第8話 学園へ
十二歳の朝。
アルスは目覚ましより少し早く目を覚ました。
「……起きた」
『おはようございます。予定時刻より十一分早い起床です』
枕元の浮遊観測体が静かに返す。
「十一分なら、もう起きようかな」
『睡眠時間は十分です』
「じゃあ起きる」
ベッドから降りる。
五歳の頃とは違い、床までの距離を意識することもなくなった。身体はまだ成長途中だが、幼児だった頃の感覚はもう遠い。
椅子には昨日から制服が掛けられている。
白を基調にしたシャツ。
濃い色の上着。
学園の紋章。
動きやすさを考えた細身のズボン。
アルスは上着を持ち上げた。
「これ、汚したら面倒そうだな」
『洗浄処理が可能です』
「そういう問題じゃない気もする」
扉が叩かれた。
「坊ちゃま、起きてます?」
「起きてるよ」
マリーが入ってくる。
「おはようございます。あら、自分で着替えるところでした?」
「もう十二歳だよ」
「五歳の頃から自分でやりたがってましたけどね」
「そうだっけ?」
「覚えてないんですか?」
「覚えてるけど、細かいところまでは」
マリーは笑いながら制服の襟を確認した。
「今日はさすがに私が見ます。最初の日ですから」
「曲がってる?」
「まだ着てもいません」
「じゃあ大丈夫じゃん」
「そういう話ではありません」
いつもの調子だった。
特別な日の朝でも、家の中はそれほど変わらない。
それがアルスにはありがたかった。
着替えを終えて食堂へ行くと、家族はすでに集まっていた。
「似合ってるじゃない」
エリシアが最初に言った。
「ありがとう」
クラウスはアルスを上から下まで眺める。
「やっと学生っぽくなったな」
「今日から学生だからね」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味?」
「なんかこう……あるだろ」
「分からない」
「もういい」
ソフィアが笑う。
「朝からいつも通りね」
アルベルトは食事をしながらアルスを見る。
「忘れ物はないか」
「確認した」
「もう一度確認しろ」
「昨日二回したよ」
「なら三回目だ」
アルスは少し考えた。
「分かった」
父のこういうところは、昔から変わらない。
食事を終え、結局もう一度持ち物を確認した。
教材。
筆記具。
学園用の身分証明。
浮遊観測体。
予備の魔石。
昼食については学園側で用意される。
「問題なし」
『確認済みです』
「父様にも言っておこう」
玄関へ向かうと、家族が見送りに集まっていた。
アルスは少し笑った。
「全員来るの?」
「初日くらいいいでしょう?」
ソフィアが言う。
「別に嫌じゃないけど」
エリシアがアルスの肩に触れる。
「楽しんできなさい」
「勉強しろ、じゃないんだ」
「それも必要だけど、三年間ずっと勉強だけしてどうするの」
「それはそうだね」
クラウスが横から言う。
「面白そうな奴いたら話しかけろよ」
「兄様はそうしてたの?」
「もちろん」
エリシアがすぐに口を挟む。
「嘘。向こうから話しかけられてたでしょ」
「結果は同じだ」
「全然違う」
二人が言い合い始める。
アルスは笑った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
屋敷を出た。
学園までは移動手段が用意されていたが、アルスは途中から外を眺めていた。
街には同じ制服を着た子供が増えていく。
一人で歩く者。
家族と一緒の者。
友人らしい相手と話している者。
種族も違う。
耳の形が違う者もいれば、体格が明らかに人族とは違う者もいる。獣人らしい特徴を持つ子供も普通に歩いていた。
アルスにとっては昔から見慣れた光景だ。
それでも今日は少し違って見える。
「全員、同級生の可能性があるのか」
『入学者であればその可能性があります』
「人数どれくらいだっけ?」
観測体が学園の公開情報を表示する。
「結構いるな」
全員と話すことはないだろう。
その中で、誰と知り合うのか。
誰と仲良くなるのか。
逆に、合わない人間もいるだろう。
それはまだ分からない。
学園が見えてきた。
アルスは窓の外を見る。
「大きいな」
何度か外から見たことはある。
映像でも知っている。
それでも、自分が今から通う場所として見ると印象が違った。
石造りの大きな校舎を中心に、いくつもの建物が広がっている。
訓練場。
研究棟。
図書施設。
実習区域。
遠くには魔法訓練用らしい広い空間も見える。
情報だけなら家でも得られる。
それでも学校が存在する理由は分かる。
実際に触る。
試す。
失敗する。
人と一緒にやる。
そういうものは、記録を見るだけでは同じにならない。
門をくぐる。
一気に人の声が増えた。
「すごいな」
アルスは思わず言った。
『何がでしょうか?』
「人」
『現在、入学者とその関係者が集中しています』
「そうじゃなくて」
アルスは周囲を見る。
緊張して黙っている子。
大声で笑っている子。
家族から離れようとしない子。
もう誰かと話し始めている子。
同じ十二歳でも全然違う。
「これだけいれば、考え方もかなり違いそうだ」
『その可能性は高いでしょう』
「楽しみだな」
受付を済ませる。
身分確認はすぐに終わった。
観測IDと学園側の記録が接続され、必要な情報が浮遊観測体へ追加される。
校内案内。
授業予定。
施設利用規則。
緊急時の連絡先。
アルスは表示された情報を眺めた。
「一気に増えた」
『必要に応じて整理できます』
「あとで見る」
今全部読む必要はない。
周囲には、同じように情報を確認している生徒がいる。
中には全く見ずに歩き出す者もいた。
「見ない人もいるんだ」
『事前に確認済みの可能性があります』
「ああ、そうか」
見えている行動だけで決めつけない。
それも何度も覚えたことだった。
入学式そのものは、アルスが想像していたより短かった。
学園についての説明。
安全上の注意。
施設利用の基本。
三年間の教育方針。
長い挨拶を延々と聞かされるようなものではない。
必要な説明が終わると、生徒たちはそれぞれの教室へ案内された。
廊下を歩きながら、アルスは教室番号を確認する。
「ここだ」
扉の前で一度止まった。
この向こうに同級生がいる。
今まで会ったことのない人間がいる。
五歳で前世の知識が戻ってから七年。
家族と屋敷を中心にしていた世界が、今日から大きく広がる。
アルスは扉に手をかけた。
緊張しているか。
少し考える。
「……してるな」
『心拍数は通常より僅かに上昇しています』
「そこまで測らなくていいよ」
『承知しました』
アルスは笑った。
そして扉を開けた。
十二歳から十五歳まで。
三年間の学園生活が、ここから始まる。




