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悪郎の幸福論  作者: ま行


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見守る

 本格的な演奏指導を始めてみて、悪郎には分かったことがあった。紗奈は飲み込みも早ければ要領もいい、あっという間にコツを掴み教えたことをどんどん吸収してめきめきと上達する。


 教えてそう経たないうちにすでに一曲弾き切る実力が身についていた。その目覚ましい上達ぶりに感心する悪郎だったが、同時に何故紗奈が多くの人の嫉妬を集めてきのかが理解できた。


 見目麗しいだけでなく天才肌、本人はそのことを鼻にかけず常に一歩引く性格。あくまでも自分ではなく人を立てようとする。紗奈を前にして、劣等感を抱かずにいられる方が稀有なのだ。本人にはまったくその自覚や意図がないことも拍車をかけていた。悪郎は紗奈には悪いと思ったが、すべてなるべくしてなったことだと思えてしまった。


 当然、紗奈に嫉妬や羨望を抱いて悪行に走る者が絶対的に悪い。悪いのだが、自分の強みや長所、立場などを笠に着て他人を意のままにしていた小坂拓巳の方がまだ敵を作りにくいだろう、そう悪郎は思った。


 紗奈は自覚もないままに敵も味方も多く作るタイプだ。なおかつ性格が博愛的であるため仲良くできる人は限られる。紗奈に問題がある訳ではない、ないけれどこのままでは紗奈は無自覚に敵を作り続ける。


 それをどうにかするためにも進の作戦は理にかなっているかもしれない、そう考えると悪郎も指導に熱が入った。


 今のところ紗奈に問題はない。しかし進はそうはいかなかった。




 進はドラムを前にいつまでも目を回していた。根気よく練習に付き合う悪郎も頭を抱えた。器用な方ではないと知っていたけれど、教えても教えても進は慌ててしまい、演奏に身が入らない。


「だからな進。とりあえずかっちこちに緊張するのだけはやめないか?」

「緊張するなって言われても…。悪郎は緊張するなって言われて緊張できずにいられるか?」

「言ってることは分かるけど、叩いてもらわないとこっちも困るんだよ。それに見てみろ、紗奈は相当上達してるぞ」


 紗奈はすでにギターを弾きながら歌の練習にまで取り組んでいた。上達速度の差を見て進は余計に肩を落とした。


「こ、この作戦は僕が言い出したのに、こんなんじゃ無理だ!足を引っ張るだけだ!」

「無茶なのは最初から分かってただろ。だから練習するんだよ」

「分かってたけど…、あの時は必死で…、後先考えてなかったっていうか」


 悪郎はため息をついた。そして肩をつかむと適度な強さで進の肩をもみ始めた。気持ちいいマッサージにじんわりと肩や首まわりが温まってきて進は思わず声が漏れ出た。


「だああぁぁ、気持ちいい。悪郎ってこんなこともできるのか」

「まあな。よし、そのまま肩の力を抜いて聞け」

「いやこれ言われても力入らないよ」

「進。俺はな、今回のことはお前にすごく感謝してるんだぜ?この作戦は、俺じゃあ思いつかなかった。…と、思う」

「思うかよ」

「時間をかけたら俺も思い付いたかもしれん。だがここまで手際よくできたかは分からん。俺はもっと力技でいくだろうな、それで波風立てても消してしまえばいい」


 進は悪郎ならばそうするだろうと同意した。それだけの力と能力がある。例え悪魔の力を使わなくとも、悪郎ならばもっとストレートに解決する方法を思い付くはずだ。そう信じていた。


「…必死になってやっただけだよ。悪郎から聞いた如月の話、酷いよな。聞いていただけなのにすごくムカついた」

「そうだな、酷い話だった」

「だけどもっとムカついたのは、もし自分がその場にいたとしても、どうすることもできなかっただろうなって真っ先にそう思ったことだ。考えるよりも前に諦めたことだ。それに僕は腹が立った。だから今回は思い付いてすぐ行動に移した。まあ、その考えなしのせいで今困ってるんだけど…」


 悪郎は進の肩をもむのをやめて、両手で軽くパンッと叩いた。進は極上の気持ちよさから解放され、肩を叩かれたことでハッと目が覚めたようにシャキッとした。


「いいんだよごちゃごちゃ難しく考えなくても、下手の考え休むに似たりだ。まずは何も考えず、思うがままにやってみろ。どんなに上手くやってたってどこかで必ず失敗する。最初から最後までずーっと完璧だった奴なんかいやしないさ、今も昔もな」


