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悪郎の幸福論  作者: ま行


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予感

 いつもの場所に集まっていたのは、悪郎と紗奈の二人だけであった。進がその場にいないことは初めてのことだった。


 美緒の距離の詰め方は素早かった。手始めに自分に近しい女子を呼びよせ、それからは集まりに興味を持ち始めたものたち、集団になるとそれに釣られて人がまた集まってきた。現在進の周りには代わる代わる人がいた。


 やや強引な手段ではあるが、消えかけていた進とクラスメイトたちとの接点を作るという意味では有効に働いた。気まずい空気感をどうにかしたいと思っていたのは進だけではなく、他の人々も同様の意見だった。


 積極的に仲良くなる必要はなくとも、形だけでも友好的にしておきたいと思っていた人は多かった。元々進にそれほど悪感情を持っていた訳ではない、いじめの際に皆が発信した進についての悪評のほとんどは、それを望む拓巳の意思によって歪曲された荒唐無稽なものばかりであった。


 人格否定には多大な精神力を必要とする。よほど特定の人物に対して強烈な思い入れがなければ、大抵の場合途中で力尽きてしまう。自分のことだけでも精一杯の人が大多数であるのに、他者を苦しめ続けるには根気と労力が必要だ。


 事実はどうでもいいけれどそうであればいい、どんな人かよく知らないけれどこうではないか、そんな都合のいい妥協をかき集め積み重ね、そんな汚泥をこねて作り上げた空虚な王座に座っていたのが拓巳であった。


 しかしその拓巳の退去により玉座は空位となった。そこに取って代わろうとするものも現れない。その椅子は、拓巳にとって座り心地がよいものであって、他の人にとってはどうでもいいものだったからだ。


 玉座が瓦解して消せぬ罪といえど清算は一度なされた。その後は気まずさから関係性はマイナス方向へ向いていたが、きっかけさえあればすぐに反転する。ただいじめに関与していた事実からくる罪悪感から、きっかけを作るのは自分ではないという意識が根底にあった。今更どの面下げてと、ほとんどの人がそう思っていた。


「都合いいよね。みんなしてさ」

「それは否定しないさ。便乗してるやつがほとんどだろうしな」

「…手のひら返しを否定しちゃだめだよね」


 聡い紗奈はそのことをよく理解していた。多少都合がよくとも手のひら返しを容認しないことは、関係性の改善を否定することになる。悪いものをよくしようとするならば、大なり小なり無理や無茶が入り込む。


「まあそんな騒ぎもすぐに落ち着くと思うがな。別に全員が全員、進に対して関心がある訳でもない。でもそんなもんだろ?最初の内はさ」

「確かにしゃべってみないと分からないことは多い、よね」

「寂しいのか?紗奈」


 悪郎は少しからかうつもりでそう紗奈に言った。しかし一向に返答がなく、紗奈の顔色を窺った。心ここにあらずというように何かを思案している。


「紗奈?」

「あっ、ごめん何か言った?」

「別に大したことじゃない。寂しいのかって聞いてみただけだ」

「…寂しい。うーん、寂しいとは違うんだよね。だって事情がどうであれ、進くんがクラスに馴染むのはいいことでしょ?」

「お、おう。そうだな。じゃあお前今何を考え込んでいたんだ?」

「考え込む?私が?」


 頷く悪郎に紗奈は困惑の表情をで返した。無意識のうちに思案をし始めたので、改めて聞かれても思い当たる節が紗奈にはない。ただ、悩むとしたらこれであろうという事前に感じていた胸騒ぎがあった。


「…悪郎はさ、いいことを目の当たりにした時にどう思う?」

「いいこと?具体的には?」

「えーっと…、どう言えばいいのかな。親切。そう、親切にしてる人とかを見かけた時、その大小問わず人が人に親切にしている場面を見ても悪感情って湧かないでしょ?」


 人による、悪郎はそう言いかけたがやめた。紗奈の言いたいことの趣旨とはずれているし、そんなことを言い出せば自分は悪魔だ。自分は真の意味で人間である紗奈の意見に共感することはできない。だから悪郎は話を合わせた。


