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悪郎の幸福論  作者: ま行


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情報

「僕は…、どうしてあの場から逃げ出したんだろう…?」


 進は一人でとぼとぼと帰宅していた。いつもは隣にいる悪郎はいない、黙ってバレないようにこっそりと教室から出てきてしまった。それでも悪郎ならすぐに追いついてくるかと思っていたが、その気配はなかった。


 そんなことよりも進は、悪郎と紗奈が一緒にいたあの場に入り込めなかったことにショックを受けていた。どうして引いてしまったのか、あの場所と二人のことを恋しく思っていたはずなのに、そんな後悔が頭の中でぐるぐると巡りまわる。


 クラスメイトとの仲を取り成してくれた美緒については感謝をしていた。おかげで大分多くの人と会話を交わせるようになり、顔と名前を覚えることができてきた。馴染み切れなかった空気感もすっかり解けてきて、クラスから浮き気味の状況からは脱しつつあった。


 それはすべてきっかけを作ってくれた美緒の功績だった。もし自分から歩み寄ったとしてもこれだけの結果は出せなかっただろうと進はそう考えていた。クラスメイト全員をつなぐコネクションは顔の広い美緒でなければ持ちえないものだった。


 だから感謝するべきだと頭では分かっていた。それでも素直に感謝することができないのは、紗奈に対して行われているこの流れに乗じているであろう不穏な動きがあるからだった。それを行っているのが誰で、どんな目的があるのか進にはまったく分からない、だから自分から糾弾することもできなかった。


 そして今の融和的なムードの中で、進が自ら水を差すような真似をすれば、場は一気に白けて進にまた奇異の目が向けられることは目に見えて分かっていた。だからこそ進の方から何か行動を起こすことができなかった。築き上げたものが一瞬で崩壊する恐怖を身をもって知っている進は、人の善意という縄でがんじがらめにされて動けずにいた。


「どうすればいいんだ…。一体、僕に何ができるっていうんだ?」


 進が独り言をぶつぶつと呟きながら歩いていると、唐突に背後から肩を叩かれた。もしかして悪郎かと思い勢いよく振り返った進が見たのは、悪郎ではなく別の人物だった。


「あっ…、え、えっと、中田くんと林くん?だよね」


 それはクラスメイトの男子、中田勇樹なかたゆうき林貴弘はやしたかひろの二人だった。中田と林の二人は幼少期からの付き合いの幼馴染同士で仲がよく、学校でもほとんどの場合二人一緒で行動していた。


「そうそう。ありがとな、名前覚えてくれて」

「それよりも大丈夫か佐久間?なんかふらふらしてて今にも倒れそうだったけど」


 中田と林の二人は帰り道で遠目にふらふらよろよろと歩く進を見かけた。そしてその身を心配して後を追いかけてきたのだった。進がすぐにでも倒れるか転んで何かにぶつかるかしそうな様子だったからだ。


「ここ、車の通りが少ないとはいえそんな歩き方してたら危ないぜ?」

「具合でも悪いのか?」

「あ、いや、そんなことないんだけど…。ええと、ちょっと」


 進が言いよどんでいると、中田が慌てた様子で言った。


「ああいや、無理しなくていいって。佐久間がふらふらしててちょっと心配だっただけだからさ、大丈夫そうならそれでいいんだ」

「そうそう。何かあってとしても無理やり聞き出したい訳じゃないからさ、気をつけろよって言いたかっただけで」


 中田も林も進に配慮して言葉を選んでいた。多少打ち解けてきたとはいえ、二人もまたいじめの加害者に違いはなかった。進のことを傷つけないようにと、相当に気を使って対応していた。


 しかし配慮の心はすなわち進を思いやる心である。それが伝わってきただけでも進は十分に嬉しかった。ここでこうして声をかけてもらえたのも何かの縁だろうと思い、進は立ち去ろうとする二人のことを呼び止めた。


「あのさっ!ちょっ、ちょっとだけいいかな?時間あるなら話を聞いてもらいたいんだ!」


 進の言葉に二人は顔を見合わせて驚いた。そしてどうする?と言外に視線で伝え合う。多少の当惑はあったものの、二人は頷いて進に言った。


「俺たちでよければ聞くよ」


 クラスメイトから聞けたその言葉は、進にあった直近のできごとの中でもトップクラスに嬉しいものだった。




 進は二人に連れられて、少々奥まっていて人目につきにくい路地へと来た。中田が設置された自販機に小銭を投入すると進に聞いた。


「何がいい?」

「え?」

「奢るよ。何がいい?」

「じゃ、じゃあそれ」


 進が指さした商品のボタンを押すと、ガコンと音を立てて缶ジュースが落ちてきた。中田は取り出した缶ジュースを進に手渡すと、自分の分を買った。次いで林もジュースを買って、三人は同時に蓋を開けた。


