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第82話 もう一人の観測者

変異種という名前が付いても、アルスたちの生活が変異種だけになることはなかった。


ヴェルデ平原の一部では調査が続いている。学園には結果の一部が共有され、ティアの研究室にも魔石の比較記録が届く。それでも原因は不明のままで、学生である五人ができることは、得られた情報を覚えておくことくらいだった。


そして授業は続く。


剣術。

魔法制御。

魔物学。

野外活動。

歴史。

社会制度。


放課後には収納魔道具の研究もある。


第二次外部試用へ出した十台からも、少しずつ記録が届き始めていた。今のところ重大な破損はない。開閉回数の多い個体では可動部の摩耗が進み、運搬中心の個体では外装への擦り傷が増えている。


アルスはその日の記録を見ながら言った。

「こっちは分かりやすいんだけどな」


シリウスが隣を見る。

「収納魔道具?」


「うん。壊れたら原因を探せるし、直してまた試せる」


「変異種は?」


「何をしたらああなるのか、入口すら分からない」


ティアが奥から言う。

「分からんものは分からんまま置いとけ。無理に答えを作るな」


「分かってる」


だから、追わない。


今ある記録だけ残す。


通常のホーンラビットと違うこと。

魔石の反応が異なること。

人型種族の魔素に似た流れが含まれていること。

複数個体で似た傾向が確認されたこと。


そこまで。


その先は、まだ空白だった。


アルスは記録を閉じ、六固定点型へ戻る。


七固定点目を追加すると起きる管理競合。そこを解消するため、今は一つの制御部が複数の固定点を順番に管理する方式を試している。


「こっちは、分からなくても触れる」


アルスが小さく言う。


レインが笑った。

「だから研究が好きなんだろうね」


「たぶん」


分からない。


でも、試せる。


失敗する。


原因を見る。


少し直す。


アルスにとっては、それで十分だった。


その頃。


王都から遠く離れた場所で。


別の誰かも。


同じように記録を見ていた。


地下深く。


自然の洞窟を削っただけにも見える空間。


壁際には魔石が並んでいる。


小さいもの。

大きいもの。

透明に近いもの。

濁ったもの。


種類も。


魔物も。


すべて違う。


その中央に。


一人の男が立っていた。


細身。


黒い髪。


紅い瞳。


長い年月を生きていることなど、外見からは分からない。


男は机の上にある魔石へ指を触れた。


魔素が流れる。


通常なら。


ただ蓄え。


ただ放つだけの魔石。


その内部へ。


男の魔素が入り込む。


混ざる。


形を変える。


魔石の内部反応が乱れた。


男は。


すぐに手を離す。


数値を見る。


「まだ強すぎる」


独り言。


感情はほとんどない。


失敗を怒っているわけでも。


落胆しているわけでもない。


ただ。


結果を見ている。


別の魔石を取る。


今度は。


少し弱く。


流す。


反応。


変化。


記録。


「こちらは残るか」


男は紙へ書く。


魔石への干渉。


生体側への反応。


変異速度。


生存時間。


身体能力の変化。


理性。


攻撃性。


一つずつ。


世界各地で。


何度も。


同じことを繰り返してきた。


最初は。


魔石そのものを変えたかった。


魔物の体内で。


魔石がどう生まれ。


どう魔素を蓄え。


どう生物へ影響するのか。


そこを知りたかった。


しかし。


魔石へ手を入れると。


魔物そのものが変わる。


強くなる。


速くなる。


身体が変わる。


時には。


耐えられず死ぬ。


時には。


暴走する。


安定しない。


それでも。


変わる。


男は。


そこに興味を持った。


成功。


失敗。


そんな言葉では足りない。


変化する。


それだけで。


観測する価値がある。


男の名は。


ハーゼ。


魔族。


そして。


長い年月。


ほとんど誰とも関わらず。


研究を続けてきた者。


彼が欲しいのは。


国ではない。


権力でもない。


誰かを従わせることでもない。


知りたい。


試したい。


確かめたい。


ただ。


それを邪魔されない場所が欲しい。


いつか。


自分だけの世界を作る。


そのために。


神へ至る。


それが。


ハーゼの目的だった。


机の端には。


一つだけ。


他とは違う記録が置かれている。


小さな生き物。


魔物ではない。


普通の動物。


その体へ。


外から魔素を与える存在。


ハーゼは以前。


それを見た。


クロム。


理解できない存在。


魔物でもなく。


ただの動物でもない。


自分が長い年月かけて調べてきた魔素干渉を。


まるで自然な行為のように行う。


ハーゼは。


その時から。


魔石だけではなく。


生き物そのものへ興味を持ち始めた。


「外から与えても、生きられる」


ハーゼは古い記録を見る。


普通の動物。


魔素。


変化。


そこには。


自分の研究とは違う形で。


一つの答えがあった。


だから。


試す。


まず魔物。


魔石を通して。


少しずつ。


どこまで変えられるか。


どこから壊れるか。


どの程度なら生き残るか。


そして。


いつか。


魔物以外へ。


ハーゼは新しい魔石を手に取る。


今度は。


先ほどよりさらに弱い魔素を流した。


内部に。


自分の魔素がわずかに残る。


完全には消えない。


「これなら」


それ以上は言わない。


魔石を小さな容器へ入れる。


記録番号を付ける。


場所。


環境。


魔物の種類。


観測期間。


すべて書く。


彼は。


世界中の魔物を変えたいわけではない。


今はまだ。


ただ。


結果が欲しい。


何が起きるのか。


それを知りたい。


そして。


ヴェルデ平原で見つかった異常なホーンラビットも。


ハーゼにとっては。


数多くある観測結果の一つだった。


討伐されたことも。


大きな問題ではない。


死んだ。


なら。


どこまで耐えたのか。


どう戦ったのか。


何が原因で死んだのか。


それも。


結果。


ただ一つ。


ハーゼがまだ知らないことがあった。


そのホーンラビットを。


五人の学生が倒したこと。


その中の一人が。


魔石に残った異物を見つけたこと。


そして。


その少年が。


自分と同じように。


分からないものを。


分からないまま観測する人間であること。


ハーゼは。


アルスをまだ知らない。


アルスも。


ハーゼを知らない。


二人は。


会ったこともない。


それでも。


一つの魔石を挟んで。


すでに。


同じ現象を。


反対側から見ていた。


王都では。


アルスが六固定点型の記録を書き直している。


遠い地下では。


ハーゼが変異した魔石の記録を書いている。


どちらも。


結果を見る。


仮説を立てる。


試す。


失敗する。


また見る。


ただ。


その先に欲しいものだけが。


まったく違っていた。

挿絵(By みてみん)

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