「そうだな。俺にはできないかもって思うし、立派だなと感じる」

「うん、私も同意見。でもさ、その場面に不安を感じたとしたらどう?」

「不安って?」

「上手く説明できないけど、その行為自体には何の問題もないのに、それを見て不安や胸騒ぎを覚えることってない?」

「…寺沢さんには何か別の意図があるってことか?」

「別に確固たる予感ではないし、私の考えすぎだって私が一番そう思ってるよ。…でも今私が思い悩むことがあったとするなら、これ以外のことはないと思う」


 紗奈から悩みを打ち明けられた悪郎はふむと頷きあごをなでた。直観を妄信することは愚かだが馬鹿にはできない。それを感じる人にとっては、その考えに至るまでにあった多くの経験が蓄積されているからだ。


 しかし悪郎は悪魔だ。何か裏があることをしたのならすぐに分かる。だから進に美緒が接近することを容認した。自分が手を出さずともよい、むしろそれは邪魔になると判断したからこそ決断は進に委ねた。


 先ほどとは打って変わって考え込む悪郎を見て、紗奈は困ったように眉尻を下げた。


「そんなに考え込まないでよ。言ったでしょ、私の考えすぎだって」

「ん?ああ、悪い。考え込むのは性分でね、つい」

「…進くんにもっと友達が増えたらいいよね」

「同意はするが難しいだろ。そもそもあいつは生来のぼっち気質だからな、仲良くなれるとしたらよほど気が合うか、そんなの知るかってぐいぐい踏み込んでいける奴だ。でもまあ、これをきっかけにして態度が少しでも軟化してくれることは願っているよ」

「喜んでるんだか、そうじゃないんだか。悪郎は素直じゃないからよく分からないね。もっと自分の気持ちに正直になったらどう?」

「…なるほど、今朝の進の気持ちがようやく分かった気がする。紗奈、オブラートってどこで買えるんだ?」

「オブラート?薬局とかかな」


 皮肉を込めて言ったつもりが天然で返された。これでは敵わないなと悪郎はやれやれと頭を振った。それからしばし紗奈と悪郎は談笑をしていたが、ついぞ進が現れることはなかった。




 下校中、進と悪郎はいつものように肩を並べて歩いていた。美緒たちから散々質問攻めなどにあい、疲労困憊の様相であったが機嫌は悪くなかった。悪郎が見る限り、むしろ上機嫌だと思えた。


「よかったな進。一気にクラスの人気者か?ただそのだらしのないニヤケ面はシャキッとさせておけよ」

「え?僕そんなにニヤケてた?」

「不快か不快でないかと聞かれたら、不快と断言できる程度にはニヤケてた」

「なんだその棘しかない言い回し。嬉しかったんだからいいだろ別に」


 不満そうに唇を尖らせる進に悪郎は笑いかけた。


「別に悪いとは言ってないさ。だからよかったなって最初に言ったろ?」

「でも唐突だったからびっくりしたけどね」

「だがお前にやったことを考えると、ああして声をかけようって思い立つこと自体勇気がいるものだ。そこは素直に称賛に値するよ」

「…だね。僕もそう思う。これで何もかもよくなるって思えるほど楽観的じゃないけど、少しでも教室の空気が変わってくれたらいいな」


 進の考え方は悪郎とほぼ同じだった。今は興味をもって接してくれる人もいるが、自分の人柄を知るうちに波はあっという間に引いていくだろうと予想していた。自分にいつまでも人を惹きつけていられるような魅力がないことは、進自身がよく知っていた。


 それでも十分関係改善の役には立つだろうと考えていた。少しだけだが進もクラスメイトのことを知れたし、その逆もまた然りだった。最低限のコミュニケーションはとれたと言っていい成果だった。


「皆すぐに飽きると思うし、寺沢さんとも後数回くらいしか話さないと思うけどさ。やっぱり受け入れられたって思えると嬉しかったよ。そこは寺沢さんに感謝しないと」

「そうだな。うん、確かにお前の言う通りだ。よかったな進」

「悪郎もありがとうな。お前がいなきゃこの結果はなかった。僕、やっぱり学校に戻れてよかったよ」


 柔和な笑顔を浮かべる進を見ていると、悪郎は紗奈の言うことを信じたくないなという気持ちになった。寺沢美緒には裏の顔がある。紗奈には悪いが、それが嘘であれと悪郎はそう思っていた。

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