教導
修学旅行最終日、この日は時間の許す限りに見学をしてから学校へ帰宅する。生徒たちにも疲れが見え始め、初日ほどの活気はなかった。
それでも最後まで旅行を楽しんだ生徒たちは、全日程を終えて帰路についた。疲労から行きほどの元気は残ってはいない。とはいえ、まだまだ若さは有り余っているのでやはり車内は騒がしく楽しいものになった。
悪郎は行きとは違い帰りではずっと起きていた。その代わりのように深く眠る進が悪郎の肩に頭をのせていた。進にとってはものすごく大きな一歩を踏み出したのだから、この疲労もやむなしと悪郎は快く肩を貸した。
バスに揺られ数時間後、生徒たちはようやくわが町へと戻ってきた。進と紗奈は旅を終えて大切な思い出を得た。悪郎はこの旅を経てある決心を得た。学びと成長、修学旅行の名にふさわしい旅であった。
一大イベントを終えると、いつもの日常が戻ってくる。特に中学三年生ともなれば進路を見据えていかなければならない、どんな進路を選ぼうともぼーっとしていられる日はそう多くはない。後悔後先立たず、やらなかったことは結果には出ない、酷に思えてもどうしたって世間では評価に晒されて生きていかねばならないのだ。
それを気にせず生きることもできる、しかしそれは自己責任という名の茨が生えた険しい道だ、血まみれになるには生半可な覚悟ではいられない、棘を踏み抜いた上で問題ないと言い切れる強さが必要になる。
そして大多数の人間にそんな覚悟はない。それは至極当たり前のことで、ただ生きているだけでも人生は棘だらけで、敢えて茨道を歩まずとも、傷つきながら前に進んでいかなければならない。
そんな時に、どう頑張ったのかを測る評価基準は、茨から身を守る靴にも外套にもなる。ないよりはあった方がいい、そんなふわふわとした将来像でも大人になりかけの子どもの今には十分なほど意識が高く立派だ。
部活動に打ち込んだものは、頼れる後輩に後を託す。勉学に励んでいたものは、よりよい成績を目指してさらに勉強に入れ込む。それぞれになりたいものを探して、時に夢のように、時に現実的に未来を見つめていく時がきた。
そしてこのことは、本来そこにいるべきではない悪魔にも当然訪れる。
その日悪郎は一日中ずっと一人でいた。進や紗奈、誰に何を誘われてもずっと一人でいた。進は明らかに様子がおかしい悪郎のことを心配して何度も声をかけたが、にべもなくさらりと躱されてしまった。
紗奈はろくに声をかけられなかった。悪郎の背は雰囲気がとげとげしく悲壮感に満ちていた。今まで悪郎に対して感じたことのなかった恐ろしさという感情が紗奈を尻込みさせていた。
二人でさえそんな有様なので、他の生徒たちは雰囲気に気圧されてすっかり萎縮してしまっていた。誰一人として悪郎に近寄れない中、ある一人の人物は臆することなく近づいて話しかけた。
「悪郎、少しいいか?」
「杉山先生。どうかしましたか」
「どうかしたから声をかけているんだ。さ、ついてこい」
杉山に連れられていく悪郎のことを、ほぼすべての生徒が一体どんな理由で呼び出されているのか戦々恐々としながら見守っていた。悪郎に関わりがある、進と紗奈、そして美緒だけが悪郎のことを案じていた。
「座って楽にしてくれ」
「はあ」
気のない返事をする悪郎にも杉山はにこにことしたままだった。対面に座ってまず杉山に聞かれたことに悪郎は驚いた。
「そんなにこの学校を離れがたく思ってくれているのか、そこまで気に入ってくれたなら一教師として私も嬉しいが、あまりいい面を見せられなかったんじゃないか?」
「え?は?」
「違うのか?今日の君の様子を見ていて、私はてっきりご両親の事情でも変わって転校の話でも出ているのかと思ったのだが」
悪郎は事情を知らないはずの杉山が大体その通りのことを言い当てて、驚きに口をぱくぱくとさせた。その後少し迷い俯いてから顔を上げて言った。