 プシュッという小気味よい音が鳴る。缶を傾けジュースを口にする、わざとらしさを感じる果実味に、喉を通る炭酸飲料の刺激が心地よい。買い食いは校則で禁止されているので、それを律儀に守っている進にとってこの行為は初めての経験だった。


「ここ先生にバレにくいんだ。近くにベンチもあるしいい場所だろ?」

「うん。こんな場所があるなんて知らなかった」

「買い食い禁止って意味わかんねえルールだよな。誰が決めたんだか」

「先生たちだって俺たちくらいの時ぜってえ買い食いしてたと思わねえ?たかだかジュース一本買うだけで大げさだよな」

「校則で決められてたから僕も何となく従ってたけど、確かに理屈はよく分かんないよね」

「まあでもルールはルールだからな。佐久間も、ここのことは内緒な?」


 林は人差し指を立てて口に当てるジェスチャーをしながらそう言った。ばらすつもりなどない進はコクコクと何度も頷いて返した。


「それで?佐久間が話したいことって何?」

「あ、うん。その、最近さ、皆がよく話しかけてくれるでしょ?それは嬉しいし、ありがたいんだけど。何かこう、皆思ったより積極的に話しかけに来るなって感じてて」


 進は必死に言葉を選びながら話始めた。自分と紗奈を近づけないようにしてるよね、とは聞ける訳もなく。紗奈がのけ者になっているよね、とは指摘できる訳もなかった。


 これでニュアンスが伝わるかと心配になったが、林が納得するように声を上げた。


「あー、確かにそうかも。いや、俺が言えた話じゃないけどさ、結構皆変わり身が早かったというか…。確かに俺たちも佐久間と話す機会があればいいなとは思ってたけど、なんか色々と急だったよな」

「もしかして迷惑だったか?それで悩んでたとか」


 中田の言葉を進は即否定した。


「全然迷惑なんかじゃないよ!むしろ特別扱いされてた時の方が悩んでた。明らかに僕クラスで浮いてたし」

「そっか…、そうだよな。悪かったな佐久間。でも、勝手な話だけどさ、俺たちもどうしたらいいのか分からなかったってところもあったんだ。それで佐久間に嫌な思いさせてたら本末転倒だけど、とにかく難しかったんだよ」


 申し訳なさそうにそう言う中田の言葉に、林も同調して頷いた。互いに距離感を測りかねていて、それが結果的に互いをけん制し合うような状況に陥ってしまっていた。これが進にとっても、クラスメイトにとっても共通の認識であったことを進は初めて知った。


「だからこそ佐久間の周りに人が集まってたのが渡りに船だったんだよな。人の中に混ざるとやっぱ話しやすいし」

「あとあれも利いたな。女子から一緒に話しかけにいかないかって誘われたやつ」

「え?そんなことあったの?」

「うん。他の奴らも同じようなもんだぜ。一緒にって誘われたり、行った方がいいんじゃないかって提案されたりな。そう考えると、だから皆今ならって思ったのかな」

「突然だったけど、いいきっかけにはなったよな」


 女子の方から働きかけがあったと聞いた進は、それが初耳であったこと以上に驚き、同時に胸騒ぎがした。男子の中でそういう動向はあったかと聞くと、中田と林は揃ってないと答えた。


「あのさ、僕のために色々動いてくれた女子って特定の誰かだった?」

「いや、殆ど全員から同じこと言われたよ。誰か一人がって感じじゃなかったよな貴弘?」

「だな。こうして振り返って考えてみると、なんか示し合わせたように動いてたような気がする」


 女子のほぼ全員が一斉に行動を起こし、示し合わせたように関係改善を図る。そんなことが偶然に起こりえるだろうか。ありえない、進はそう思った。


 そして二人の話を聞いて進は確信した。自分を利用して紗奈をのけ者にしようと裏で手を引く何者かがいる。数が多すぎて特定は諦めかけていたが、これで半分に絞り込めた。首謀者は女子の中にいる。

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