 その励ましを受けて進は自分の手のひらを見つめた。小さな手のひらに対してあまりにも大きな世界、この手が届く距離も及ぼす影響もごくわずかなものだ。


 それでも伸ばさずにはいられない、掴まずにはいられない、救いたいと願わずにはいられなかった。進はドラムスティックを手に取ると、おもむろにシンバルを叩いてみた。


 シャーンと音が響いて耳が痺れた。背筋がぞくぞくとして身震いする、ただ音が鳴っただけなのに面白い。これを自分が鳴らしているんだ。そう思うと進はもっと面白く感じられた。


 少しずつだが三人の音楽ができていく、進の思い付きに端を発した無茶な作戦だったが、互いを思い合う心が三人を一つにまとめる力へと変わっていった。




 教師の杉山は進たちの様子を見にやってきた。責任者を引き受けた身である以上に、急に積極性を見せた進のことがどうにも気になっていた。教室内から外に漏れ出る音を聞くと、一応真面目に練習しているのは見ずとも分かった。


「しかしなんだ…、一人だけやけに上手だな」


 杉山は特別音楽をたしなむ訳ではない、極々常識的な範囲でしか音楽を楽しまないし、性格的にも楽しめる方ではなかった。しかしそんなど素人の杉山でも、圧倒的なテクニックで演奏している誰かがいると分かった。


「入るぞ」

「あっ先生。どうしたんですか?」


 杉山の入室に気が付いて全員が手を止めた。


「お前たちなら心配ないと思うが、監督するのは教師の役目だからな。それと外から少し聞いていたが、やはりあの演奏の音は悪郎だったのか」

「やはりとは?」

「いや、こっちの話だ。悪郎は長いことやっているのか、ええと、その楽器は確か…」

「ベースですか?」

「そうそう。正直どう違うのかよく分かってないんだけどな」

「よほど興味のある人以外はそんなものだと思いますよ。多少経験はありますがこうして触ったのは久しぶりですね」

「は?え?そ、そんなものなのか?」

「ええ。それに俺はぶっちゃけどれでも演奏できるので、今回はたまたま役割上ベースをやってるだけです。ギターでもドラムでもキーボードでも、なんでもいけますよ」


 悪郎はそれを自慢げに言うのではなく、さも当然と言わんばかりにさらっと言ってのけた。特別なことでも何でもないと心の底からそう思っている発言だと杉山は思った。


 その態度に少々うろたえる杉山を見て進は強く共感を覚えた。早々すんなり受け入れられないよなと、二人から見えないところでうんうんと頷いた。なぜ杉山が固まっているのか分からず首を傾げる悪郎に代わって紗奈が声をかけた。


「先生はギターとかやったことないんですか?」

「うん?あ、ああ、そういうのはなかったな。だからこうして楽しそうに演奏しているのを見ると、少々うらやましくも思えるよ」

「先生もやってみますか?」


 そう言ってスティックを手渡そうとする進に杉山は苦笑いで返した。


「いやいや遠慮するよ。覚える時間もないし、生徒の輪の中に教師が入るような無粋な真似はしたくないからな」

「そうですか?先生なら大歓迎なのに…」

「はははっ、そう言ってくれるのはありがたいよ。だがこれは君たちのステージだ。それにな、本当は何かきっかけがあったんだろう?佐久間」


 杉山から思わぬ指摘を受けた進はびくっと体を震わせた。杉山には何も言っていないはずなのに、何故そう思ったのかと考えると冷や汗が噴出した。みるみる青い顔になる進に杉山は慌ててフォローに入った。


「ああ違う違う、別にそのことを咎めたい訳じゃないから安心してくれ。言いたくなければ言わなくていいし、好きなことを好きなようにやればいい、先生はそれを応援しているよ。ただ自分たちではどうしようもなくなった時はすぐに先生に相談してくれ、全力で力になると誓うよ。それまではやりたいようにやってみなさい」

「やりたいように…。いいんですか?」

「勿論だとも。限度はあるが、君たちならはき違えないだろうと信頼しているからね。自分たちでできる限り頑張ってみるといい」


 杉山からの信頼を感じて進は胸の奥がかあっと熱くなる思いだった。杉山も進が復学するために骨を折ってくれた一人であり、恩義のある人物だった。これから進たちがやろうとしていることが杉山に迷惑をかけるかもしれない、しかしそれを丸々受け入れる度量が杉山にはあった。進たちは杉山という後ろ盾を得られたおかげで、目的に向かってひたすらに邁進することができた。

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