いわゆる『神隠し』ってやつに遭った」
牛若がそう答えると、老僧に付き従っていた学僧の一人が、
「神隠しに遭ったのか! もっと話を聞かせてくれよ!! 天狗の術とか身に着けた!?」
興味津々に牛若の神隠しの話に食いついてきた。
「これについては秘伝だ。教えるわけにはいかない」
「まあ物語は明日にして、今日はゆっくり休みなさい」
神隠し期間に何があったか聞こうと躍起になる僧侶たちを、老僧は窘めた。
「ちぇっ、師僧のケチ」
不満そうに神隠しについて聞いた青年学僧は去っていった。
「政近が亡くなったとなっては、お前さんも大変じゃろう。窮屈やもしれぬが、鞍馬寺に帰ってはどうかの?」
鞍馬寺に牛若が帰ったのは、老師による提案だった。
「あんなところに帰るのは、俺も乗り気でないが、仕方ない」
渋々ではあるが、牛若は受け入れた。
「様々な圧力があるやもしれぬ。ゆえにもし何かあったときは、政近殿の遺言通り賀茂の斎院や頼政殿を頼るのじゃぞ。まあワシでもよいがの。お前さんは確かに敵だらけではあるが、一人じゃない。それだけは心に命じておけ」
「わかった」
2
後日、牛若はかつての師であった老僧の住まう房へと呼び出された。
話題は、出家のことであった。牛若も15歳。いつまでも前髪を残したままではいられない。少年時代は儚いものだから。加えて牛若には「義朝の遺児」という特大の政治的要素がある。源氏の残党が担ぎ上げる前に、平家の機嫌を損ねないために、そして母の願いを成就させるために、一刻でも早く出家させねばならない。
「名前はどれがいい?」
老僧は半紙に書いた立派な楷書体で書かれた名前の候補をいくつか出した。候補には、
「圓成」
「公曉」
「貞曉」
とあった。
「どれもいい名前だ」
感心そうに牛若は、ずらりと並ぶ楷書体の名前候補を見入っていた。
「だろ!? あ、『公暁』なんかかっこいいな!! よし、これで行こう!!」
ノリノリで「公暁」と書かれた紙を手に取る師僧。他の候補を片付けようとしていたそのときに、
「猶予をくれ」
と牛若が言った。
「どうしてだ? せっかく念願の僧侶になれるのだぞ。天狗の術とかいろいろ教えてくれたらうれしいのに」
怪訝そうに老僧は聞いた。
「母に、別れを乞うために」
牛若は答えた。
「孝行だな。行ってこい」
3
一条に牛若の母常盤の屋敷がある。
庭に植えられていた梅を、常盤は赤ん坊を抱いて眺めている。
常盤は義朝の死後、清水寺で三人の子供たちとともに清盛に保護された。以後彼女を大事にしてくれる誰かが現れるまで、六波羅の屋敷で大事にしていた。そして義朝の遺児最後の一人である牛若が鞍馬寺へ預けられる数年前に、一条にいる藤原氏の遠縁の者と結婚した。
常盤の日常は、平穏そのものだった。戦いの匂いのする常に命がけな武家とは違って、ここでは誰かに殺される心配はない。
今年もまた梅が咲いた。無事に春を越せた。それだけでも、常盤にとっては幸せだった。
月夜に照らされた梅を眺めているときに、
「母さん、俺だ」
と少年の声が聞こえた。
(お前はもしや……)
そう思い、常盤は振り返ると、そこには水干姿の大きくなった牛若の姿があった。彼女同様に色白いためか、月明かりに照らされてその姿がぼうっと闇の中に浮かんでいる。
「ああ、牛若だ」
「鞍馬へ帰りなさい」
淡々とした口調で、常盤は言った。
「帰るさ。そして、ここから自由にしてやる」
「私は幸せです。これも、貴方の父が頼んでのこと。だから、源氏の再興などという修羅の道は諦めて、清盛の言うように、学問を学んで立派な僧侶になりなさい!」
「いいのか?、男たちの都合で勝手に振り回される人生でも!?」
「構いません。これが女の幸せというものです!! 男の、それも仏門に入ろうとする貴方には、なにも関係ないでしょう!?」
先ほどとは一転、常盤は強い口調、そして自身はこれでいいんだという強い思いを乗せて言った。
抱いていた赤ん坊が泣いた。
常盤は目の前の前夫との間に生まれた男子などお構いなしに、赤ん坊をあやす。
「そんなの違う!! あんただって、三人の母じゃないか……」
牛若は消しても消しきれない過去を叫んだ。時を超えて過去に行き、義朝と会わなければ書き換えられない不都合な歴史。その一人が、ここにいる。
「帰りなさい!!」
物凄い剣幕で、常盤は怒鳴った。
悲しそうな目で、牛若はかつて母だった女性を一瞥した後、
「わかった。もういいよ、母さん」
牛若は駆け出し、目の前にあった築地を軽々と飛び越えて去っていった。
──もう母さんはいないんだ。
母である常盤は、牛若の知る限りでは、乙若や今若と指で数えられるほどしかいない肉親。今となっては唯一の血の繋がりを感じられる人から、絶縁宣言をされた。
また家族で暮らせるようになりたいから。今は亡き父がどんな人かもっと知りたいから。まだ見ぬ兄にも会いたいから……。その一心で天狗こと政近の厳しい修行に耐えてきた。なのに、もう親子でない、と母であった女性から言われたときは、自分の努力は何だったんだと感じてしまった。
冷たい風吹く夜の京都を、牛若は涙を流しながら駆けていった。




