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悪郎の幸福論  作者: ま行


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突然

 悪郎がどうしてもすぐに紗奈と将棋で勝負をしたいとごねたので、放課後を待ち図書室に進、悪郎、紗奈が集まった。学校の図書館に種類が豊富ではないが、生徒たちが自由に遊ぶことができるボードゲームが置いてあった。その中から将棋盤を借りて三人でテーブルにつく。


「進くん将棋は知らない?」

「うん」

「チェスは知ってるのにな」

「うるさいな悪郎。不純な動機だってのは分かってるよ」

「不純って?」

「進はチェスができる奴が洒落ててかっこいいだろうって思ったんだとさ。俺にはよく分からん価値観だが、紗奈には分かるのか?」

「うーん…、ごめんちょっとよくわかんない」

「僕のことはいいって!ほら早く始めなよ、よーいドン!」


 駒を並べ終えた二人に対局を促すように進は手を振り下ろした。相撲じゃあないんだからと悪郎は苦笑いを浮かべたが、紗奈は楽しそうにくすくすと笑っていた。




 二人が黙々と駒を動かす様子を眺める進は、今どちらが優勢なのかよく分からないのでぼけーっとしていた。玉の駒も意外と留まらずよく動くのだなと、知識がないのでその程度の感想しか抱くことができない。


 しかし二人の真剣な表情は見ものだなと思った。悪郎が次の手を思案する横顔は、どこか渋くて凛としている、ただそれだけで絵や写真になりそうな雰囲気があった。


 紗奈の横顔はただただ美しい、長いまつ毛に通った鼻筋、駒を動かす白く細い指が口元に向かうのと、思わずそれを目で追ってしまう魅力があった。


 パチ、パチッと駒を指す音が交互に聞こえてきて耳に心地よい、意外と細かいルールを知らなくても楽しめるなと進は思った。しかしそれはこの三人で一緒にいるからかもしれないとも思った。それくらい進にとって三人でいるのが自然な距離感となってきていた。


「うーん…」


 今までずっと黙って将棋を指していた紗奈が声を出した。負けそうなのかなと進は盤面を見たが、どちらかというと悪郎の方が劣勢のように見えた。悪郎の陣に紗奈の手駒が食い込んできていて、攻め込まれているように見えた。


 実際悪郎は険しい表情をしているが、紗奈の方には険しさはなく、何かを思い悩むような表情と空気感であった。


「ぐ、ぐぐっ…ぐう…」


 今度は悪郎が声を出した。声というより苦しみの呻きだった。悔しそうに拳を握りしめてぐぐっと将棋盤に顔を近づけてから「負けました」と言葉を絞り出した。


「ええっ!?本当に悪郎が負けたの!?」


 進は思わず大声で驚いてしまい、司書教諭の松本から叱られる。口を手で塞いで声を潜めながら、改めて二人に勝負の顛末について聞いた。


「マジで悪郎の方が負けたの?」

「…認めねばならんからな、これ以上手はないと」

「うーん、久しぶりにやったから詰めで大分迷っちゃったなあ。でも楽しかったよ、ありがとね悪郎」

「ぐぅっ!!敗北がこんなにも悔しいものだとは…」


 勝負事で敗北を経験したことがなかった悪郎は露骨に悔しさをにじませていた。仕事でいくら成績を残すことができなくとも一つも悔しく思ったことはなかったが、敗北の悔しさという初めての感情に気持ちを昂らせていた。


「すごいじゃん如月!悪郎に勝つなんて!」


 小声ながら進は興奮して紗奈に耳打ちをしていた。自分が散々負かされたからという理由もあったが、何でもできると思っていた悪郎の人間味が感じられるリアクションが見られたことが嬉しかった。親近感を覚えることができたからだ。


 進に褒められた紗奈は頬を少し赤らめながら照れ笑いを浮かべた。そしてがっくりと落ち込む悪郎に向かって「大丈夫?」と声をかける。


「何故だ紗奈、何故お前はそんなに強い?俺は本気でやった。父親か?そうだお前の父親が強いんだろう?プロか?プロなんだよな?そうだろ?」

「え?いや、普通の会社員だけど」

「そんなバカな!!それでは説明がつか…」


 興奮してきた悪郎は声量が大きくなってきていた。慌てた進が何度肩を叩いても気が付くことはなく、怒りの表情を浮かべて近づいてきていた松本の、底知れぬ怒気をまとった雰囲気を感じ取ってからようやく我に返った。