「そうですね、概ね杉山先生のおっしゃる通りです」
「概ねか…、あまり踏み込んで聞いてほしくはないか?」
「というよりも、どう説明していいのか俺にもまだ整理がついていません」
「そうか、では話せる限りの話をしよう。聞かせてくれないか?」
言うべきかどうか悪郎は迷う。しかしこれまで世話になってきた杉山に対して、何も語らないのは不義理であると悪郎は話を始めた。
「…俺に大切な人はできないと思っていました。それに不平を抱いたこともなかったし、俺にとってはそれが当たり前のことだった。だけどその常識が覆った。それを本当に受け止めきれているのか不安です」
「それはどちらの目線の話だい?」
杉山の指摘は的確だった。悪郎が大切な人と称した人物が進と紗奈だと見抜き、残された彼らが自分が離れた時どう思うのかという不安なのか、離れ離れになった時自分がどう思うのかという不安のどちらなのかと悪郎に問うた。
察しもよく話しやすい人だ、そう悪郎は思った。優秀さを実感できて安心することができる。話しても大丈夫だと思わせてくれる。
「俺の目線です。俺は本当に、ちゃんと大切な人たちと別れられると思いますか?」
そう聞かれた杉山はしばしあごに手を置いて考え込んだ。そして考えがまとまるとゆっくりと口を開いた。
「未練がましくてもいいさ、みっともなくすっきりした別れでなくてもいい。大切に思えば…、いや大切に思うが故かな、きっとその時が来たら互いの気持ちは激しくぶつかり合うだろう。喧嘩別れになってしまうかもしれない、納得はできないかもしれない、でもそれでいいと私は思う。人生はまだまだ長い。時間が解決をしてくれるという言葉は無責任に思えるかもしれないが、どんな結果になろうと本音をぶつけ合わないよりずっといい」
時間が解決をしてくれる。今の悪郎には刺さる言葉だった。答えを出せないでいる状況では時間に任せることは決して悪い選択ではない。少なくとも何もできずに終わってしまうことが最悪だった。
「…それでも勇気がでない。そんな時にはどうすればいいですか?」
「おや、何でもできる悪郎でも自信がないかい?」
杉山は重くなった雰囲気を和ますために、少し冗談めかしたようにそう言った。しかし悪郎の表情は険しく、目は真剣そのものだった。
「はい。恥ずかしながら自信がありません」
それはあまりに真に迫る物言いで杉山は思わず怯んだ。しかしきゅっと口を結んでからぐっと体に力を込めると、杉山は立ち上がって悪郎の肩に手を置いた。
「大丈夫だ悪郎!そんな時はお前のことを信じてくれているその大切な人たちのことを信じろ!お前の大切な人たちは、お前が真剣に考えて出した答えや言葉に向き合えない人ではない!」
杉山のその言葉は、先ほどの悪郎の言葉よりも真に迫るものであった。悪郎のことを、そして進や紗奈のことを見守ってきて信じているからこそ、絶対に大丈夫だと太鼓判が押せる杉山ならではの言葉だった。
「あっ、わ、悪い。痛くなかったか?そんなに力は入れていないつもりだが」
力が入り過ぎたと杉山はパッと悪郎から手を放した。慌てて自分のことを心配する様を見て悪郎は面白くなって笑みを浮かべた。
「先生、ありがとうございました。先生の言う通りです。俺の大切な人たちはどんな困難にも絶対に負けない強さを持っています。忘れていたつもりはなかったけれど、目は鈍っていた。俺はただそれを信じるだけでいいんだ、きっとそれが友達ってやつだから」
悪郎は立ち上がりピシッと姿勢を正してから杉山に深々と頭を下げた。それは悪郎が表せる最上の感謝であり、敬意を表しての行動だった。
今までずっと悪郎は、進のことを教え導いてきた立場だった。それが打って変わって短い間だったとはいえ、悪郎の教師としての役割を果たした杉山に敬意を表し、その教えを胸に深く刻み込んだ。