「言われるまでもないとは思うが、図書館を利用しているのは君たちだけじゃあない。誰もが利用できる空間だ、分け隔てなくね。だからこそルールがある、とても簡単なルールだ、騒がない、ただそれだけを守ってくれるだけでいい。さて君たちはどうするのかな?」

「あ、えっと。僕たちそろそろ片づけて出ていきます」


 進たちは将棋盤と駒をそそくさと片づけると、三人で松本にぺこぺこと頭を下げてから逃げ出すように図書室を後にした。




「あー怖かった。坂本先生ってあんなに怖い先生だったんだ。僕図書館なんて片手で数えられるくらいしか利用したことなかったから全然知らなかった…」

「いやいや、流石にあれは私たちが悪かったよ。坂本先生いつもは穏やかで優しい先生だよ」

「つい熱くなってしまった。悪かったな二人とも、あれは俺のせいだ」


 反省した悪郎はシュンとして俯いた。これまた珍しい姿だと進は思い、悪郎の肩を優しく叩いた。


「ま、そう落ち込むなよ。負けた悔しさ僕にはよく分かるよ、うんうん」


 皮肉たっぷりに頷きながら悪郎を挑発する進、その態度に怒る悪郎は拳を震わせながら言った。


「いい度胸だな進。後でどうなるか覚えておけよ?」

「暴力反対!」

「そんなことするか。最近トレーニングの質も量も生ぬるいと思わないか?どうだ俺の機嫌を損ねない方がいいんじゃあないか?うん?」

「鬼!悪魔!悪郎!」

「なんとでも言え。調子に乗った罰だ」


 二人のやり取りを見て微笑む紗奈、やっぱり本当の兄弟のようだと思った。仲睦まじい姿になごんでいる紗奈に悪郎が話しかけた。


「なあ紗奈、さっき言ったことは本当か?」

「何のこと?」

「お前に将棋を教えた父親のことだ」

「ああそれね、普通の会社員っていうのは本当だよ。ただ昔、本気で棋士になろうと勉強してたらしいよ」

「なるほどそれで…いやしかし、それだけの理由で俺が負けるだろうか…、ううむ気になる。気になるぞ…」


 ぶつぶつと独り言を言い始めて自分の世界に入り込んでしまった悪郎。それを放っておいて進は紗奈に聞いた。


「如月のお父さん棋士を目指していたの?」

「私もちょっと聞いたことあるだけだから、らしいってことだけしか知らないんだよね。ただ何度か大会に出て優勝したこともあるんだって」

「へえ、すごいね。本当に真剣にやってたんだ」

「どうなんだろう?あんまり深く聞いたことないからなあ…、なんか私も気になってきたし今度ちゃんと聞いてみようかな」


 進と紗奈がそんな話をしていると、自分の世界から戻ってきた悪郎がパンと大きく手を打ち鳴らした。びくっと驚いた二人の視線を集めると、悪郎はびしっと紗奈を指さした。


「紗奈!頼みがある!」

「頼み?」

「俺はお前の父親と将棋を指したい!何とか取り計らってくれないか?」

「はあ!?」

「え?別にいいよ。じゃあ進くんと一緒に家においでよ」

「はへ!?」

「やった!ありがとう紗奈!感謝する!」


 二重に驚く進をよそにガッツポーズをする悪郎。同級生の家に遊びにいく、しかもそれが紗奈の家となると進もただ黙っていることはできなかった。ガッと悪郎の肩に手をまわして、強引にぐっと引き寄せて耳打ちする。


「ちょちょちょっ!何言ってんだお前!」

「ああ?別にいいだろ?俺は将棋を指したいんだ」

「いやいやいや女子の家、ましてや如月の家に行くんだぞ!?」

「何だ?お前行きたくないのか?じゃあ俺だけで行く」

「頑なだなあ!」

「どうしたの?もしかして進くんは都合悪い?」

「いや大丈夫だ。こいつも一緒に行く」

「よかった。じゃあパパにいつなら都合がいいか聞いておくね」


 あれよあれよという間に紗奈の家へと行くことが決まり、嬉しくはあるのだが女子の家へ行くことに複雑な思いを抱く進と、それとは対照的にただただ喜ぶ悪郎、そして「楽しみだな」と鼻歌を口ずさんでいる紗奈と三者三様に思いを巡らせるのだった。

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